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晴天

「どうして……冬野目君は眠っているの?」

 ぼんやりと瞼を開け乍ら、壬生はそう言った。

 彼女は重厚な扉にもたれかかったままだ。そうしていないと、細身の体でさえ支えることができないのだろうと、一条は思った。

「壬生はん……」

 紛れもない、自分達が探していた存在がそこにいた。その佇む姿はどこか儚げで、見るからに体力が消耗している。しかし五体満足の状態である壬生と再び会えたのが、一条と吠木にとっては奇跡のように嬉しかった。

「壬生さん、こちらへ!」

 吠木の声に、壬生がゆっくりと首を傾げた。

「そこは危ないです」

 壬生がいる位置から一条達の場所までと、美作の場所までは同じくらいの距離だ。吠木は壬生の安全を考え、自分たちの後ろに壬生を隠すことにした。

「私、上手く歩けなくって……」

「大丈夫、僕につかまってください」

 一条は美作を凝視した。吠木が壬生の手を取って連れてくるまで、美作には一切の手出しをさせないつもりでいる。しかし、美作はじっと壬生をみつめたまま動かない。

 不気味だ、と一条は鳥肌を立てた。

 あれだけ固執していた壬生が、こうして目の前にいるというのに。壬生がどうやってここまで逃げてたのかは知らないが、この状況は美作にとっては好ましくないはずだ。

 自分たちは、このまま壬生を連れ去ってしまっても良い。化け物と化した美作から逃げ切れる自信は無いが、壬生だけなら、どうにかしてこのビルから脱出させることができるかもしれない。

 一条が考えを巡らせているうちに、壬生の手を引いた吠木が一条の元にやってきた。

 すぐそばに、倒れたまま動かない砧。

 そして、傷は完治しているはずなのに目を覚まさない冬野目。

 意識がない二人と、満身創痍の二人。

 どうにかして、この場を切り抜けることはできないものか。

 「一条さん、僕が雪丸で切り付けますから、その隙に壬生さんと冬野目さんを部屋の外に出してください」

 吠木は小声で言った。

「何を言うとるん。あんた、確実に死ぬで」

「構いません。僕は……」

 吠木は残った方の腕が動くことを確かめると、雪丸をしっかりと握りなおした。

「忠犬ですから」

 言うや否や、吠木は真っ直ぐ美作に向けた駆け出した。

「はじめくん!」

「早く、逃げてください!」

 一条は奥歯を噛みしめて、美作と交戦する吠木を見つめている。


 短い時間のうちに、一条は頭の中で様々な考えを巡らせた。

 このまま吠木が時間を稼いでくれれば、冬野目と壬生は助けることができるかもしれない。美作の動きが予測できないものの、突然現れた壬生に反応しない様子を見ると、意外とすんなり逃げる切る算段がつく。しかし、そうなると吠木は確実に命を落とすだろう。そして吠木の動きを封じた美作は、次は意識を失っている砧を狙うかもしれない。

 冬野目と壬生を生かし、吠木と砧を殺すのか。

 否、それはできない。自分は冬野目と壬生の友人である前に、砧の近衛兵なのだ。自分が仕える君主を見捨てて良い道理など、あるはずもない。

 では、冬野目と壬生をここに残して、自分は砧を背負って逃げるか。そうした場合も同じように、すんなりと逃げきれるかもしれない。むしろ抱えるのが砧一人で済む分だけ、冬野目と壬生を逃がすよりは助かる可能性は上がるだろう。

 

 一条は眉根を寄せた。

 

 いくつかの案を天秤にかけては、どちらも天秤から下ろす時間が続く。どうしてもどちらかを、そして誰かを切り捨てることが、一条にはできない。

 そうなると、選択肢は急に少なくなる。

 一条は横を向き、目の焦点が定まらないでいる壬生を見た。

 とろんとした目で、壬生は血だまりの中に倒れる冬野目を見つめている。彼女が今の状況を把握できているのかは怪しいところだ。

 しかしよく見ると、壬生の唇が小さく動いていることに気が付いた。

 とても小さく、微かな動き。

「壬生はん?」

 一条の問いかけなど聞こえないかのように、壬生は視線を冬野目に投げ乍ら唇を動かしている。

「壬生はん! しっかりしてぇや!」

 一条が肩をつかむと、壬生は簡単に体勢を崩した。そのまま床に両手をつき、ぴくりともしない冬野目を見ている。

「壬生はん……」

 その時、大きな音と共に苦悶の声が響いた。

 音の方へ眼を向ける一条。すると、壁にめり込むようにして倒れている吠木がいる。

 その横を悠々と闊歩してくるのは、ガラス玉の目を持った美作。

 

 もう、ダメだと思った。

 

 自然と一条の口角は上がる。

「ふふっ」

 自分でも意味がわからなかった。

 一条は立ち上がり、向かってくる美作に相対した。

 今では両方の翼がぬらめいている、元人間。

 おぞましいほどに何の感情も感じない。

「感情に飲み込まれるっちゅうんは、悲しいもんやな」

 呟いて、一条は跳んだ。美作の視界から一瞬消えて、すぐに着地、背後を取る。

 ゼロ距離で、狐火を放った。

 自らが放った閃光に一瞬目がくらみ、後方へと飛び退く。

 目が慣れてきた一条が次に見たものは、目の前に迫る美作だった。

「ぐっ」

 派手に吹き飛び、視界に赤いものが垂れてきた。

 手の甲で強引にそれをぬぐい、一条は目を動かした。

 

 吠木はもう動けない。砧も再起不能だ。

 冬野目は、まだ死んでいないというだけの状態で、壬生は正気だとは思えない。

 そして唯一動ける自分は、今まさに体力の限界を迎えている。


 ゆっくりと自分に向かってくる美作を目にして、覚悟のようなものが決まった。

 もう、何もできることは無い。

 このまま、みんな殺されてしまう。


 やがて、胸ぐらをつかまれる感覚がした。

 やけに血生臭い鳥類の翼が、視界の隅で振りかぶられている。

 一条の頭の中では、小さく唇を動かす壬生の姿が再生された。

 

 あの状態の壬生は、一体何を言っていたのだろう。


 一条はすべてを諦め、先程見た壬生の唇の動きをトレースした。


「冬野目君」「起きて」

「冬野目君」「早く起きなさい」


 思わず口元が緩んだ。


 視界の隅で振りかぶられた美作の翼が、今まさに自分に突き刺さるのを待っている。

 このまま身体を貫かれたら、後ろにいる壬生にも血がかかってしまうかもしれない。そんなことを思い乍ら、一条は瞼を閉じた。


 沈黙。


 沈黙。


 自分の身体を貫くはずのものが、いつまで待ってもやってこない。不審に思い瞼を開けると、美作は自分ではなく、自分の後方を見ているような気がした。

 きしむ首を何とか動かし、美作の視線を辿る一条。

 

 その先には、淑やかに口づけをする壬生の姿があった。

 相手は、冬野目である。


 ふと、自分をつかむ手が震えていることに気が付いた。訝しんで視線を戻すと、美作のガラス玉のような眼球が振動している。

「なんや……?」

 美作の眼球は振動を早めている。それにつれて手に入る力が弱まり、一条は床に尻もちをついた。

「どうなっとる……」

 美作はがたがたと震えて頭を抱えて始めた。そのままうずくまり、苦しむように身もだえをしたかと思うと、急にすべての動きを止めた。

 

 時間が止まったようだ、と一条が思ったのもつかの間、部屋の中に高音の雄たけびが響いた。窓はびりびりときしみ、床の血痕は波紋をつくる。

 壁も、天井も、重厚な扉も。その高音に怯えていように震えた。

 あまりの音の大きさに、一条は思わず耳を塞ぐ。それでも脳に直接響くようなその音は、紛れもなくカラスの鳴き声だった。

 悲しそうな、鳴き声だ。


 高音が止み、次に一条が見たのは信じられない光景だった。


 人間の姿の美作が倒れている。

 衣服の類は身に付けておらず、引き締まった肉体をさらけ出し、羽も嘴もついていない彫刻のような姿。

 一条は立ち上がり、倒れている美作の方へ向かう。奇襲に備え、一応警戒はしていたものの、美作の肉体はぴくりとも動かない。

「おい……変態。ミマサカ!」

 床の美作を見下ろしながら、一条は呼びかけた。しかし返答は無く、一条はしゃがみこんで美作の首筋に手を当てた。

「死んどる……」

 一条の背中に、声がかかる。

「一条さん」

 振り返ると、しっかりとした足取りで歩いてくる壬生。

「美作さんは……」

 黙って首を振る。

「そうですか……」

 どこか晴れ晴れとした表情をしている壬生は、床に倒れる美作を一瞬だけ見てから言った。

「みんなを連れて、帰りましょう」





















 

 

 冬野目の下宿である。ベッドに横たわり瞼を閉じている冬野目の横で、優雅に座っている壬生がいる。

 時刻は、午前九時過ぎ。

 カーテンが引かれているので室内は薄暗い。

 壬生は落ち着いた様子で、手に持った文庫分に視線を落としている。時折、冬野目の方へ視線を向けるが、彼が息をしていることを確認すると、再び活字に視線を戻した。

 

 美作のビルから戻って、三日が経っていた。


 冬野目の部屋の一角に、可愛らしい装飾が施されたキャリーケースが置かれている。壬生は立ち上がりそのケースを開けると、おもむろに黒い下着を取り出した。その後、長いタオルも取り出し、するすると服を脱いでバスルームへと向かう。


 シャワーと、液体が流れる音。


 壬生は熱いお湯を浴びながら、頭の中でいくつもの言葉を弄んでいた。それらは何通りもの文章になり、その度に壬生は意図的に言葉を分解した。

 蛇口をひねってお湯を止めると、壬生は丹念に身体を洗った。いつもの順番で、しかし入念に、願掛けでもするかのように時間をかけた。

 長い髪を洗うために、シャンプーを手に取る。このシャンプーは壬生のお気に入りで、自分の下宿から持ってきたものだ。

 泡にまみれて、頭の中に浮かぶ言葉を全て捨てた。

 再び蛇口をひねり、身体についた泡と髪を流す。ふう、と一息ついてからバスルームの扉を開けると、夏の湿気で早くも汗が出てきそうだった。

「まったく……どうしてこんな部屋を選んだのかしら」

 そう言い乍らも、壬生の表情は明るい。口元には微かに笑みを浮かべ、身体についた水滴をタオルで拭き取ると、用意していた下着を身に付けた。

「本当に、どうして黒なんか……」

 壬生の頬が朱に染まったのは、湯上りだというだけではない。

 この下着を身に付けるのはこれで二度目。

 壬生は大きめのシャツに頭を通すと、中学時代のジャージを切ってあるものに足に通した。

 冷蔵庫に入っている、冬野目が煮沸と冷却を施した水道水で喉を潤すと、ゆったりとした足取りでベッドの横に向かった。

 じっと、冬野目の顔を見る。

 ただ眠っているだけのような、その寝顔。

 無意識に顔を近づけていた。

 接吻。

 壬生が嘆息と共に顔を離すと、枯れ枝のような男は目を覚ました。

「あれ……壬生さん?」

「寝すぎよ、冬野目君」

 冬野目は貧相な上半身を起こし、壬生を見た。

「帰って、きたんですね」

 顔はゆるゆると笑っている。

「ええ、そうよ」

 壬生も口角を上げる。

 冬野目は思い出したように言った。

「今、僕にチューしませんでした?」

「男がチューなんて言い方しないで。それよりも……」

「いや、したんですか?」

「砧ちゃんたち、京都に帰ったわよ」

「え?」

「私たちをここに送り届けた後、なんでも力を使い果たした砧ちゃんを治療するからって、急いで出ていったわ」

「そんな……あいさつも出来なかった」

「だから、寝すぎなのよ」

 壬生の脳内に、一条の手の中で丸くなっている砧の姿が浮かぶ。力を使い果たした砧は、もう人間の姿を保つことが出来なくなっていると、一条から聞いた。

 そして何よりも壬生の記憶に残ったのは、砧のお腹のあたりにある、星形の模様。

 

 まだ寝ぼけた様子の冬野目に、壬生が声をかける。

「冬野目君は三日も眠っていたのよ。さぞかしお腹が空いたでしょう」

「ええ……まあ。でも僕は食べなくても結構平気な方で……」

「いいから」

 冬野目の言葉を遮り、壬生は冬野目の鳥ガラのような手を握った。

「私が焼きそばをつくるわ。食べなさい」

 冬野目は自分の手と、壬生の顔を交互に見比べた。

「あの……」

「台所、借りるわね」

「壬生さん……」

 冬野目が部屋の中を見回すと、見覚えのない物が増えていた。可愛らしいバッグや、女性物の服。テーブルの上には、どこかで見覚えがある狸のキーホルダーもある。

「これ、壬生さんの私物?」

 壬生は冬野目の問いかけを無視して、腰に手を当てた。

「冬野目君、ノートパソコンの中にあるいかがわしいゲーム、全部消しておいたから」

「えっ! どうしてそんな殺生な」

「だって……」

 壬生はイノセントに笑った。



「これからは、必要ないもの」



 


 


 

 

  

 

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