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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第一章 オレンジ

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2/18

2.

 那菜のかよう高校はありふれた公立校だが、しいて言うなら毎年九月に開催される学校祭に対する熱量が高く、それに惹かれて遠方ながら入学を希望する中学生が大勢いることが一つ特徴的だった。

 那菜もその一人であり、自宅から学校まで電車で一時間弱をかけてかよっている。その一時間を惜しいと思ったことは一度もない。それほどまでに、那菜の高校選びは今のところ大成功を収めていた。


 学校祭の日程は、九月の第二週に合唱祭と体育祭、第三週の土日に文化祭となっていて、休日開催の文化祭は生徒だけでなく一般客も入場でき、受験を控えた中学生向けの学校説明会も同日程でおこなわれる。

 この文化祭の人気が学校の内外を問わず凄まじい。各クラスの出し物は脱出ゲーム風だったり、宝探しがテーマだったりと、とにかくバラエティに富んでいる。おかげで高校の周辺に住む小中学生が毎年楽しみにしていたり、近隣の高校からの来客も多かったりと、ご近所一帯を巻き込む盛り上がりを見せるのだ。ある種のテーマパークと言っても過言ではなく、それだけのクオリティを実現させてしまう生徒たちのレベルもまた高いと言ってよかった。


 当然だが、そのための準備には相当の時間がかかる。来週は一週間まるまる文化祭の準備に充てられ、通常の授業は今日いっぱいの予定となっていた。

 つまり、今日を乗り切ればしばらくは勉強と縁が切れる。そうしたささやかな喜びが文化祭を目前に控えたわくわく感にプラスされ、那菜の心はいつも以上に弾んでいた。


「しまった」


 二時間目と三時間目の間の休み時間に入っている。いつも那菜たちはなんとなくうららの席の周りに集まり、どうでもいい話をしながら休み時間を過ごしていた。


「数学の宿題やってない」


 そう言って顔を引きつらせているのはうららだった。次の授業は数学Ⅰ。毎回授業の終わりにA4サイズのプリントを宿題として配るベテラン女性教師が担当しているが、この宿題というのが厄介で、三分の二は復習、残りの三分の一は次の授業の予習という内容だった。

 復習だけならばいい。しかし、予習までしてこいとなると自分でテキストを見ながらプリントを埋めていく必要があり、時間も労力もそれなりにかかる。しかも授業はプリントの答え合わせから始まり、くだんの女性教師が生徒を指名して回答を求める。運悪く予習の問題で当てられると、ちゃんとやっていなければ手を抜いたことが一発でバレてしまう。そういう意味でも厄介だった。


「あぁもう、最悪。保健室行こうかなぁ」


 机の上にプリントを出しながら、けれどうららはすでにあきらめているようだった。嘆いてる間に時間が過ぎるよ、なんてアドバイスを彼女に贈る友達はいない。那菜が誰よりも先に動いた姿をみんな見ていた。

 自分の席に戻り、那菜は自力でこなしたプリントを持って、うららにそれを差し出した。


「はい、これ」

「え、いいの?」


 建前だけの確認がなされる。那菜は「早く写しなよ」と笑った。


「ありがとう、那菜! 神様!」


 わざとらしく瞳をキラキラさせたうららは那菜に借りたプリントを自分のプリントの脇に置き、猛然と答えを書き写し始めた。誰もなにも言わない。それが当たり前であるかのような空気だけが流れ、たわいない会話が続いていく。

 那菜もその会話に混ざった。いつも一緒にいるグループの中でダンス部に所属しているのは那菜とうららだけで、うららがいない時に会話の主導権を握るのはたいてい桜子だった。

 おしゃべり好きな桜子は男子ハンドボール部のマネージャーをしている。土日も部活に忙しくしているけれど、その反動か、クラスの友達と集まっている時には部活の話を一切しない。今も桜子は、昨日の体育祭で一目惚れしたという一学年上の先輩の話に夢中になっていた。


 桜子の話を聞きながら、那菜は自分の身に起きた体育祭でのできごとを思い出した。忘れようと決めていたのに、家に帰ったあとも、そして今でも、映志にかけられた言葉の数々は那菜の胸につっかえて離れなかった。


 彼は言った。那菜がうららを好いていないと。

 彼に言われた。那菜はうららと無理やり話を合わせてまで友達でいようとしていると。

 そんなことはない。うららだけでなく、誰に対しても無理をしているつもりはない。

 今の桜子の話だって、桜子が惚れたという先輩のカッコよさには共感できるし、恋バナはするのも聞くのも好きだった。会話をつまらないと思ったことはない。毎日を楽しく過ごしている。

 それなのに、どうして彼は。


「そう言えばさ、那菜」


 桜子が不意に話を振ってきて、那菜は思わず目を大きくした。


「ん?」

「昨日、岸くんとなにかあったの?」

「え?」


 まさに彼のことを考えていた矢先の質問に、那菜は必要以上に動揺してしまった。


「岸くんが、なに?」

「昨日話してたでしょ、彼と。那菜、あんまりいい顔してなかったから、なに話してたのかなって思って」


 那菜の表情がかすかにこわばる。桜子はどこまで知っているのだろう。話しぶりからは映志との会話の内容までは把握していないようだけれど、油断はできない。

 最低限の労力で、那菜は会話の焦点をずらした。


「ねぇ桜子、岸くんってどこの中学校だったか知ってる?」

「え、どこだろう。聞いたことない。てか、私しゃべったことないかも、岸くんと」

「みなみと同中(おなちゅう)だよ、確か」


 プリントに集中していたと思っていたうららが不意に助け船を出してくれた。田口(たぐち)みなみは那菜やうららと同じダンス部の仲間で、クラスは一年三組だ。


「さすがうらら」と桜子が言う。


「なんで知ってんの」

「みなみが言ってた。うちのクラスの岸が唯一の同中だって」


 へぇ、と桜子が相づちを打ったところで始業の鐘が鳴った。「やば」とうららは書きかけの数式にいくつか数字を書き足して、那菜にプリントを手渡した。


「ありがと、これ」

「間に合った?」


 うららは自分のプリントを持ち上げて那菜に見せる。復習の問題は空欄のまま、予習の部分だけが埋まっていた。なるほど、賢い。

 那菜が笑うと、うららは自慢げに口角を上げた。

 わたしはなんのために宿題をがんばったんだろうと思った。




 放課後の部活動に参加できるのも今日までだった。定期テスト週間に入った時と同じように、来週末の文化祭が終わるまでは部活も活動禁止になる。

 ダンス部の主な活動場所は武道場で、基本的に水・金曜日はダンス部が、月・火・木曜日は剣道部が使用することが取り決められており、土日は体育館を含め、月替わりのタイミングで各部の場所取り合戦がおこなわれる。土日とも活動のある週もあれば、どちらも休みという週もあり、週末のスケジュールは流動的だった。


 体育館の女子更衣室で、学校名の入ったレッスン用Tシャツとスウェットパンツに着替えた那菜は、仲間たちとともに移動した武道場で、部費で購入した可動式のスポーツミラーを所定の位置まで転がした。武道場をレッスンスタジオにつくり変えるのは一年生に与えられた役割だった。

 キャスターのロックをかけると、みなみが一度濡らして固く絞った雑巾を持って近づいてきた。鏡の足もとに濡れた雑巾を常備しておくのは、靴のすべり止めとして使うためだ。レッスン中はどうしても靴の裏で細かな埃を拾ってしまいすべりやすくなるため、怪我を防止する意味も含めて、雑巾で適宜拭いながら練習を続ける必要があった。


「ねぇ、みなみ」


 雑巾を設置して顔を上げたみなみに、那菜は思い切って尋ねてみた。


「みなみって、うちのクラスの岸くんと同中なんだよね?」

「そうそう。私と岸だけなんだよね、うちの中学からここへ来たの」

「そうなんだ。あの子、ちょっと変わってるよね」

「変わってる?」

「なんていうか……たまにヘンなこと言わない?」


 あぁ、とみなみはなにか心当たりがあるような返事をした。


「あの子はしょうがないと思うよ。家のことでいっぱいいっぱいだろうから」

「家?」

「うん。岸んち、お母さんが病気なんだって。妹もまだ小学生で、家のことはあいつが全部面倒見てるって聞いた。お父さんも仕事で忙しいらしくてさ。中学の時はバスケ部だったけど、妹の世話があるからって半年も経たずに辞めちゃってるしね」


 へぇ、と返事をしながら、那菜は複雑な思いを感じていた。那菜の言った「ヘンなこと」という言葉をみなみは別の解釈としてとらえたようで、那菜が求めていた答えとは別のことを教えてくれたが、家庭に問題をかかえているとは、それはそれで気になる話ではあった。


「まぁ、ヘンと言えば、昔から少しヘンではあったかも」


 みなみはまた別のことを思い出したように言った。


「岸とは小学校の頃から一緒だったけど、あいつ、色にこだわりがあるみたいでさ」

「色?」

「うん。ほら、戦隊ヒーローってあるじゃん。五人組で、それぞれ色のついたスーツに変身して敵と戦う子ども向けのテレビ番組。あれの話をしてた時、岸がピンクの女の子のキャラクターを『なんでこの子はピンクなんだろう。青なのに』って言ったの」

「『青なのに』?」

「そう。なんか、岸にはそのキャラクターの子がピンクのスーツを着るのに違和感があったみたいで。青いスーツじゃなきゃおかしいって言い張って、他の男子たちにバカにされてた。小一の時の話で、私はそのやりとりを傍から見てただけだったけど、なんか印象に残ってるんだよね、あの時の男子たちの会話が」


 確かに、インパクトのあるエピソードではある。今は女の子だからピンクを着なければならないという時代でもないし、男子がピンクを好きになったっていい。それはそれとして、おそらく当時の映志が言いたかったのはそういうことではないのだろう。人の内面がどうこうというのではなく、もう少し別の角度から見て、映志にとってその女性キャラクターは青いスーツでなければ納得できないなにかがあったのだ。


「それで?」


 みなみが那菜の顔を覗き込む。


「那菜的には、岸のことが気になるんだ?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「嘘だ。気にならないのにあれこれ訊くの、おかしくない?」

「まぁ……うん」


 みなみの言う『気になる』と那菜の考えている『気になる』が一致していないような気もするけれど、気にならないと言えば嘘になるのは事実だった。那菜が認めたせいか、みなみは嬉しそうに続ける。


「悪いヤツではないよ。基本的に優しいし、塩顔だけどそこそこカッコいいしね。ただ、家族のことがあるから友達付き合いは意識的にセーブしてるって言ってた。残念だけど、もしかするとカノジョもいらないっていう感じかもね」

「そうなんだ。……って」


 那菜は慌てて否定した。


「ねぇ、わたしそういうんじゃないから。そんな風に思ってないから、岸くんのこと」

「えぇ、そうなの? つまんないなぁ」

「やめてってば、ほんとに」


 ニヤニヤ笑うみなみの腕を軽くはたく。他にもあれこれ話をしながら準備を進め、定刻どおりダンス部の練習が開始される。

 アップテンポなナンバーに合わせてウォームアップが進む中、那菜の頭の片隅には映志の縦に長い立ち姿が消えずに残り続けていた。


 彼は今ごろ、電車に乗っているだろうか。家に帰ったら、まずなにをするのだろう。

 気づけばそんなことを考えていて、那菜は慌てて自身の動きに集中した。ただでさえ運動はあまり得意ではないのだから、誰よりも練習をがんばらなければ置いていかれる。


 曲が変わる。基礎練習の一つであるアイソレーションへと課題が移る。

 リズムに合わせて首を前後左右へ倒していく。からだのパーツ一つ一つを独立して動かせるように訓練することで、踊る時にからだをよりしなやかに、思いどおりに動かせるようになる。

 基礎練習ほど、手を抜いてはいけない。先輩の教えであり、ダンスを始めておよそ半年が経った那菜自身も強く実感していることだ。

 目の前の練習に集中する。それが映志の存在を忘れるための手段になりつつあることに、那菜は気づいていなかった。

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