第78話 旅の始まり
ユウは駆け寄ってくる彼女を、しばし言葉もなく見つめた。透きとおる白い肌に、栗色の髪。風が通るたび、髪飾りがかすかにきらめく。そして――耳が、長く尖っているのが目をひいた。
「……お前、エルフにしたのか」
「似合うでしょー?」
サラは得意げに微笑む。
ローブは黒色で、裾には金糸の刺繍。肩口の装飾が、かすかに魔力を帯びた光を放っていた。まるで本物の異世界の住人のような姿だ。
「おー……すげぇな。なんというか想像以上に本格的だ」
「でしょ? キャラメイクに二時間かけたもん。髪色もちょっと変えたり目の色とかも完璧に調整したの」
「二時間……俺なんて五分で終わったけど」
「ふふ。お兄ちゃん、昔からそうだもんね」
くすくすと笑うサラ。
その笑顔は、現実でも何度も見てきたはずなのに、少しだけ違って見えた。どこか楽しげで、まるでこの世界の空気に染まったような――そんな笑みだった。
「それで……えーと、その装備、魔法使い系か?」
「うん。《メイジ》って職業。魔法攻撃が得意なんだって」
「ふーん。なるほどな」
「ふふん、ちゃんと調べたんだよ。それでお兄ちゃんは? 職業、何にしたの?」
「ん? あー……」
ユウは少し気まずそうに頬をかく。
「実は、まだ設定してないんだよな」
「え、してないの? じゃあ……無職?」
「いやいや、言い方悪くないか?」
「だってそうでしょ? 職業なしって、完全にフリーター枠だよ」
「ゲームの世界にフリーターとかないから!」
「ふふっ、ある意味リアルだね」
「う、うるさいな……」
サラはおかしそうに笑いながら、袖で口元を隠した。風が二人の間を抜け、ローブの裾をそっと揺らす。ユウは小さくため息をつき、少し笑いながら肩をすくめた。
「まあ、正直職業なんかなくても、困ってないしなー」
「ほんと、そういう細かいの気にしないとこ昔から変わらないよね」
「褒めてる?」
「まあ、半分くらいは」
二人の間に、小さな笑い声が混じった。
そのやりとりに、周囲のプレイヤーたちがざわめいた。何人かは、気づいたように小声で囁き合っている。ヴェルムスで、蒼狐と仔竜を連れた男――その特徴は掲示板を見るものであれば、鮮明に思い出される。
ちらちらと向けられる視線には、敵意というよりも、どこか好奇と遠慮、あるいは憧れのようなものが混じっていた。けれど、ユウとサラはそんな周囲の反応などまるで気にする様子もなく、軽口を交わしながら談笑を続けていた。
「ていうか気になってたんだけど……お兄ちゃん、その服」
「ん?」
「まさかとは思うけど……初期装備のまま?」
ユウは少しだけ目を逸らした。
「……まあ、そうだな」
「うわぁ、やっぱり……!」
サラは頭を抱えるようにため息をつく。
「お兄ちゃんが戦闘とかあんまり興味ないのは知ってたけどさ……」
サラはユウの服を見て、あきれたようにため息をつく。
「まさか初期装備のままだとは思わなかったよ」
「いや、別に困ってないし。これで十分だろ」
「十分って……」
「強い敵と戦うわけでもないし、景色見て、のんびりして、キャンプして。そういうのが目的だからなー」
「おー、ほんとにスローライフを貫いてるんだね……」
「そりゃそうだ。癒やされるためにやってるのに、装備更新とか必要ないだろ」
「まあ、理屈としてはわかるけどね……ただ、ずっと同じ装備って逆に落ち着かなくない?」
「落ち着くぞ。もはや制服みたいなもんだ。それにゲームだから汚れとか気にしなくていいしな」
「いや、その発想がもうお兄ちゃんだよ……」
サラは呆れ半分、笑い半分で首を振る。
ユウは苦笑しながら肩をすくめた。
――このあたり、兄妹でまるでブレていない。
そのやり取りの横で、ルゥが不思議そうに首を傾げる。
「ぴぃ?」と鳴くと、セレスもちらりとサラの方を見た。
「あ、そうだ。こっちの子たちが、お兄ちゃんの仲間?」
「ああ、そうそう。紹介しとくか」
ユウは腕の中の仔竜を軽く持ち上げた。
「こっちがルゥ。俺の最初の相棒で、まあ相棒っていうより家族みたいなもんだな」
「ぴぃっ!」
その言葉に、ルゥの目がぱっと輝いた。
小さな前足を上げ、まるで聞いた?と言わんばかりに胸を張って鳴く。尻尾もぶんぶんと勢いよく揺れていて、どうやらユウに家族と呼ばれたのが嬉しかったらしい。
その可愛さに、サラの目が一瞬でとろける。
「わ、かわ……っ、え、なにこれ、反則でしょ……!」
手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。その様子を見て、ユウが小さく笑った。
「触っていいんじゃないか。ルゥ、サラは敵じゃないぞー」
ルゥは一瞬だけユウを見てから、ちょこんとサラの足元に降り立った。
小さな前足でぴょんと彼女のローブをつつく。
「ぴぃー」
「うわ、ほんとに可愛いー……!」
サラはおそるおそる撫で、目を輝かせた。その頭を優しく包むように撫でると、ルゥは喉を鳴らすように「ぴぃ〜」と甘い声を上げた。
「ふふ、ルゥちゃん、だね」
「……ちゃん付けか」
「だって可愛いもん」
サラが笑いながら言うと、ルゥは尻尾をぱたぱたと振った。
「で、こっちがセレス。蒼狐の幻獣だ。セレスも大事な俺の家族だな」
紹介を受けて、セレスは静かに一歩前へ。
その蒼白い毛並みが風に揺れ、光を受けてほのかに輝く。
「……コン」
その一声に、サラの背筋が少し伸びた。
美しさと気高さが同居したその姿に、ただ見惚れるしかなかった。
「セレスちゃん……綺麗……!」
思わず呟くと、セレスがわずかに尾を揺らし、嬉しそうに目を細めた。ルゥほど甘えてはいないが、敵意の欠片もない。サラがユウの家族だと理解している――そんな静かな親愛の空気が漂っていた。
「はは……ルゥもセレスも、ちゃんとサラのこと俺の妹ってわかってるのかもな」
「え?」
「普段なら、他のプレイヤーがいても完全スルーなのに……サラに対しては、どっちも最初から興味津々だったからな」
ユウがそう言うと、セレスはわずかに目を細め、ルゥは「ぴぃっ」と誇らしげに胸を張る。まるで当然でしょとでも言いたげだ。そのままサラに撫でられていたルゥが、ふと顔を上げる。そして、ぱたぱたと小さく尻尾を振りながら、今度はユウの方へと駆け寄ってきた。
「ぴぃー」
「ん、どうした?」
ユウの前でちょこんと座り込み、ルゥは見上げるように鳴いた。その意図を察して、ユウが笑いながら頭に手を伸ばすと、ルゥは嬉しそうに喉を鳴らす。どうやら妹にも撫でてもらったし、次は兄の番ということらしい。
「ふふ、そっか……妹って、ちゃんと認識してくれてるんだね」
サラがそう呟いた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。陽光の粒が髪の間を通り、淡く揺れる。ユウは無意識に、ほんの少しだけ目を細めた。
――正直、少しだけ気になっていた。
ルゥやセレスが、他のプレイヤーみたいに距離を取ったらどうしようかと。けれど、いざこうして見てみると、驚くほど自然だった。家族の輪が、ほんの少し広がったような――そんな穏やかな温かさが胸の奥に満ちていく。
「……それで、これから王都ミレナールに行くんだったよな」
「うん。けどさ――お兄ちゃん、どうやって行くつもり?」
「ん? 普通に、まっすぐ行けばいいんじゃないのか?」
「うわ、出た。適当発言」
サラは呆れたように笑いながら、指を動かす。空中に透明な地図ウィンドウが広がり、淡い光で街道と地形が浮かび上がる。
「ミレナールまでって結構遠いんだよ。途中にいくつか街があって、どこを経由するかで通るルートが変わるの」
「へぇ……そんなシステムになってるのか」
「そうそう。で、普通は中継都市をいくつか経由して行くんだけど……」
サラの指が、地図の一点をトン、と弾いた。青と白が入り組むように描かれた地域が、淡く輝きを増す。
「私のおすすめは、ここ。《水上都市ミレシア》!」
「水上都市?」
「うん! とにかく大きい湖の上に浮かぶ街で、建物の間を小舟で移動するんだって。昼は太陽の反射でキラキラしてて、夜は水面が全部ランプの光で輝くって公式サイトにあったよ。」
「……それ、めちゃくちゃ綺麗そうだな」
「でしょ? 行ってみたくない?」
「ああ、普通に興味ある」
ユウの言葉に、サラがぱっと笑顔を咲かせた。ルゥが「ぴぃっ」と鳴き、セレスも尾を揺らして応える。その瞬間、心の中に小さな高揚感が灯った。
「じゃあ、まずはパーティ組もっか」
「おう……ってどうやるんだ?」
「あ、そっか。お兄ちゃん、パーティ組むの初めて?」
「ああ。今までソロでしか遊んでこなかったからな」
「私からパーティーの招待を送るから、承認するだけで大丈夫だよ」
サラがそう言いながら軽やかに指先を動かすと、ユウの視界にも薄い光のウィンドウが現れた。
――《パーティ招待:サラ》
――《参加しますか? はい/いいえ》
「はいっと」
軽くタップした瞬間、澄んだ鐘の音が耳の奥に響いた。同時に、視界の端にユウとサラの名前が並んだ。
――《パーティが結成されました》
「おおー。なんか本格的に旅の始まりって感じするな」
ユウが笑うと、ルゥが「ぴぃ!」と鳴いて尻尾を振り、セレスは「……コン」と短く鳴いて応えた。パーティの成立を、二匹なりに理解しているらしい。
「よし、じゃあ改めて旅の始まりだね」
「おう。で、まずは……どっちに行けばいいんだ?」
「えーとね。ここから東の方に向かってまっすぐ行けば着くっぽいよ」
「なるほどなー。距離はそこそこって感じか」
「うん、途中の景色も綺麗だから、のんびり行こうよ」
二人と二匹は並んで歩き出す。ヴェルムスの街の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
香草の香り、焼き菓子の甘い匂い、商人たちの声――そのすべてが、穏やかに背中を押してくるようだった。
歩いて向かう途中、ユウはふと立ち止まり、ヴェルムスの景色を振り返った。
グラナート商会の重厚な建物、湖畔のキャンプ地、蒼白い光を放つセレスの毛並み、モフモフ同盟との衝突、そして焚き火のあたたかさ。この街周辺で過ごした数々の出来事が、まるで昨日のことのように胸の奥に浮かび上がる。
(なんだかんだ……ここにも、いろんな思い出ができたな)
最初はただ拠点を移しただけのつもりだった。
けれど、気づけばセレスが仲間になって、グラナートさんと出会って、そして今――妹と並んで歩いている。
ユウは小さく笑って、深く息を吸い込んだ。アップデートによって広がった世界の向こうには、まだ見ぬ風景が待っている。きっと、この世界の風は、また違う香りを運んでくるだろう。
「……楽しみだな」
「うん!」
サラが笑顔で頷き、ルゥが「ぴぃっ」と鳴く。
セレスは静かに尾を揺らし、東の彼方を見上げた。
背後ではヴェルムスの白い門が、太陽の光を受けてゆるやかに輝いている。
ユウはそのアーチの存在を感じながら、もう一度だけ街へ視線を戻した。
(ありがとう、ヴェルムス)
胸の中で小さくそう呟き、前を向く。
柔らかな風が頬を撫で、空の色が少しだけ明るくなった気がした。




