第四十七話「月の雫」
まひるは自分のアパートがある駅で降りずに電車を乗り継ぎ、昨日流那に連れられて来た『スナックかきつばた』の前にまで来ていた。
何故か今、一人でアパートに戻るのが怖かった。
現実から目を背けてしまうようで…
そうしたら、大切な何かを失ってしまいそうで……
流那の面影を少しでも感じたかったからなのか、まひるは自分でもどうしてここに来たのか戸惑う。
スナックのドアの前で入ろうか帰ろうか思案していると店のドアが開き中からママのよし子が顔を出した。
「あら?昨日なるちゃんと一緒に来た…」
よし子は店の前に立っていたまひるに気付くと少し驚いたようだった。
「あ、すみません!こんばんは、相川まひるです!」
まひるはよし子の美貌を目の当たりにし少し緊張して名乗った。そんなまひるを見てよし子は少し微笑み
「くす。そうそ、まひるさんだったわね。今からお店開けるところだけど、今日なるちゃんお休みよ?」
と、やんわりした口調でそう言った。
「あ、そ、そうなんですね…?…じゃ、じゃあ、あたしはこれで!」
まひるはそれだけ言うとその場から立ち去ろうと店とは反対に体を向けた。
「……なるちゃん、いないけど、私で良かったら愚痴くらい聴かせて頂きますよ?」
よし子は立ち去ろうとするまひるの背中にそう言葉を掛けた。その言葉にまひるの足が止まる。
「え……?あ……はい…」
まひるはママの好意に甘えようと振り向き、そのままスナックの中に入りカウンター席に腰掛けた。
「飲むわよね?昨日と同じようにビール?」
「あ、いえ!今日は!あ、じゃあジンジャーエールを…」
まひるはよし子の言葉に甘えつつも、昨夜流那と一緒に来た時にビールをがぶ飲みしたことを思い出しソフトドリンクを頼んだ。
「この後運転するの?」
よし子が優しそうな笑みを浮かべてまひるに問い掛ける。
「いえ!電車通勤なので大丈夫なんですけど、今日は、そんな気分じゃ…」
まひるはそう答えると俯き、両手の指をもじもじと絡み合わせた。
「怖い、んです……今一人でアパートに戻るのが……」
まひるは消え入りそうな声でそう呟く。そんなまひるの様子を見てよし子は小さく頷くとグラスをまひるの前にそっと置いた。
「はい、どうぞ」
よし子は優しい笑みを浮かべてそう言った。それを聞いたまひるが弱々しくも笑顔を作って見せる。
「あ!ありがとうございます…いただきます」
まひるはそう言うと一口グラスに口を付けた。ふわっと香る麦芽の香りとスッキリした生姜の喉越しで少し心が和らいだ気がした。
「あ、美味しい。これって…?」
まひるが訊くとよし子はその飲み慣れない酒の名を口にする。
「シャンディ・ガフよ。ジンジャーエールとビールのカクテル。今日はビール少な目だけど、ちょっとくらいアルコール入れた方が美味しいわよね」
「はい……でも、初めて飲むお酒です。なんか大人の女の人って感じがするなぁ」
まひるはそう言うともう一度グラスに口を付けた。
「私もね、初めてこれ飲んだ時、ちょっと大人になった気がしたの」
「ふふふ…」
まひるはグラスをカウンターに置くと力なく笑って見せた。
そんなまひるによし子は優しく語り掛ける。
「何かあった?詮索はしないけど、悩みがあるなら他人事だと思って聴くくらいは出来るわ?」
よし子に言われ、まひるは少し俯きグラスを両手で包み込むように持った。
まひるは少し悩み、考えた挙げ句、正直に言った。
「突然こんなこと言っても信じてもらえないかも知れませんけど…」
まひるが顔を上げよし子の目を見て言う。
よし子も先程の柔らかい雰囲気を纏いながらもその瞳の色は真剣味を増しまひるの顔を覗き込む。
「今、あたしの友達が、戦ってるんです!」
『超次元電神ダイタニア』
第四十七話「月の雫」
「やったわね万理!これでここの電神をやっつけたわ!」
流那がグリーディアの破片が降り注ぐ湖面を見て燥ぐ。そしてマリンに向き直る。
「………うん」
マリンは力なく、そう応える。
「って!浮かれてる場合じゃなかった!病院に急ぐわよ!」
流那がそう言いながら再度マリンに駆け寄る。近付く流那の背後の湖岸にマリンは動く影を見た。
「…る、な…ッ!」
魔力を使い過ぎ消耗しきった体のせいで上手く声を発せられないマリン。
湖岸から這い上がってきたその邪悪な影は何やらこちらに向け片手を構えた様に見えた。
流那は相変わらず背後の殺意には気付かずマリン目掛けて一生懸命走ってくる。
(このままだと流那が!!)
無限にも感じられる時の中、マリンは流那の身を案じた。
動かない体を、上がらない腕を、マリンは必死に動かそうと試みる。
流那がマリンの下に駆け付けた時、その人影は自身の右手から《水の弾丸》を一発放った。
マリンは動かない体の代わりになけなしの魔力で《光鎖拘束》を流那に向け発動し、流那の体を地に横たわした。
「きゃっ!何すん――」
流那がマリンに抗議の声を上げようとした矢先、《水の弾丸》がマリンの右手を貫きそのままマリンの体ごと地面を撃った。
「ッ!!きゃああああッ!!」
流那の悲鳴が湖に響く。
「る、な……っ!」
マリンはそれだけしか声に出来ずに噎せるように咳き込む。
「万理ッ!?」
流那が地面に這いつくばるマリンを見て叫ぶ。その目に映るのは無残に《弾丸》に貫かれた仲間の姿。
「な、なんでッ!?どうして……!?」
流那は訳も分からずそう叫んだ。
「る、な……ッ……にげ、て……!」
やっと出た声でマリンはそう告げた。そして再び咳き込み地面に血を吐く。
「い、いやよ!ッ!!」
《拘束》が解け、流那がなんとか体を起こし、今にも泣きそうな声を上げながら横たわるマリンに駆け寄る。
「い、いから……はやく……逃げ」
近づく流那を見てもう一発の《水の弾丸》が放たれる。その《弾丸》は今度は流那の脇腹を掠めた。
「つぅッ!」
流那は激痛に顔をしかめ、横腹を押さえる。その隙に湖岸から来る人影が再度マリン目掛けて手を構えていた。
「る、な……っ!!」
「…あいつ、まだやる気なのね?だったら……」
流那が後ろを振り向きながら立ち上がる。そしてゆっくりと歩み来るその邪悪な人影を、ディーネを睨み返した。
そこにはボロボロになりながらも、なんとか自分の脚で歩み寄るディーネの姿があった。
その顔は今までにはなかった怒りの表情に歪んでいた。
「私が代わりにやってやるわよ!」
「人間がァ!?あたしの相手にィ?」
流那のその言葉を受けディーネが気色ばむ。
「…万理、あいつをチャチャッとぶっ倒してくるわ。ちょっとだけ待ってて…」
そう言うと流那はマリンに向け再度《回復》を掛ける仕草をする。が、やはりそのスキルは不発に終わる。
「くっ!じゃあそのボロボロの見た目だけでもどうにかしてあげる!こう見えて私アルケミストのジョブレベルカンストしてるのよ?」
流那がマリンと何やら話しているのを見てディーネが口を挟む。
「おい…何あたしに背ェ向けてんだ?また背中から撃たれたいのかョ!?」
「あんたはちょっと待ってなさい!今直ぐ私が相手してあげるからッ!」
流那はそう言い終わるとマリンに向き直る。ディーネは少し気圧されたようにその場に立ち止まった。
「万理…まひるんにこんなカッコ見られたら怒られちゃうかな?」
「……」
流那の問いにマリンが瞳を伏せる。その様子を見て流那は息を吐いた。
「……そうよね。でも大丈夫よ!私、天才だから!」
流那が《物質変換》のスキルを使うとマリンのボロボロだった鎧が見る見る洋服へと変形した。
「傷口に多目に布を使ったけど、完全に止血出来たかは分からない…一刻も早く、あいつを倒してくるわ」
流那はそう言って立ち上がり再びディーネを鋭く見据えた。
「待たせたわね…」
「待ったよ……今度こそとどめを刺してヤる!」
ディーネが片手を向けて来て、その人差し指で手招きをする。
辺りは既に薄暗くなり太陽は沈みかけ、夜の帳が下り始めてきている。
空にはいつもより大きく見える満月が浮かび輝いていた。
ディーネが地を蹴り流那との間合いを詰める。そして瞬時に流那の眼前に現れるとその勢いのまま殴りかかった。
「《土塊盾》!」
流那は咄嗟に土の盾を生成するとその拳をそれで防いだ。そして直ぐに距離を取る。
「ふっ!」
今度はディーネが間合いを詰め、《水の弾丸》を撃ち出す。しかし撃ち出された《弾丸》は流那の盾によって弾かれた。
……筈だった!
放たれた三発の《弾丸》のうち一発が流那の盾を突き抜けた。
「ぁぐッ!?」
ディーネの《水の弾丸》が流那の左肩を掠めた。流那はその一撃を受けその場に倒れ込む。
「きャハハ!バーカ!あたしの《弾丸》はそう簡単には止められないンだよ!」
ディーネはそう言って高笑いをした。そしてゆっくりと流那に近付くとその肩を爪先で小突く。その衝撃で流那の肩から血が滲む。
「うぅっ!」
「このままなぶり殺してヤるよ!」
ディーネが流那の髪を掴み立ち上がらせる。そしてそのまま地面へ叩きつけた。
「ッ!」
流那は再び地に倒れる。そんな流那を、ディーネは何度も足で踏みつけた。
「あはは!イイっ!楽しいィー!!」
ディーネは歓喜の声を上げながら、なおも流那を踏みつけ続ける。流那は声も出せずただ地に伏してその踏みつけを受ける他なかった。
「る、な……っ!」
マリンは激痛に耐えながら、流那を心配しその身を起こそうとする。しかし体が動かない。
(ああ!流那が…流那がッ!助けて…誰か助けてよッ!!僕ならどうなったっていい!だから、流那だけはッ!!)
マリンは自分の無力さを痛感しながら目の前に繰り広げられる惨劇から目を背けず歯を食いしばり祈る。
(この世界で誰に祈ればいい!?神か?頼むから誰かッ!姉さんッ!まひるぅッ!!)
そんなマリンを見てディーネが笑い声を上げる。そして流那の腹に爪先をめり込ませた。
「ッ!!」
「やァハりィ!人を痛めつけるのって最っ高だよォ!!マリぃ?そこで自分の無力さを、暴力の素晴らしさを噛み締めなアっ!!」
そう言ってディーネはまた高笑いをする。
「………………」
「ん?」
ディーネが蹲る流那に違和感を覚える。
「こいつ……今、何か言ったか?」
「………………」
流那から発せられた、小さく何かを呟く声にディーネが反応する。
「………」
しかし流那は何も答えない。そして静かにその顔をディーネに向けた。
「……なんだ?まだそんな目が出来るのか?」
ディーネのその問いにも流那は応えない。ただじっとその瞳を目の前の敵に向け続けた。
これが、こいつが、自分の敵だと再認識するかのように。
「あ、そ」
流那のその様子に、興味なさげにディーネが言葉を漏らすと自身の肩をトントンと叩いた。するとその肩の防具に収納されていた武器が飛び出てきて瞬時に元の形に形成された。
それは死神の鎌を彷彿とさせる大鎌だった。
「じゃあ、そろそろ本気で終わらせてやるよ」
ディーネはそう言うと自身の武器を再度構えた。そして流那に向けると照準を合わせるように片目を細める。
流那はその一連の動作を黙って見続けていた。
「じゃあね、人間!」
ディーネはそう言って刃の切っ先を流那に向けた。
「……まったく、今頃になって……」
流那が小さく呟いた。
「あン?何か言った?命乞いなら受け付けないよ!?」
ディーネがそう流那に冷たく言い放つ。
流那はその言葉に対し、無言で地面に手を突いた。そして地面に巨大な魔法陣が形成される。
「……《大地の檻》!」
流那がそう唱えると、流那を中心に周囲の地面が迫り上がるように隆起した。
そしてその隆起はうねりを伴いながらディーネを飲み込み渦と化す。その勢いでディーネは遥か上空へ打ち上げられてしまった。
「な、なんだッ!?こいつまだッ!」
その光景を目の前で見ていたディーネは吹き飛ばされながら驚きの声を上げていた。
隆起した地盤の上で、流那は満月を背に、地に落ちたディーネを見下ろした。
そして幾つかの言葉を紡ぐ。
「《物質変換》、《魔力増強》、《速度増強》……」
高くそびえる地盤の上からシュオンシュオンと電子的な音が鳴り続ける。
月明かりで逆光になっている流那のシルエットからマントのような影が伸び、翻った。
それをディーネは唖然とした表情で見上げていた。
「…何をそんなに驚いているのよ?」
「なんで、ただの人間がそんな大掛かりな魔法を使えるんだよ!?」
ディーネが叫んだ。流那はその言葉にも構わず言葉を続ける。
「さあ?私はレベルをMAXにしてから次のジョブや装備に移るタチなの。そのせいじゃない?」
流那は平然と、だが適当にディーネに言ってみせる。
「それに、何故動ける!?あたしがボロボロに壊してやったハズなのにィ!」
ディーネは目の前で起こっている状況が信じられないとでも言わんばかりに流那を見上げ叫び続ける。
「いちいちうるさいわね。私にも分からないわよ!いきなり使えるようになったのよ」
「な、何を……!?」
ディーネが流那の言葉の続きを催促するかのように訊く。
「決まってるでしょ、回復スキルよ!」
「う、そ……!?」
ディーネが驚愕の表情を見せる。
流那は地面に手を突くと唱える。
「届いて!《全体治癒》!」
すると隆起した足場から白く光る波動が地面を伝ってマリンに届く。その波動を受け止めるようにマリンの体の表面の光が一瞬強まり、その光が治まる頃には流那とマリンの傷は全て癒えていた。
そして流那は続けて言う。
「万理!あんたがどれだけ私を庇ってくれたか分からない!」
流那は感じていた。自分の体の奥底から溢れ出てくる力を。今までに感じたことのない、生命力と知識が自分の中に流れ込んでくる感覚を!
「今度こそ、私があんたを護るからッ!」
(きっとこれは万理が私に願ってくれた生きる希望!生き抜く強さ!その願いを、今、力に換えて――)
「示してみろッ!私ッ!!」
そう叫ぶと流那は隆起した大地を蹴り、ディーネに向け崩落させた!
崩れ来る岩石の雨を前に、ディーネはそこから飛び降りる蒼い法衣姿の人影を視た!
「《視力増強》!《筋力増強》!」
シュオン!シュオン!
その顔にはいつもしていた眼鏡はなかった。だが確実にその目はディーネを捉えていた!
「攻撃魔法も回復魔法も使いこなすッ!?オマエは!まさか《賢者》ッ!?」
ディーネは自分に迫りくる蒼い魔法使いを見上げながら驚愕に目を見張る。
「賢者なんて言葉はあの子にこそ似合う言葉よ!」
流那は落下しながらもその両手に魔力を集積させる。
「さっきも言ったはず!私は《天才》だってね!でも私を呼ぶなら――」
流那がディーネ目掛けて左手を翳すと、ディーネの足下から光の鎖が飛び出しその両足を固定した!
「ッ!?クッソ!!」
流那が右拳を握り締めると薄っすらと蒼く拳が光り出す!
そのまま速度を増しディーネに向け落下する途中、二人の視線が合った。
流那が刹那に見たディーネの顔には、『驚愕』の他に『恐怖』の色が浮かんでいた。
流那は思いのままその拳をディーネの顔面目掛けて振り下ろした!
鈍い音と肉と骨を打つ厭な感触が流那の手を伝わる。
「《手代木流那》と呼びなさいッ!!!」
流那はそう叫ぶと、ディーネの顔面にめり込んだ拳を更に振り抜いた。
「ぎゃフッ!!?」
ディーネが鼻血を吹き上げながら悲鳴を上げた。そして後方へ飛ばされ地面にぶつかると跳ねて空中へ舞い上がった。
流那が自分の顔に跳ねてきた小石を瞬時に《物質変換》で眼鏡に換えて装着する。そして湖岸で鎮座していた巨人に視線を向けた。
「ベルファーレっ!!」
流那が叫ぶと無人のベルファーレが高速でその場にやって来る!
マリンが掛けた《速度増強》と、流那の《遠隔操縦》のスキルの賜物だった。
「こ、こんな……こんな暴力……イイっ!」
ディーネは空中に吹き飛ばされながらも自身に与えられた痛みと恐怖の快楽に浸っていた。
「ベルファーレ!《最終攻撃》!!」
流那がバフを盛りまくった身体能力でベルファーレの左肩に飛び移ると右手を上空に掲げて《最終攻撃》を叫ぶ!
(何故かは分からないけど…今なら出来る気がするッ!!)
グオォォ…ン!!
流那の想いに応えるように、ベルファーレから低い唸り声の様な駆動音が鳴り響く!
後ろに引き絞った右腕がホログラム映像を重ねたように変形し、二倍、三倍の大きさに膨れ上がった!
「ひィッ!?」
そのビルの如き巨大な拳が羽虫でも仕留めようとするかのようにディーネに迫り来る!!
「喰らいなさいッ!!《新星創造拳》ッ!!!」
流那がそう叫んで拳を突き出し、鈍い音を立てベルファーレの巨拳がディーネに叩きつけられた!
「死イぐうアああハァァーーー!?!?」
パン!と乾いた音を立て拳が湖上を通り過ぎる。
ディーネは悲鳴を上げながら打ち砕かれ光となり消滅した。
ベルファーレの右腕は拳を振り抜いたままの姿で元の大きさに戻り制止する。
流那がその肩から降り電神を光に戻した。
「ふうっ……あんたには、同情なんてひとっつもしてあげないんだから……」
そう言いながらディーネが消えていった空を見上げる流那の顔はどこか悲しげだった。
流那は足早にマリンの下へ戻って来た。その顔は明るく足取りも軽やかだ。
さっきの《全体回復》がマリンに届いたのは確認している。だからきっと元気になっているはずだ。
流那はそう信じながら、その笑顔のままマリンに声を掛けた。
「万理っ!大丈夫だった?ッ!?ちょっと!!」
しかし当のマリンは仰向けになって目を瞑っていた。流那は心配そうにしゃがみこむと、息をする胸の辺りが微かに上下に動いているのを確認し胸を撫で下ろした。
そしてマリンの隣に腰かけると話し出す。
「もう!心配させないでよ……どうだった?言った通り倒して来たわよ!?」
流那はそう言いながらガッツポーズを取って見せる。
「…うん。見てたよ…すごかった、流那……」
マリンが目を開け流那を見上げながら小さく答えた。
「うふふ!」
「でも……」
「……でも?」
流那が顔をマリンの方へ向けた。するとその左頬にいきなりマリンの右手の人差し指が伸び、つん、と触れた。
「うん。やっぱり流那は可愛いね」
「ッ!?」
そんなマリンの突然の不意打ちに流那は言葉を失う。そして頬が紅潮してくるのが自分でも分かった。
「何を言うのよ!?突然…ッ!」
それを誤魔化すように頬を膨らましながら言う。
「ふふ、ごめん。でも流那って本当に強いんだね……」
マリンはそう言いながら少し名残惜しそうに流那の頬から指を離した。そしてゆっくりと体を流那に預け、もたれ掛かる。
「ど、どうしたのよ急に?」
流那もそのままマリンの体を受け止め訊く。するとマリンが微笑みながら答えた。
「流那と出会えて、良かった……」
その言葉に流那はハッとして口を噤んだ。そして直ぐに真剣な顔で言う。
「……もしかしてあんた、まだ体調悪いんじゃ…!?」
流那がそう訊くとマリンは少し微笑んで
「……魔力を、使い過ぎちゃったみたいでさ…もうすぐ、かも……」
「なッ!?」
流那は絶句した。
このままではマリンが消滅してしまう。そんな考えが流那の頭に過った。
「ま、待って!どうしたら!?」
流那は慌ててマリンに訊く。だがマリンは力なく首を横に振った。
「…流那、こうして一緒に居て…?」
そう言うと、マリンが辛そうに再び目を閉じた。そんな様子に流那も焦りだす。
しかしこの状況を打破出来る方法が思い付かず、流那は唇を噛む。
流那は降り注ぐ月の明かりがやたら眩しく思えて、溢れそうになる涙が瞳から零れないように一人空を仰いだ……
静かな時が湖畔に佇む二人の間に流れる。お互いに一緒に居られる時間がもう残り少ないことを感じ取り、この一時を噛み締めているかのようだった。
「流那……」
マリンが弱々しい声で流那を呼ぶ。その呼びかけに流那は瞳に溜まっていたものを誤魔化すように空を見上げながら平静を装い応えた。
「ん?」
「……僕ね、もし生まれ変わって人間になれたら、学校に行きたいな……」
マリンが静かにそう言った。その言葉に流那は空を見上げるのを止めマリンに視線を落とした。
「学校?」
そう聞き返す流那にマリンは小さく頷くと続けた。
「うん。学校に行ってまだ知らない地球のことを沢山知りたいんだ」
「そう。知識欲旺盛で、あんたらしいわね」
流那が微笑みながら言う。その答えにマリンも笑いながら続ける。
「それでね、その学校には、一見無愛想だけど本当はとっても人情深いクラスメートがいてさ?最初はお互い衝突もするんだけど、段々と心が通じ合っていってね…」
「……ッ!?」
その言葉に流那は目を見開く。そして軽く俯くと表情を悟られないように顔を逸らした。
「うん……それで…?」
そう返すのが精いっぱいだった。だがそんな流那の言葉を聞きマリンは少し微笑むと瞼を閉じた。そして――
「そして、気付くと僕はその子を好きになってたんだ」
「うん…ッ!」
流那の堰き止めていた思いは溢れ、涙が止め処なく零れる。
それを流那はマリンに覚られないように声を押し殺して泣いた。
だが流那に抱き抱えられるような体勢だったマリンの顔に流那の涙が落ち、その頬を濡らした。
「あれ?雨が降ってきたかな…?」
マリンが目を開けて不思議そうに訊く。その瞳は流那の顔を見てはいたが何も映してはいなかった。
(万理……あなた、もう目が……ッ)
「流那、濡れて風邪を引くといけない…どこかで雨宿りを…」
「大丈夫だから、さっきの話の続き聴かせてよ。万理はその子とこれからどうしたいのよ?」
流那はマリンに話の続きをせがむ。このマリンの物語が今ここで終わってしまわないように…
熱い雨は止むこと無く、マリンに降り続けた…
「うん。そうだね……友達に、なりたいな…」
マリンは流那に話の続きをせがまれて嬉しそうな声で応えた。
「学校ではね?一緒に勉強したり、運動会や文化祭で競い合ったり、クリスマスにはプレゼントを交換したり……」
そんな他愛のない日常を話すマリンに流那も嬉しそうに相づちを打つ。
「…うんッ!…うんッ!」
そんな流那の声にマリンも嬉しそうに話を続ける……
「それでね、その子はとっても優しいんだ」
「……ッ……!」
「いつも僕が困ってる時は助けてくれて、落ち込んでたら慰めてくれて、喜んでると一緒になって喜んでくれて……」
「……ッ……うん……」
「見た目は僕より少し大人っぽいんだけど実は寂しがり屋でね?とても繊細な子なんだ…」
「…そう……」
「……それとね…?その子は、とても強いんだ。誰かを護る為には自分が傷つくことも厭わない……そんな、勇気ある子なんだ……」
「……ッ……そんなこと、ないわよ……」
マリンの手が流那の手に重ねられる。その弱々しい温もりに流那の胸が締め付けられる。
そしてマリンは満面の笑みでそっと呟いた。
「流那…大好きです。僕と、友達になって?」
その言葉を聴いた瞬間、流那は堪えきれずマリンを抱き締めて泣き叫んだ。
「バカっ!バカねっ!私たち、もうとっくに友達じゃないっ!!う、ううぅ…ッ!」
「流……那……?」
「私だって万理のこと……大好きよ!そんなの言わなくても分かるじゃないッ!?分かりなさいよッ!う、うぅ…ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、マリンは満ち足りたような顔をしてその瞳を閉じた。
「…あぁ……僕たちは友達になれていたのか……良かった……僕の独り善がりじゃ、なくて……」
「万理……?まだ私たちこれからでしょ!?これからもっと楽しいこと嬉しいこと一杯待ち構えてるはずよ!?だから…ッ!」
流那は涙を流しながら笑顔のマリンに呼びかけ続ける。しかしその声は、もうマリンには届いていなかった…
「……流那……僕は……君と出会えて……」
「大丈夫だから!しっかりしてよっ!万理っ!!」
「……ありがとう…流那……」
そう言うとマリンの体が薄っすらと光り、月明かりに透けていく。
「きゃあッ!?や、やだよ?ヤダよッ!!」
マリンは笑顔のまま、流那の腕の中でその形を失い、光の粒子となって夜に溶けていった……
「いや…いや……万理……いやあああぁああーーーッ!!!」
夏の夜、湖畔の水面に女の悲痛な叫びだけが木霊した。




