第27話 甘えん坊と焼き魚、謎の老人??
――ここから、また新しい日々が始まる。
その確信を胸に、ユウは再びログインした。
朝の森、陽がまだ斜めに差し込む時間帯、森を抜けた空気はひんやりとしていて、肌に触れるたびに、どこか清らかな感覚を残していく。
「ほんと……いい場所だな」
湖面は鏡のように澄み、波ひとつなかった。ときおり風が吹けば、陽光を細かく砕くように揺らぎ、小鳥のさえずりが水音と重なって消えていった。
ユウは軽く伸びをしながら呟いた。
「んー……今日は釣りをしようかな」
ユウは深呼吸をし、湖畔の草地に腰を下ろした。
肩口のフードの中から、赤い瞳がのぞく。
ルゥが眠たそうにあくびをして、ひょこんと顔を出した。
「ぴぃ……」
「おはよう、ルゥ。今日は釣りだぞ」
そう声をかけると、ルゥはひょこんと顔をすり寄せてきた。鼻先でユウの頬をつんと突き、そのまま首筋に身体を預けてくる。
「相変わらず……甘えん坊だな」
ユウは指で頭を優しく撫で、フードの中の温もりを感じながら荷を下ろした。
昨日は新しいキャンプ地を見つけ、焚き火のそばで眠りについた。今日は、この湖畔での最初の朝。魚を釣って焼いてみたい――そう思っていた。
ユウは簡素な釣竿を取り出す。
枝を削って作られた簡素な竿だが、十分に使える。
「よし、やってみるか」
少し気合を入れてから糸を垂らすと、湖面に小さな波紋が広がる。
ルゥは赤い瞳を輝かせ、じっと水面を見つめていた。
尾をゆらゆらと揺らし、時折ユウの腕に小さく鼻先を押し付けてくる。
「はは、気になるのか? 釣れるかどうか……」
ぴ、と短く鳴いて頷くように見上げる。
ユウは笑みを浮かべて、竿を握る手に少し力を込めた。
風が吹く。森の葉擦れがさやさやと鳴り、湖の表面に細かなさざ波を生んでいく。
しばらくの沈黙。
静かな時間が流れ、ユウは半ば瞼を落としながら、心地よい時間を楽しんでいた。
そのとき――。
「ぴっ!」
ルゥが鳴いた。しっぽがピンと立ち、水面を指す。
「……きたな」
竿がぐんと引かれる。ユウは素早く合わせて、ぐいっと引き寄せた。
水しぶきが上がり、小さな魚が糸の先で跳ねていた。
「お、やった……けど、ちょっと小さいな」
掌ほどの魚。焼けば一口で終わりそうな大きさだった。
ユウが苦笑すると、ルゥは首をかしげてじっと魚を見つめる。鼻先をちょんと近づけ、ふにゃっとした声を出した。
「ぴぃ……」
「まあまあ。最初はこんなもんだ」
ユウは魚をバケツに移すと、再び糸を垂らした。
……二度目の当たりは意外に早かった。
「ぴぃぃっ!」
今度はルゥが小さな翼をばたつかせるほど興奮している。竿は大きくしなり、水面下で力強い影が暴れていた。
「おおっ、こいつは大物か!」
ユウは踏ん張りながら糸を引く。湖面に白い飛沫が上がり、銀色に光る魚体が現れた。
引き上げたのは、二十センチを超える立派な魚だった。
朝日に濡れた鱗がきらめき、ルゥは「ぴぃぴぃ!」と歓声のような声を上げる。
「よし、今日はこれを焼こうな」
ユウが笑いながら言うと、ルゥはぴょんぴょんと跳ねて尾でユウの腕を何度も叩いた。その様子にユウは思わず吹き出す。
「そんなに喜んでくれるなら、苦労した甲斐もあるってもんだ」
昼前には、大小あわせて五匹ほど釣ることが出来た。
ルゥはそのたびに尾をぶんぶん揺らし、合間にはユウの手をちょんちょんと鼻先でつついて「撫でて」とせがむ。
そして、撫でてもらうと、うっとりした顔で小さく喉を鳴らした。
「釣りのときは、ほんと甘えん坊になるな」
そう冗談めかしてユウが言うと、ルゥは小さく甘噛みをして抗議し、それから膝に丸まって眠そうに目を細めた。
ユウは満足げに息を吐き、焚き火の準備に取りかかる。
枝を集め、石を円形に並べて火床を作る。昨日と同じ作業だが、少しでも場所が違えば匂いも風の感じ方も異なり、それだけで新鮮に感じられる。
火打石を打ち、麻紐に火が移る。乾いた薪がぱちぱちと音を立て、やがて炎が上がった。
「さてと……」
ユウは釣った魚を捌き、内臓を取り除いて冷たい湖水で洗う。湖の水は澄んでいて、指先がきりりと冷える。
魚を串に刺し、少し強めに塩を振る。
焚き火の炎のそばに並べれば、じゅわりと上質な脂が滲み出て、香ばしい匂いが漂いはじめる。
「……いい匂いだろ」
ルゥはすでに我慢できない様子で、しっぽをぱたぱたと叩いている。赤い瞳が魚に釘付けだ。時々、鼻先でユウの肘を突いて「まだ?」と訴える。
「もう少し待てよ。軽く焦げ目がついたら食べごろだ」
ユウは火加減を見守りながら、時折串を回す。
脂が滴り、火花が弾ける。煙が鼻をくすぐり、唾が自然と湧いてきた。
やがて魚の皮にぱりりとした焦げ目がついた。
ユウは一番の大物を刺した一本を手に取り、ルゥの前に差し出す。
「ほら、熱いから気をつけろよ」
ルゥはぴぃと短く鳴き、慎重に魚へ口を近づける。
小さくはふっと息を吹き、かじりついた。
ぱりっという音。次の瞬間、ルゥの目が見開かれ、尻尾が大きく跳ねた。
「ぴぃぃぃ!」
それは歓喜の声だった。
ルゥは夢中で魚を食べ進め、骨だけが残るまできれいに平らげた。
「そんなに気に入ったか。……よかったよかった」
ユウは自分の分も口に運ぶ。塩と魚の旨味が絶妙に絡み合い、噛むほどに味わいが広がる。
シンプルだが、これこそ焚き火料理の真骨頂だと感じられるほど美味しかった。
二人で黙々と魚を食べ、満足した頃には、焚き火の炎は少し穏やかに落ち着いていた。
食後、ユウは草の上に背を預け、空を仰いだ。
雲がゆっくりと流れ、鳥が湖面をかすめて飛んでいく。
「……こういうの、リアルでもできたらいいんだけどな」
つい本音がこぼれる。
ルゥはお腹に乗り、満腹でとろんとした目をしている。喉を鳴らし、尾でユウの腕をとんとん叩き、もっと撫でろと催促してくる。
「はいはい……ほんと、甘えん坊になったな」
ユウは笑いながらその小さな頭を撫で、ふと呟いた。
「おまえがいるから、余計に贅沢に感じるんだろうな」
――そのとき。
「焚き火とは、また風情のあることをしとるな」
背後から、低く落ち着いた声が響いた。
ユウは振り返る。そこには、一人の老人が立っていた。
背筋はすっと伸び、白髪を後ろで束ね、飾り気はないが、仕立ての良さが伝わる服を纏っている。手には年季の入った釣竿を携え、その姿からはただ者ではない気配が滲んでいた。
「……」
ユウは思わず言葉を失った。
その佇まいには、不思議な貫禄があった。
――そうだ。リアルで一度、仕事先の社長と会食したとき、同じ空気を感じた。
威圧するでもなく、自然と場を支配してしまう存在感のようなもの。
「この釣り場は、わしのお気に入りでな。人が寄りつくことは、あまりないのだが……まさか若いのが焚き火をしておるとはな」
老人はにやりと笑った。
声も仕草も穏やかだが、目の奥には長い年月を積み重ねた者だけが持つ静かな光が宿っている。
「すみません、勝手に場所を使ってしまって」
ユウが頭を下げると、老人は手を振って笑った。
「気にするな。焚き火と魚の匂い……久々に良いもんを見せてもろうた」
焚き火の煙が揺れ、湖面が光を跳ね返す。
ユウは老人の存在感に少し圧倒されながらも、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
――ただの釣り好きの老人なのか、それとも。
(……なんか、ただのおじいさんじゃなさそうだな)
ルゥは相変わらずユウのお腹の上に乗り、満腹でとろんとした目をしている。
その穏やかな仕草に、緊張感はどこにもなかった。
そうして、老人はゆっくりと歩み寄り、焚き火の向こう側に静かに腰を下ろした。




