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送り梅雨

 冬野目一行は大学の敷地から出て、吠木に連れられて街の中を歩いてきた。その途中で立ち止まる。

「ここで壬生さんが車に連れ込まれたんです」

 吠木は暗い面落ちで、ある一角を指差した。誰の目も見ない。その声には後悔や自責の念がこもっているような気がして、冬野目も一条も言葉を詰まらせた。

「本当にすいません……僕がもっと早く判断を下していれば」

 そう言って拳を握る吠木。

「いや、吠木くんのせいじゃないよ。僕らにしたって初めは鎌田がストーカーだと思っていたわけだから、壬生さんが鎌田から離れて一人で行動したとしても、そこまで注意を払ってなかったんだし」

 擁護するような冬野目の言葉に、しかし吠木は頷かない。ただ黙ってある一点を見つめ、じっとしている。

「お姉ちゃん……」

 砧は心配そうにあたりをきょろきょろと見回してる。壬生がさらわれたとの一報を聞いてから、心配を一番表情に出しているのが砧だった。

 壬生のことを実の姉のように慕っているのが伝わり、冬野目は複雑な顔をした。

「とにかく、探すしかないわ。手分けして……って言いたいところやけど、冬野目はただの人間やし砧は胆力の使い方を忘れてる。どうしたもんやろか……」

 顎に手を当てて考え込む一条。彼女は最後まで鎌田を尋問していたが、壬生がさらわれたと知った途端に「ぷよっと君はもうええ!」と鎌田を放り出して駆け出したのだ。後を追って砧と冬野目も移動し、吠木と合流し、事の一部始終を見ていた吠木から話をきいた。

 冬野目達四人からは離れた場所で姿を隠していた吠木は、鎌田の姿を確認して報告した後、他に怪しい人物はいないと判断した。というよりも、周りにはすっかり人気が無くなってしまっていたという。

 その後、一条達が鎌田に詰め寄っている様子を遠くから確認し、半ば自分の役目は終わったと思っていた。もし相手が烏丸一派の連中であれば自分が出ていく必要があるだろうが、どうやらあのストーカーは普通の人間だ。そうなれば、むしろ擬人化中の自分は目立たないほうが良い。あとは、こういった修羅場が得意な一条に任せておけば問題は無いだろうと、吠木は警戒のレベルを下げた。

 その予断がいけなかった。

 あの小太りなストーカーの姿を確認した壬生が、見るからに動揺した。そして耐えきれない様子でどこかへ走り出してしまった。

 しかし、吠木はそれを問題視してはいなかった。既に危険人物は一条達と一緒にいるので、その場から離脱した壬生に危害を加える人間はもういないと判断したのだ。壬生自身は相当辛いだろうが、その心のケアをする役目に自分は向いていない。それは、この一件が落ち着いたら冬野目や一条が担う役目だと思っていた。それに、少し離れて時間が経ってば、壬生も落ち着いて戻ってくるだろうと楽観視をしていた。

 だが、離れた場所から観察していると様子がおかしい。あの一条がストーカーをタダで済ます理由はないはずだが、小太りな男は謝る素振りも見せないし、怯えてはいるようだが異常性は感じない。土下座をして許しを乞うたり、ひたすら一条から罵詈雑言を浴びせられるような気配も無い。

 もしかして、人違いだったのだろうか。

 あの見るからに怪しい風貌に騙され、全く無実の学生を『怪しい人物だ』と報告してしまったのだろうか。

 いや、違う。それならば彼の姿を見て、壬生が逃げ出した理由が無い。

 なんだろう、この違和感。

 その時、吠木は壬生のことが急に気になった。彼女が走り去ってからどれくらいの時間が経ったかわからないが、まだ戻ってこない。

 なんだか胸騒ぎがした。

 気付いたら大学の敷地を出て、イヌの嗅覚で壬生のにおいを探った。それを辿って歩いて行くと、壬生が誰かと話しているのを見つけた。会話に割って入ろうかとも思った吠木だが、基本的に自分は人間ではない。ならば、友人と一緒にいる壬生の邪魔をするべきではないのではないかと思い、物陰に隠れて様子を窺うことにした。

 しかし、何やら雰囲気がおかしい。壬生は常に相手から一定の距離をとっていたし、その様子からは親密な空気も感じない。ついに壬生は話し相手に背を向けて、吠木の方に向かって歩き出した。

 咄嗟に乗り出していた身体を引っ込め、隠れる吠木。しかし、このときに飛び出して壬生と一緒にみんなのところに戻れば良かったと、吠木は後になってから反省することになる。

 壬生と話していた相手は、壬生が背を向けて歩き出したと同時に駆け出した。そしてポケットから何やら布のようなものを取り出して、壬生の口に当てた。

 徐々に身体から力が抜けてゆく様子の壬生。

 これはただ事では無いと、吠木は飛び出した。しかし一足遅く、ぐったりとした壬生を抱きかかえた男は、丁度良くやってきた車に乗り込んで行ってしまった。

 吠木はすぐに追いかけたが、人間の姿では車の速度に勝てるわけも無い。そうこうしているうちに車は遠ざかり、完全に見失ってしまった。

「僕が……あの時、無理矢理にでも壬生さんを連れ戻していれば……」

 悔しそうな吠木の顔を、冬野目は直視できないでいる。普段の冷静でしっかりした様子からは、かけ離れた表情だからだ。しかし、それが吠木の壬生に対する気持ち表しているような気がした。

「絶対に、助けましょう」

 冬野目はそう言ったが、もちろん具体的な方法や対策があるわけでは無い。しかし、涙する壬生のことや、友人の身の安全を案じて狼狽える吠木を見て、どうしても助けなければならないと思ったのだ。

 しかし。

 気持ちだけでは事態は好転しない。相手が吠木の嗅覚の網から逃れてしまっては、もう探す手立てが無いと言ってもいい。

「助ける言うても、何も手掛かりがないとなぁ……」

 沈黙が降りる中、再び冬野目が口を開いた。

「吠木君、壬生さんの話し相手の顔とか見なかった?」

「顔は、よく見えませんでした……けど、背が高くてなんだか馴れ馴れしい感じがしました。それは印象にあります」

「背が高くて、馴れ馴れしい……」

「そんなん、なんぼでもおるやんなぁ……それに壬生はんはあの見た目やし、泣いて弱ってるところをどこぞの変態に連れて行かれたっちゅうことも……」

 一条の言葉を聞いて、冬野目は思った。確かに、壬生の言動を良く知らない人間が見れば、壬生はただの魅力的な女子大生だ。それに、さらわれる直前は泣いていた。となれば、そこに目を付けた男がナンパのように壬生に声をかけても不思議ではない。普段の壬生なら見向きもしないだろうが、今の状況ならどうか、断言はできない。

「もし、場当たり的な拉致であれば……僕らにできることは何も無いですね。警察に届けた方が、確実に見つけてくれるでしょう」

「そやけど……時間がかかるやろ。ウチらはウチらで動かんと」

「そう、ですよね……。あの、吠木君」

 冬野目は横で佇む吠木を見た。

「他に、何か聞いたり見たりしなかった?」

「そうですね……そう言えば、相手は壬生さんのことを『なっちゃん』と呼んでました。それで、慣れ慣れしいなって思ったんです」

「そやけど、それは別に普通の呼び方やしなぁ……」 

 それを聞いていた冬野目はポケットから携帯電話を取り出した。

 素早く操作して、耳に押し当てる。

「警察にかけるんか?」

 冬野目は一条の言葉に首を振り、一度携帯を耳から離した。そして、もう一度耳に当てた。 

「くそ……出ない」

「冬野目さん、どこにかけてるんですか?」

「壬生さんのことを『なっちゃん』なんて呼ぶのは、アルバイト先の店長の他には一人しかいないと思うんだ」

「ということは、その人が……!」

「そう。その人にかけてるんだけど……出ないな」

「なんでそいつの連絡先知っとるん?」

「その人は、僕と壬生さんが所属しているサークルの先輩なんです。それで、自己紹介のついでに連絡先を交換したんです」

「ということは、そいつんとこに行けば壬生はんがおるんやな!」

 一条の声が弾む。

「まだ確信は無いのですが……それに、連絡がつかないですね」

「電話を無視してるんが、また怪しいよなぁ……」

「くそ……あ、そうだ」

 冬野目はくるりと身体の向きを変えて走り出した。

 それを見た砧や吠木、一条も後を追う。

 一行は再び大学の方向へと向かった。





  

 

 

 


 少しの肌寒さと違和感を覚えた。でも、全身の感覚が鈍くなってるらしく詳しいことはわからない。

 それに、頭もずいぶんぼんやりする。

 瞼を開けると、部屋の中は間接照明の優しい光で満ちている。光の色は暖色系で、光を見つめているだけで心が落ち着くようだ。

 なんで、自分はここにいるのだろう。

 壬生夏吉は無意識のうちにそう考えていた。しかし、詳しく考えようにも意識が朦朧としていて上手くいかない。自分の頭はこんなに動きが鈍かっただろうか。

 それに、もっと重要なことを忘れているような気もする。それが原因で自分は誰かを嫌悪し、忌み嫌っていたような気がする。しかし、それも思い出せない。

 全てが遠い昔のことのようにも思える。

 きっと自分は長いこと眠っていて、とても複雑な夢を見ていたのだろう。だから、こうして目が覚めても現実と夢の区別がつかないのだ。視覚や聴覚からの情報といった具体的な記憶は、全く意識の明かりの下には出てこない。その代わりに、何だか概念のような感情の雰囲気だけが感じられる。しかしそれは、例えば霧のようなものだった。掴もうとしても、手を閉じたと同時にどこかへ消えてしまう。

 気配、雰囲気、空気。そういった目に見えないものの存在について考えることに疲れた壬生は、首を動かして横を見た。すると、ベッドに備え付けられた棚の上に何か置いてあることに気が付いた。それに気が付くと、今度はなにやら鼻をくすぐる、食欲を誘うにおいが感じられた。

 壬生は、そのにおいの影響で自らが空腹であることに気が付いた。

 しかし、食欲さえ明確に認識できない。確かにお腹は空いているのだから、すぐ近くに食事があるのであれば、食べたいと思うのが普通であろう。

 空腹を自覚できる。しかし食べる気にはならない。

 不思議な感覚に陥っていると、部屋のドアが開かれた。空気が流れ、壁に映った明かりが揺れる。

「目が覚めたかい。ここに来てから何も食べてないのだからお腹が空いただろうと思ってね。食事の手伝いに来たんだ」

 部屋に入って来たのは長身の男性だ。立体的な顔立ちで、昔美術の授業で見た彫刻のようなルックス。声は低く響いて、部屋の中で優しく沈んだ。

 何も言わずにいる壬生を見て、美作は口元に笑みを浮かべた。

「ほら、僕が手伝ってあげるから。冷めないうちに食事にしよう」

 美作はベッドの横に来て、器を持って向き直った。

「ほら、なっちゃん。ちゃんと食べないと。今より太っても痩せても、君の美しさは揺らいでしまう。逆に言えば、今が奇跡なバランスの上に成り立っている状態なんだから」

 そう言って、スプーンにすくった液体を差し出す。壬生は、差し出されたそれを不思議な気持ちで見つめている。

 こうやって誰かに食事を手伝ってもらうなんて、いつぶりだろう。子供の頃、熱を出して寝込んだときはよくこうしてもらったような気がする。母が旅館の仕事の合間を縫って看病をしてくれて、母の手がふさがっているときには、仲居の誰かが面倒をみてれたはずだ。

 でも、あれはもう随分昔のことだ。今の自分はもうそんなことをされるような年齢ではない。

 食事くらい、一人でしなくては。

 そう思った壬生は、差し出されたスプーンを自分の手で持とうと思った。「自分で出来ます」と言えば良いのだが、どうしても声が出ない。

 しかし、上手くいかなかった。何度手を持ち上げようとしても、出来ない。すると、目の前にいる彫刻のような男はくすりと笑って、「無理はいけないよ」と言った。

 何が無理なのか、よくわからない。なぜ自分の手が動かないのだろうと思って、首を少し曲げて見た。

 手首には手錠がはめられていた。

 さらに見ると、両足首にも枷のようなものがはめられている。そして手足両方につけられた拘束具からは鎖が伸びており、その先はベッドの下へとつながっている。

 これでは、手と同じように足も動かせない。

「大丈夫だよ。食事は僕が手伝うし、トイレだって心配しなくていい」

 美作は器を一度置いて、自分の手足をぼんやりと眺める壬生の頭を撫でた。

「これで、ようやく独占できる。初めからこうすればよかったね、なっちゃん」

 壬生は何の反応も示さない。しかし美作は満足気な表情を浮かべている。

「それにしても……想像した通り。素晴らしい」

 ベッドから降りて、少し離れた場所から壬生を見る美作。

「サイズも、ぴったりだ」

 壬生が着ている服は、所謂ゴシック・ロリータと呼ばれる類のものだ。色はツートンカラーで、胸元や袖にフリルがついている。スカートには黒いリボンがついていて、足にもフリルがついたソックスをはいている。

「まるでお人形さんだ……僕は、フィギュアよりも実物の君が良いって言ったけれど、これは迷うね。君はフィギュアよりも完成されている。そして自分の意思が最大限押さえ込まれているというのがまた、良いね。とても独占欲を掻き立てる」

 壬生は、空中をぼんやりと見つめている。美作の言葉はもちろん耳に入っているのだが、どこか他人事のように感じられてしまう。

 何の不快感も感じない。

 それどころか、こうして食事の手伝いをしてくれて、尚且つ可愛いらしい服を着せてもらえるのは嬉しいことなのではないかと思い始めていた。

 手足は動かすことができないけれど、それ以外は満たされていると言っていいのではないか。

 客観的に見て満足するべきこの環境。もう、何の心配もいらない。

 何も考える必要は無い。

 考えることを、辞めてしまっても構わない。

 それは魅力的な誘惑だ。

 自分はこれまで、いったいどれ程のことを考え、そして不安になり、いつしか諦めてきたのだろう。

 自分の容姿が、他人からどう見られているかということの自覚が無かった子供時代。そのせいで不要なやっかみを買い、顔も知らない人にまで心無い噂を口にされた。なるべく顔には出さないようにしてきたけれど、それは気にしていないことと同義だというわけではない。

 子供乍らに、どうすれば上手な人間関係を築けるのかを考え、試し、失敗し、また試した。

 もうとっくに諦めてきたことではあるが、経験はどうしても自分からは切り離せない。過去は無くならない。

 でも、このまま考えること辞めてしまえたらなら。

 考え無くて良い。心配しなくて良い。試さなくて良い。

「君は自分の意思でここにいるんだ。そして、これからはずっとここにいる。いいね?」

 美作の問いに、あと少しで頷くところだった。

 壬生は不思議に思った。

 何かがひっかかる。

 何だろう。

「……なっちゃん? どうしたのかな?」

 美作の言葉は、どこか遠い。

 壬生は気付き始めている。

 何かが自分を、境界線上で支えている。あちら側へ倒れてしまわないように、手を握ってくれている。

 それは、果たして。

「なっちゃん。ずっと僕と一緒にいてくれるね? そう望むよね?」

 美作の言葉に、違和感が混じっているのを感じる。

 次の瞬間。

 静かな部屋に怒鳴り声が響いた。

「この腐れ変態!壬生はん返せ!」

 半開きになっていたドアを、文字通り蹴飛ばして入って来たものがあった。

 金髪のショートカットをさらりと揺らして、痩身にして長身。吊がちな瞳に、薄い唇――そこからは歯切れの良い関西弁が放たれた――の京美人を先頭にして、数人がどかどかと部屋の中へと入って来た。

 しかし、壬生の虚ろな目は金髪の美人ではなく、その横にいる枯れ枝のような男を真っ直ぐに見ていた。

 今まで動かなかった、そして動かす必要性すらあまり感じなかった自らの唇は、不思議なことに無意識のうち動いた。

 言った。

 否、叫んだ。

 


「ふ、冬野目君……助けて!!」

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