第76話 グラナートへの挨拶
ヴェルムスの白い門が、太陽の光を受けてゆるやかに輝いていた。その石造りの巨大なアーチを、ユウは二匹を抱えたままくぐる。腕の中では、相変わらずルゥが気持ちよさそうにセレスのモフモフな毛並みに体を包まれ、喉を鳴らしている。
街へ一歩足を踏み入れた瞬間――
ユウは、周囲の視線を肌で感じた。
露骨な敵意ではない。けれど、確かにこちらを意識している。周囲の人々のざわめきの奥に、静かな好奇と遠慮が入り混じっていた。
周りに目を向けると、プレイヤーたちは誰も近づいてはこない。代わりに、通りを挟んで遠巻きにこちらを見ている者が多い。その視線には、ある種の憧れのような光があった。
(……ああ、なるほどな)
ユウは心の中で苦笑した。
モフモフ同盟との一件――あの騒動が、すでに多くのプレイヤーに広まっているのだろう。湖畔でただキャンプを楽しんでいた自分が、注目される人物のひとりになっている。ユウはなんだか不思議な気分になっていた。
(いやいや、俺はただキャンプしてただけなんだけどな……)
苦笑を漏らしながら、彼は腕の中の二匹を見下ろした。
ルゥはまだ夢の中にいるようで、もふもふのセレスの毛に顔を埋めてスヤスヤとしている。セレスもいつも通り周囲の視線などまったく気にしておらず、ユウの腕の中でのんびりとリラックスしている。
(まあ……近くに寄ってこられるよりは、ずっといいか)
ユウは思う。
以前の一件は、無名のプレイヤーということを理由に「セレスをよこせ」と絡まれたことが始まりだった。あの時の理不尽さを思い出すと、今こうして注目を浴びながらも、誰も不用意に距離を詰めてこないような距離感が、どこかありがたく感じられる。
(よし。ここはプラスに考えよう。こうして二人とのんびり街を歩けるんだから)
心の中でそう呟き、ユウはヴェルムスの石畳をゆっくりと歩き出した。街の喧騒の中、遠くからたくさんの声が響いてくる。風は露天にある花の香りを運び、行き交う商人たちの声が通りを満たしていた。
やがて、馴染みのある看板が視界に入る。
――《グラナート商会》
大通りに面した堂々たる建物。
白い石壁に黒い窓枠。赤い宝玉をかたどった紋章を正面に掲げた、四階建ての豪華な大商会。出入りする人々の服装からしても、この街で最も影響力のある商会ということは疑いようのない事実だった。
「さて……まずはグラナートさんに挨拶に行くか」
ユウは軽く息を吐き、商会の前に立つ。
衛兵のひとりが、すぐに気づいたようだった。鎧姿の男が、笑みを浮かべて近づいてくる。
「おや、お客様。お久しぶりですね」
「お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「はは。もちろんですとも。……今日はまた、お三方で?」
「ええ。ちょっとグラナートさんにご挨拶をと思いまして」
ユウが頭を下げると、衛兵は「少々お待ちを」と言って奥へ向かった。
やがて数分も経たないうちに戻ってきて、軽く会釈をする。
「会長が、応接室でお待ちとのことです。どうぞ中へ」
「ありがとうございます」
ユウは礼を述べて中へ入った。
ユウが少し慣れた様子で四階に上がっていき、その奥に設けられた応接室へと通されると、そこにはいつもの柔和な笑みを浮かべたグラナートが待っていた。
「おお、よく来たの。……そして、相変わらず仲が良さそうじゃのう」
グラナートの視線が、ユウの腕に抱かれた二匹へと向く。ルゥはその視線に挨拶するように尻尾をゆらりと揺らし、セレスは静かに瞬きを返した。その穏やかな光景に、グラナートの顔がふっと緩む。
「ええ、おかげさまで」
ユウが笑って答えると、腕の中の二匹も呼応するように「ぴぃ」「……コン」と鳴いた。グラナートはその様子に目を細め、優しく頷いた。
「それで今日は、どうしたのかの?」
ユウは一度息を吸い、姿勢を正した。
「実は……近いうちに《アーヴェンティア》へ向かおうと思いまして」
「おお……自然と共に生きる王国じゃな。なるほど、いよいよここから旅立つわけじゃな」
「ええ。その前に、グラナートさんに挨拶だけでもと思いまして」
そう言って頭を下げるユウに、グラナートは目を細めて笑う。
「ほほほ。まったく……お主は相変わらず律儀じゃの。儂など、ただ商人として少し助言をしただけの老骨じゃというのに」
「いえ、グラナートさんには本当にお世話になりました。それに……今日はもうひとつ、渡したいものがあって来ました」
「ほう?」
ユウはそう言うと、インベントリを開く。
淡い光と共に手のひらに現れたのは――一枚の小さな銀色の鱗。
小さくても、見る者を惹きつけるような美しい輝きを放っていた。
「これは……仔竜の鱗か?」
「はい。前にグラナートさんに大事に保管しておけって言われましたけど、俺としては、この縁を大事にしたいんです。だから、もしよかったら――お守りとして、受け取ってもらえませんか?」
ユウの声は静かだった。けれど、そこには強く確かな想いが込められていた。その空気を感じ取ったのか、ルゥもセレスも同調するように小さく鳴いて頷いたように見えた。
グラナートは目を細め、少しの間だけ黙っていた。
やがて、その手を差し出す。
「……ありがたく受け取らせてもらおうかの」
両手で丁寧に鱗を受け取り、光にかざすようにしてその表面を見つめる。鱗の内側では、淡い光がゆっくりと揺れていた。
「しかし……ほんとに美しいの。まるで息づいておるようじゃ。こんな貴重なものを受け取ることになるとは……長い人生なにがあるか、わからんの」
「ええ、まあ……俺にとってはそんなに珍しくないもので若干申し訳ないんですけど。でもグラナートさんに出会えた縁は、大事にしたいなと思いまして」
ユウが少し照れたようにそう言うと、グラナートは深く頷いた。
「ふむ……その言葉、嬉しく思うぞ。しかし、こうして貰ってばかりでは商人として落ち着かんの」
少し笑ってから、グラナートは手元のベルを軽く鳴らした。
奥の扉から控えめに現れたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。
「どうなさいましたか、会長?」
「先週手に入れた例の品を、持ってきてくれんか」
秘書は一瞬だけユウの方に視線を向け、目を見開いた。
「……あんなに楽しみにしておられたものを、ですか?」
「うむ。儂も、この縁を大事にしたいでの」
その言葉に、ユウは何が出てくるのかわからず、目を瞬かせた。
秘書は一礼して部屋を出ていった。
扉が静かに閉まると、グラナートは軽く息を吐き、ユウの方を向いた。
「……少し待たせてしまうがの。その間に、ひとつ聞いておこうか。お主……酒は飲めるか?」
「え?」
思わぬ質問にユウは一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑った。
「まあ、人並みには好きですね」
「ほっほっほ。それなら良かった」
ほどなくして、秘書が戻ってきた。両手には、重厚な木箱。
その箱をそっと机の上に置き、丁寧に蓋を開ける。
中には、深い青色の瓶が一本。
ラベルには、金色の筆記体で《星光酒》と刻まれていた。
「……これは?」
ユウが思わず息を呑む。
見ただけでも分かる。明らかな高級品だ。
「儂でも、滅多に手に入らん逸品じゃよ」
グラナートは、手のひらで瓶の首を支えながら言った。
「魔導王国エルフィンシアで醸造しておる星光酒じゃ。熟成の過程で微量の魔素を取り込み、封印魔法で時を止めておるそうじゃな。儂もこればかりは、なかなか手に入らんくての」
「そ、そんな貴重なものを……いいんですか?」
ユウが目を丸くする。
だがグラナートは首を横に振り、穏やかに笑った。
「はっきり言ってのう。その仔竜の鱗の価値に比べたら、こんな酒など取るに足らん。むしろ、そんな貴重なものを受け取っておいて何も返さぬ方が、儂の商人としての矜持に反するわい」
そう言って、グラナートは瓶をユウの前に差し出す。
その仕草には豪胆さと誠意があった。
「どうか受け取ってくれ。儂にとっても、この出会いは大事にしたいのでな」
ユウはしばらく黙って瓶を見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。大事に、いただきます」
その手で瓶を抱くように受け取り、心からの笑みを浮かべる。その姿に、グラナートも満足そうに目を細めた。
「ふむ。よい表情じゃ。次に会うときは、また少し逞しくなっとるかもしれんな」
「それは……どうでしょうね。でも、楽しみではあります」
ユウは少し笑って言う。
「けど、ここに戻ってきたら、また顔を出しますよ」
「ほっほっほ。それは楽しみじゃの。次に来る時は、この酒の別の銘柄を用意しておこうかの」
「それは……楽しみにしてます」
「……とはいえ、儂の勘じゃがの。案外、再会するのはそう遠い未来ではなさそうな気がするわい」
二人の笑い声が、柔らかく部屋に満ちる。
外では、昼の鐘がゆっくりとヴェルムスに鳴り始めていた。
その音が遠くの空気を震わせ、どこか旅立ちの合図のように響く。
ユウは席を立ち、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「儂の方こそ、感謝しておる。道中、気をつけてな。……そして、また笑顔で会おう」
グラナートは重々しく頷いた。
ユウは手に持つ瓶をインベントリに仕舞い、ルゥとセレスを抱き直して、扉の前で振り返る。
陽光が、窓から差し込んで二人の間を照らしていた。
「それじゃあ――行ってきます」
「うむ。いってらっしゃい」
穏やかな声とともに、扉が静かに閉まる。
廊下の空気は、来たときよりほんの少しだけ暖かかった。
窓から差し込む風がカーテンを揺らし、その中でルゥの小さな鳴き声がやわらかく響く。
それはまるで――新しい旅の始まりを告げる音のようだった。




