1. タッチ
side:森くん
教室の入口近く、わぁとかひゃあとか気の抜けた声がして、俺は思わず顔を上げた。朝のホームルームが始まる前。集まって雑談したり一人でぼうっとしたり、みんな思い思いに過ごしている。そんなまったりとした空気を、いつものごとく女子の話し声がかき乱していた。
けれど今日はほんの少しだけ、違っていたみたいだ。
「へー。珍しい」
先にそちらを見やっていた江崎がつぶやいた。
「小川さんが主役みたいだな。囲まれている」
「小川が?」
信じられなくて、つい集団を見つめてしまう。地味とは言わないまでも、クラスの中でさして目立たない存在の小川が、確かにその輪の中心にいた。
「珍しい」
もう一度、江崎がつぶやく。俺達はそのままなんとなく話を止めて、女子のかたまりを見つめ続ける。けれど状況も把握しないうちにチャイムは鳴り、それを機会に小川は輪からすり抜けてしまった。目指すのは自分の席、つまりは俺の後ろ。次第に近付くその顔になんとなく違和感を覚え、観察する。そして次に納得した。
「そっか。メガネだ」
「メガネ?」
訳が分からないと言った表情で、江崎が繰り返す。
「メガネしていないんだよ。だからじゃないか?」
江崎は言われてようやく気が付いたようで、ああとつぶやきうなずいた。
「っと、さっきの話。続きは次の休み時間にな」
もう小川への興味は失ったらしい。今まで話していた部活の話題を持ち出すと、自分の席に戻ってゆく。
「またな」
合わせるようにうなずいたけれど、江崎とは反対に自分の意識は小川に移っていた。
何でメガネを外しているんだろう。壊したのかな。でもそれにしては、囲んでいた女子も妙に盛り上がって浮ついていたし。けれど本人に問いかける間もなく先生がやって来て、俺は慌しく前を向いた。
小川とは、二学期の席替えで前後になってから話すようになった。こっちが話しかけると反射的にびくっとする。そのくせ怯えている訳でもない。結構気も強かったりするんだ。元々、警戒心が強いのかもしれない。それがリスとかハムスターを連想させる。
けどお早うとか昨日の宿題やったかとか、どうでも良い話をする度にちょっとずつ打ち解けてきた。最近では身構えることなく普通に話すし、笑顔を見せるようにもなってきている。なんだか小動物が少しずつ人に慣れてくる感じ。
「あっれ? 小川、今日はメガネ無し?」
一時限目の終了を告げるチャイムが鳴って、早速小川に話かける。本当はとっくに気が付いていたくせに、まるで初めて知ったような素振りをした。
「コンタクト、にしたの」
そう説明する口調が固い。視線を泳がせて、こちらと目を合わせようとしない。まるでこれ以上見ないでくれと言っているみたいだ。
「コンタクトか。へー」
高校に入ってメガネからコンタクトに替える人間がほとんどの中、小川はずっとメガネ派だった。そんな彼女が今更ながらコンタクトに挑戦して、それだけでなぜか緊張している。やっぱりこういう反応の仕方があれだ、小動物。
更なる反応が知りたくて、あえて正面から小川を見つめてみた。
「ちょっとそんなに見ないでよ」
露骨に嫌そうな態度。
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「私の顔は減るの」
まるで小学生同士の会話だよな。って思ったら、今まで耐えていた笑いがこみ上げてきてしまった。
「俺、初めてって初めてなんだよ。だからもうちょっと見せてよ」
「なによ、それ」
「今までメガネしていた奴がさ、初めてコンタクトにしてきたのを見るのが初めて」
良く意味の分からない言葉で混乱させて、その隙に目の前の彼女を見つめ続ける。
普段は縁のあるメガネをして、いつでも真っ直ぐ前方を見ている。それは多分、身構えているからこその態度。でも今はメガネが無いってだけで、どこか頼りない表情をしている。心の内の動揺が素直に表れているんだ。なんだかそれが面白い。
「こんな顔していたんだな、小川って」
ついぽろっと思った事をそのまま言ったら、小川の頬がぱっと赤く染まった。
「もういいでしょ。顔見るの、お終いっ」
そう宣言をして、これ以上見られないようにと両手で顔を隠してしまう。
「駄目。見せてよ」
もっと顔が見たくて、軽い気持で手首を掴んで引き寄せた。
テレビゲームだってパソコンだって一通りやっているのに、なぜか視力が落ちた事がない。そんな自分にとって、メガネもコンタクトも未知の世界だ。コンタクトにしただけで何でそんな表情になってしまうのか、メガネとどう違うのか、興味は尽きない。
「コンタクトしているかって、見て分かるもんなの?」
まずは形状からということで、ひたすら小川の瞳を観察する。
こげ茶色の瞳。充血気味の白目。コンタクトとの境目はどこなんだろう。それを発見しようとしているはずなのに、興味の対象が少しずつ広がってゆく。
上へ向かってカーブを描くまつげ。まぶたが心なしか腫れぼったい感じがする。小川の視線は前方を向いたまま。頭も微動だにしていない。瞬きしないのかな、ってなんとなく思っていたら、小川の目じりがしだいに赤く染まってきた。それなのに、やっぱり小川は動かない。
……って、あれ? もしかしてこれって、硬直してる? 何で?
その時初めて、自分が小川の手首を掴み、じっと顔をのぞきこんでいるシチュエーションに気が付いた。
ちょっと待て。
いくら好奇心から夢中になっていたとはいえ、これって接近しすぎじゃないか?
「あー、駄目。やっぱ分かんないや。偉大だな、コンタクトって」
慌てて手を離し、取り繕う。でも心の中では自分の行動に最大限に焦っていた。いやだって、ただのクラスメイトだもんな。さすがにこの距離はまずいだろう。
「どんな感想よ、それ」
小川の冷静な突っ込みにほっとする。
そうだこのまま他愛ない話で、この場の空気を入れ替えて、いつもと同じに戻すんだ。そう考えるのに、言葉がちっとも浮かんでこない。それどころか、今更ながら彼女の手首の細さを思い出し、妙に鼓動が早まってきた。俺、なんか変だ。
「森ー、今度の試合のことなんだけど」
「おう。今行く」
江崎の声が教室の端から聞こえたから、反射的に答えて勢い良く立ち上がった。助かったって思ったけれど、うつむいたままの小川を見てびくっとする。そう言えば手を離してからずっと、小川と目が合っていない、かも。
彼女のつむじを見つめながら、どんどんと不安になってきた。無神経に踏み込みすぎて、呆れているんだろうか。だからもう、目を合わせようとしないとか。
「もしかして、怒った?」
恐る恐る聞いてみる。
「へ?」
予想に反して小川は気の抜けた声を出し、思わずといった様子で俺を見上げた。その顔が真っ赤で、瞳がなんだかうるんでいる。
頼りない表情。メガネを外した、小川の素顔。
「嫌がっていたのに、じろじろ見たから。ごめんな」
先に考えていた言葉を口にする。けれど全然別の事を考えていた。
どうしよう。小川のことを、触りたい。今すぐ、無茶苦茶に触りたい。
髪の毛ぐしゃぐしゃになるまで撫でて、ほっぺた思いっきり引っ張って、最後にぎゅって抱きしめたい。やっぱり扱いがリスとかハムスターと同じだけれど、無性にそういうことしたくてたまらない。
思わず手が動いたけれど、ぎりぎり直前になって理性が働いた。ぽんぽんと小川の頭を二回撫でて、教室の端へ歩いていく。指先に、彼女の体温が残っている。頭の中、いつまでもあの表情が浮かんでいる。
「……なにやってんだよ、俺」
頬が火照っているのを自覚して、つぶやいた。
熱は当分冷めそうにも無かった。




