第77話 買い出し、妹との合流
グラナートへ旅立ちの別れを告げ、応接室をあとにしたユウは、ゆるやかに階段を下っていた。手すりに手を添え、四階から三階へと降りる途中――ふと思い出す。
「あ、そういえば……旅の準備、グラナート商会で揃えるつもりだったんだっけ」
グラナートへ挨拶したことで、すっかりもう一つの目的を忘れていた。しかし、言葉にしてみると、なんとも自分らしい忘れ方だと思わず苦笑が漏れる。腕の中の二匹もそれに反応したように、ルゥが「ぴぃ」と短く鳴く。セレスは静かに目を細めて頷くように尻尾を揺らした。
「はは、そうだな。せっかく来たんだし、買い物してから行こうか」
階段を降りきると、三階のフロアには磨き上げられた木製の棚が整然と並び、空気そのものに品のある香りが満ちていた。ユウは腕の中にいたルゥとセレスをそっと優しく床へ下ろして買い物を始める。ルゥは興味深そうに鼻をひくひく動かし、セレスは静かに周囲を見渡した。
『――三階は高級品や贅沢品じゃ。宝飾、貴金属、茶葉や酒、珍しい嗜好品……縁ある者にしか勧められんような物ばかりじゃな』
グラナートの言葉が、ふと脳裏をよぎった。なるほど、確かにその通りだ。
フロアの奥には宝石や装飾品を並べたショーケースがあり、光を受けてきらきらと輝いている。けれど、ユウはそちらにはあまり興味が湧かなかった。
どれも美しいが、自分の旅には似合わない――そう思いながら視線をずらす。
そちらからは、色々な種類の茶葉のほのかな香りが混じり合い、奥の方からはワイン樽の甘く芳醇な匂いが漂ってくる。
壁際にはずらりと並んだ酒瓶の列。ラベルには繊細な金文字が刻まれ、光を受けて静かに輝いている。見たことも聞いたこともない銘柄ばかりで、ユウは思わず感嘆の息を漏らした。
「……なるほどなー。確かに贅沢品って感じだな」
ずらりと並ぶ酒瓶のラベルがフロアの光を受けて反射する。
「しかし、こうして見ると……酒の種類、結構あるんだな」
ユウは一番手前の棚に並んでいる、少し気になった瓶を手に取る。深緑色のガラスの中で、液体がとろりと揺れる。ラベルには《翠雫》と書いてある。瓶の脇には、淡い光を帯びた商品説明のプレートが設置されていて、そこにはこう記されていた。
――《翠雫》:北方の山岳地帯で採れる〈霧の果実〉を原料にした淡緑のリキュール。雪解けの水を思わせる澄んだ香りと、果実のやわらかな甘みが口の中で静かに広がる。冷やしても温めても風味が変わり、飲むたびに表情を変える逸品。
「へえ……冷やしても温めてもいいのか。これ、良さそうだな」
ユウは瓶を軽く傾け、光にかざしてみる。とろりとした液体の中で、薄い金の粒がゆらめく。《星光酒》ほど高価ではないだろうが、それでも上品な香りが漂う銘柄だった。
「グラナートさんに貰ったやつほどじゃないけど……これくらいなら、旅の夜にちびちび飲むのもいいかもなー」
そう楽しみを呟くユウの足元で、ルゥが小さく首を傾げた。赤い瞳が瓶をじっと見つめ、興味津々といった様子で「ぴぃ?」と鳴く。
「ん? ルゥ、興味あるのか?」
ルゥは赤い目をキラキラと輝かせて、こくりと頷いた。
が、ユウは苦笑いしながら、その小さな額を指で軽くつつく。
「残念だけど、これはまだ早いかもなー。ルゥが飲んだら酔っ払って、すぐ寝ちゃいそうだし」
「ぴぃっ!」
抗議のような声とともに、ルゥのほっぺがぷくっと膨らむ。
セレスがその様子を見て、くすりと笑ったように尾を揺らす。
「お、怒ったのか?」
ユウは軽く笑いながら、ルゥのぷくっと膨れた頬を指でつん、とつついた。ぷしゅっと小さく音がして、ルゥの口から空気が抜ける。
「ぴぃ〜……」
「はは、悪かった悪かった。ちゃんと甘い飲み物でも買ってやるからな」
その言葉に、ルゥの瞳がぱっと輝き、すぐに機嫌を直し、尻尾をぶんぶんと振る。そんなやり取りに、セレスが小さくため息をつくように喉を鳴らした。
「ふふ、せっかくだし他にも色々買っておこうか」
ユウは近くの棚に並ぶ瓶を眺めながら歩き出した。
並んでいるのは、茶葉や果実のジュース、香りのよいシロップなど。どれも露天に並んでいるものと比べると明らかに質のいい高級品だ。
「これは……花蜜の果汁ジュースか。セレスにはこういう香りのやつ、似合いそうだな」
そう呟きながら、淡い琥珀色の瓶を手に取る。封を開ければ、たぶん花のような香りが広がるのだろう。隣の棚には、ルゥが好きそうな甘い果実ジュースがいくつか並んでいた。
「こっちはルゥ用、かな」
ユウはふたりの顔を見比べ、少し照れくさそうに笑う。
「せっかく、ルゥとセレスのおかげでお金はあるんだし、たまには贅沢させてやらないとな。……俺だけ楽しむのも絶対違うし」
その言葉に、ルゥは尻尾をぶんぶんと振り、セレスは目を細めて小さく「……コン」と鳴いた。ユウはそんな二匹の反応に思わず笑みをこぼす。
階段を下り、次に立ち寄ったのは二階――生活雑貨を扱うフロアだった。木目調の床には柔らかな陽光が差し込み、布や革の匂いが心地よく混じり合っている。ここは以前手入れ道具を買ったときと同じように、とても落ち着いた良い雰囲気があった。
「さて……次は旅の支度だな」
棚には衣服や毛布、調理器具、家具まで、なんでも揃っていた。まるで小さな町の市場をそのまま詰め込んだような光景だ。ユウはその中でも、ふわりと光を反射する布地に目を留めた。
「お、これはなかなか……いい手触りだな」
並んでいた毛布の一枚をそっと手に取る。指先が沈むほどに柔らかく、毛は細かくて、まるで生きているように温もりを返してくる。
それを軽く頬に当ててみた瞬間――
すっ、と横から影が差した。
ユウの足元に、蒼白い毛並みの幻獣が静かに近づいていた。
セレスは無言のまま、ユウの足に軽く頭突きをした。控えめながらも、はっきりとした主張。
「ん? セレス?」
首を傾げるユウに、セレスは何も言わず、もう一度、ぐいっと額を押しつける。そして尾をゆるりと揺らし、少しだけ顔を背けた。
「……もしかして、毛布に嫉妬してるのか?」
ユウは思わず笑ってしまった。
セレスは何も答えないが、耳の先がほんのわずかに赤みを帯びているように見えた。その仕草が可愛くて、胸がきゅっと温かくなる。
「ごめんごめん。……ほら、セレスの毛並みの方が、ずっと気持ちいいし」
そう言って、ユウはしゃがみ込み、そっとセレスの頭を撫でた。指先に伝わる感触は、まさしく極上の絹のようだ。セレスは小さく目を細め、喉の奥で「……コン」と鳴いた。
その様子を見ていたルゥが、ユウの足元で跳ねて身を乗り出し、「ぴぃぃ」と鳴いて自分も撫でてと訴える。
「はいはい、わかってるって」
ユウは笑いながら、ルゥの頭も軽く撫でた。その瞬間、セレスが小さく尻尾を揺らし、ルゥの鼻先をちょんと突く。ルゥが「ぴっ!?」と驚いた声を上げ、三人の間に柔らかな笑いが生まれた。
「はは……よし、この毛布もせっかくだし買ってくか。夜はこれであったかく過ごせそうだ」
ユウは、次に家具コーナーへと足を向けた。目に入ったのは、以前自分が買ったのと同じリクライニング式の椅子だった。
「紗良も同じの使えば、きっと気に入るだろうな」
そう呟きながら、同じ型を選び、さらに折りたたみ式の机も追加する。
「ふふ、だんだん本格的に旅の準備が整ってきたな」
ルゥが楽しげに「ぴぃ」と鳴き、セレスは静かに尾を揺らした。二匹とも、これから始まる新しい旅の準備を理解しているようだった。
最後にユウたちは、一階のフロアへと降りた。他の階と同じく、ここも静かな空気に包まれている。棚には香辛料や乾燥肉、保存用のパン、希少な調味料が整然と並び、ほんのりと漂うスパイスの香りが鼻をくすぐった。
中央には相変わらず円形のディスプレイ台があり、肉や魚などが用途ごとに整然と別れている。
「さて、あとは腹ごしらえの準備か」
ユウはディスプレイの中から、見事な霜降りの肉をひとつ手に取る。赤身と脂のバランスが絶妙で、焚き火で焼けば、それだけで最高の一皿になりそうだった。その隣でルゥが、きらきらした目を輝かせながら身を乗り出す。
「……ふふ、やっぱり分かるか? いい肉だろ」
「ぴぃ!」
元気よく鳴くルゥに、ユウは笑みをこぼす。セレスも静かに目を細め、尻尾をゆるやかに揺らした。ユウは肉と数種類の調味料、野菜、そしてセレスが気に入りそうな香草も購入品に追加する。
そして、三階・二階での買い物も含め、すべての支払いをまとめて済ませると、ユウは購入品をインベントリに順番にしまっていく。淡い光が吸い込むように消え、代わりに静けさだけが残った。小さく息を吐きながら、ユウはほっと肩の力を抜く。
「……よし。これで旅の準備は、ひと通り完了だな」
インベントリを閉じた瞬間、胸の奥にふっと高揚感が灯る。
まるで、新しい章の扉が静かに開く音がしたようだった。
「……さて。あとは――紗良と合流するだけか」
ユウは穏やかに呟き、深く息を吸い込む。
「じゃあ、ちょっと連絡してくるな」
ユウは二匹に声をかけ、そのままメニューウィンドウを開き、ログアウトの光に包まれた。静寂とともに、視界がやわらかく白く溶けていく。
◇◇◇
現実。
黒いVR端末を外したユウは、ゆっくりと伸びをした。
休日の夕方の柔らかな光が部屋のカーテン越しに差し込んでいる。
「ふぅ……やっぱり現実に戻ると、少し重力を感じる気がするな」
苦笑しながらスマホを手に取り、メッセージアプリを開く。
すでに紗良から新着メッセージが届いていた。
――《ログイン準備完了したよ! どこで会う?》
「気が早いな……」
ユウは思わず笑って、返信を打ち込む。
――《ヴェルムスの門の前にいるから、来たら声かけてくれ》
送信ボタンを押すと、スマホの画面を伏せ、もう一度ヘッドギアを手に取った。
「よし、行くか」
◇◇◇
風と光が戻ってくる。再度ログインしたユウを迎えたのは、グラナート商会の中で行儀よく並んで座っているルゥとセレスだった。二匹とも、ちゃんとその場で待っていたらしい。
「……おまたせ」
ユウが声をかけると、ルゥが「ぴぃ!」と鳴き、勢いよく駆け寄ってくる。セレスも静かに立ち上がり、尾をふわりと揺らした。
「さて――行くぞ。ヴェルムスの門まで、もうひと歩きだ」
ユウは二匹を軽く抱き上げ、グラナート商会の重厚な扉を押し開けた。外の光が一気に差し込み、暖かな風が頬を撫でる。大通りは昼下がりの光に包まれ、石畳の上を馬車がゆっくりと進んでいく。香草や焼き菓子の甘い香りが風に混じり、露店からは商人たちの穏やかな声が聞こえた。
ルゥがその匂いに釣られて鼻をひくひくと動かし、セレスはそんな仔竜をたしなめるように尾で軽く叩く。ユウはその様子に小さく笑いながら、門のある大通りの先へと歩を進めた。
やがて、遠くに白い門が見えてくる。陽光を受けて輝くそのアーチは、まるで新しい旅の幕開けを告げるようだった。
ヴェルムスの白い門の前。
ユウは二匹を腕に抱えたまま、のんびりと妹を待っていた。
「さて、どんなキャラで来るんだろうな……」
そう呟いてから、ふと気づく。
「……あ、やべ。そういえば俺の見た目、伝えてなかった」
途端に少し不安になる。
人混みの中、声をかけられなかったらどうしよう――と考えたそのとき。
「――お兄ちゃん」
背後から聞き慣れた声が響いた。
明るくて、少し弾むような、現実と変わらない声。
ユウは振り返る。
そこには、軽やかな足取りで駆け寄ってくる女性プレイヤーの姿があった。
夕陽を受けて、栗色の髪がきらきらと揺れる。
「……まさか、お前が紗良か」
「ふふっ。こっちじゃはじめましてだね、お兄ちゃん」
駆け寄った彼女が笑顔で手を振る。
その笑顔を見た瞬間、ユウの胸の奥に、懐かしいあたたかさが広がった。




