表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

プロローグ:『打ち砕くもの』


 絶望を打ち砕くもの。希望を破壊するもの。

 退屈に過ぎていく平和な日々も、平穏に過ぎていく無為な日々も、

 なにもかもぶち壊して、なにもかも変えていくもの。

 それは、


町の西端に位置する、廃棄されて久しい工場に太陽が重なる。この町では、それが夕暮れの合図だった。今はなんの役目も果たしていない鉄塔やタンク、太い配管が隙間なく組み合わさって巨大な生き物の躯のようにそびえ立つ廃工場を夕日が後ろから照らし、燃え上がるような真黒に染めていく。

毎日繰り返される、珍しくもなんともないその光景の中に、歩いていく一人の少女が居た。周囲に人の姿は無く、それどころか向こうの通りを走る車の音、遠くないどこかの人の足音と話し声、鳥や犬のような人以外の鳴き声さえもが死に絶えたように聞こえない静寂に、少女は気付く様子もなかった。

「……ここじゃない、どこかへ」

少女はそう呟いて、茶色く熟したフウセンカズラの並ぶ民家を通り抜ける。燃えるような夕日に染められた道路を踏みしめる歩みは、その言葉と同じようにどこか虚ろで、それでいてひどく切迫しているようだった。晩夏の終わった夕暮れの、冷え込む空気を気にも留めず、その歩みはどんどん早くなっていく。目指すものが近づきすぎて家屋の陰に隠れてしまう前に、少女は一度だけ足を止めてそれに目を凝らした。

それは『扉』だった。光の粒子に縁取られ、空間そのものに取り付けられたようにぽつんと立つ両開きの扉。夕日を背にして真っ黒に燃える、既に使われなくなった工場のてっぺんにそれは立っていた。

――この町にある不思議な噂の一つ。

――夕陽が工場に隠れて、完全な夜を迎えるまでの間に、その『扉』は現れる。

――『扉』は、ここではない別の世界へと続いているのだ。

ここじゃないどこかへ、どこでもない、何処かへ。声に出さずとも何度も思い浮かべ、そして一人で居る時に呟き続けたその言葉に追い立てられるように。少女は誰も居ない道路の真ん中を歩く。細く伸びた華奢な影の先で、東の空は既に夜の色をしていた。


――プロローグ:『打ち砕くもの』――


今まで『扉』に一度も近付いたことがなかったし、そこに行こうとすら思わなかった。その日、彼女がその噂話を口にすることがなかったら、死ぬまで行かなかったかもしれない。中学一年生の冬、新たな学校生活にも慣れ、そして飽いていた頃のことだった。


「ねぇ、つばめ、ひかり、知ってる?夕方になるとね、あのてっぺんに変な扉が見えるんだって」

学校が終わった後の、いつもの帰り道でのことだった。高木リノンは西にある工場を指差して、舌っ足らずな声でそう言ったのだ。リノンはブロンドの髪と校則に触れない程度の化粧をした顔を真正面からの西日に照らされて赤く染めながら、少しも眩しそうではない。暮町は都会とも田舎とも言い難いありふれた街で、ただ西の廃工場に太陽が重なる夕暮れの景色だけが、その名前と相まってこの街を特徴づけるものだった。西日に目を眩まされることも少ないが、地平線に沈んでいく夕陽というものも見ることがほとんどない。

「見えないじゃん」

リノンと並んで歩いていた二人の少女のうち片方、つばめと呼ばれた少女は指された方を見て、ため息をついた。男の子のように短く切りそろえられた髪の下に覗くのは、またか、というようなあきれ顔だった。なんのことはない、いつもの根も葉もない噂話だ。リノンは噂話が好きで、いつもどこからともなくそんな話を仕入れてくる。鷲尾つばめの学校帰りは、その日リノンが聞いてきた噂話を聞かされることで家までの暇を潰すのが常となっていた。

「だからね、たまーに見える人が居るんだって。普通の人は見えないの」

リノンは得意げにチッ、チッ、と小さく舌を鳴らしながら、顔の前で立てた人差し指を振る。然るべき時と人物であれば映画のワンシーンになるくらいに様になった動作だったが、リノンはハーフでもクオーターでもない普通の日本人だ。外国人のような名前は両親の趣味で、派手な金色に染められた髪も、地毛は普通の黒色だ。

『扉』は廃工場に夕日が隠れた頃、その真上に現れるのだという。その噂は、この街の子供ならば一度は聞いたことがあるものだった。『扉』を見ることが出来る人間は限られていて、『扉』がどこに続いているのかは誰も分からない。ここではない別の世界に続いている、そんな噂もあるくらいだが、そもそもの『扉』を見たと話す人間を、つばめは今までに見たことがなかった。その事をつばめが口にすると、「あるかもしれないじゃん。っていうか、あった方が面白いじゃん」と言ってリノンは口を尖らせる。そして、リノンとつばめが歩く少し後ろに、影のようにくっついて歩いていた、もう一人の少女の方に振り向いた。

「ねえ、ひかりもそう思うでしょ?」

その少女の名は、篠崎ひかりといった。ひかりは急に二人が自分の方を向いて驚いたようだったが、すぐに控えめに微笑みながら口を開いた。「わたしは、分からないけど……」そして二人の表情を確かめてから、ひかりは言葉を続ける。

「でも、あったら楽しそうだね」

聞き取りづらいほどではない、小さな声。そして歩くのに合わせて、ヘアゴムで括られた小さな二つのおさげが揺れる。個性の濃い二人と並んでいるから、という事を含めても篠崎ひかりは目立たない、影の薄い少女だった。

「だから、そんなのあるわけないってば。いつもの嘘八百の怪談の一つでしょ。『扉』がどこに続いてるか分からない、なんてさ、考えてなかっただけじゃない?」

「だから、ここじゃないどこかに続いてる、ってことだけは確かなんだよ。例えば、別の世界とかね」

「ここじゃない世界なんて、あるわけないよ。そんなの、テレビとか本の中の話だけじゃん」

「もー、つばめったら、つまんないの」

すぐにつばめが口を挟み、リノンは頬を膨らませる。三人で話しながら帰るのは、小学校に通っていた頃から変わっていない。けれど、学校での生活、友達関係は三人ともばらばらだった。リノンは都市伝説や誰かの恋愛事情といった噂話をする女友達が多くて、つばめは主にサッカーをする男友達、そして生徒会や先生の手伝いもしているからそちらにも顔が広い。そして、リノンがふと思い出したように言った。

「あ、そうだ。男子がね、探検隊組んで正体確かめに行くって言ってた」

それを聞いたつばめは、少し真剣な表情になって呟く。

「またそんな危ない事……やめさせないと」

街外れの工場は、三人が物心つく前から廃棄されていたような古いものだ。鉄製の足場が錆びついて、崩れたりしていてもおかしくない。「おぉー、つばめはやっぱりリーダー、って感じだね。それとも番長…あ痛っ」余計な一言を付けたリノンの頬を軽くつねって、つばめはうんざりしたように言った。

「委員長にもちゃんとしてほしいんだけどね、まったく」

つばめは正義感が強くてクラスのまとめ役や生徒会の手伝い、喧嘩の仲裁なども買って出ることが多かった。リノンから見ても、それは誰かに褒められるためや誰かの上に立つためではなく、ただ単純に『間違っていることが嫌だ』という単純な想いから来ている行動だった。

「そういえばリノン、七不思議って言ってたけど、他にはどんなのがあるの?」

「えっとねー、他にはねー…」

ひかりがそう聞くとリノンは眼を輝かせて、七不思議の続きを話し始める。まっくろな化け物の噂――夜に現れて、迷子になった子供を食べてしまう顔のないお化けの噂。ひかりもその話は聞いたことがあった。この街では、親が寝ない子を脅かす時の常套句になっているのだ。そして大きな力を持つという『しにがみさま』、たぶん暮街の「こっくりさん」のようなものの噂。廃工場に現れるという白い女の人の話や、『人喰い道化』と呼ばれた猟奇殺人犯が今も生きていて、この街のどこかに暮らしているという根も葉もない噂。

「あたしはそれだけしか聞いたことないけどー、他にもいろいろあるらしいよー」

リノンも根っから信じ込んでいるわけではなくて、ただ騒ぐ材料にしたいだけだろう、とつばめは思った。つばめも誰かの悪口とかで盛り上がるよりはよっぽどいいからと、それほど頓着していない。彼女は『間違ってる』『危ない』と本気で思うようなことでなければ、そんなに目くじらを立てたりしないのだ。信じるかどうかは別として。

「でも、ちょっと変だよね。ふつう七不思議って言ったら、『学校の』とかなのに」

「そうだね、なんでこの街の、なんだろうね」

相槌を打ちながら、ひかりはもう一度工場の方へと目をやった。太陽もゆっくりと傾いて、工場の少し上くらいから橙色の光を投げかけている。ひかりは『暮街の七不思議』を他の場所でも聞いたことがある。その中には、子供達の間で泡のように生まれては忘れ去られて消えていく他の噂話とは違って、大人まで口にして、信じてさえいるような、不思議な都市伝説だった。

「まあ、そんなに気にすることじゃないでしょ。たかが噂なんだからさ」

その後、三人は他愛のない話をしながらまだ緑色の葉の方が多いイチョウの街路樹が並ぶ道路を抜けて、歩道のなくなる住宅街のあたりで別々の道に分かれた。

「じゃあね、また明日」「またあしたー」「……うん、また、明日」

ばらばらな挨拶をして、つばめとリノンはそれぞれの帰り道を歩いていく。つばめはしゃんと背を伸ばして、リノンはいつも通り、何か楽しい事があったみたいにスキップしながら。そして、ひかりは二人の背中をじっと見つめて、それが見えなくなった後も立ち尽くしていた。

どれだけ経っただろうか。ひかりはゆっくりと夕日を背にした工場に向き直った。そのてっぺんに立つ『扉』が、ひかりの目にはずっと変わらず写っていた。やがてひかりは吸い寄せられるように、廃工場に向けて歩きはじめる。もはや口癖となったその言葉を呟いて。

「……ここではない、どこかへ」


――


『見える』と言っていたら、つばめとリノンはどんな反応をしただろう。ひかりにはその様子も、手に取るように分かった。かつての自分に向けられた視線や態度が、そのようなものだったから。


誰にとっても、居ても居なくてもいい。それが、篠崎ひかりがこれまでの経験から身に着けた処世術だった。『普通』というものが何かあやふやだった物心ついてすぐの頃から、ひかりは自分がその『普通』から遠く離れた存在であることだけは理解していた。生まれた時には既に『扉』が見えていたし、それ以外の日常で見ている風景も考えることも恐らく、他の人間とは異なるものだった。ひかりが観た通りのことを話したりすると、必ず周囲の人は奇怪なものを見る目つきになった。ひかりは最初、自分が誰かと話したり仲良くしてはいけないのだと考えて口を閉ざしたけれど、やがて年を経るにつれて自分が『普通』からいかに、どのように離れた存在であるかを、そして口を閉ざす選択が間違っていなかったということも理解した。ただ、その頃(ひかりが三年生になった頃だったか)から、口を閉ざして人を遠ざけるひかりは悪い意味で少し目立ちはじめた。日ごろからちょっかいをかけるべき浮いた人間を探しているグループには格好の的にされたし、いささか見当違いな親切心で、せっかく作った壁を壊そうとしてくる人間もいた。

――心を開いて、本音で語り合おう、と。

ひかりは彼らから、口を閉ざして輪から離れるだけでは不十分だということを学んだ。普通でないことそのものも悟られてはいけない、それは悪い結果を引き起こす。そして、ひかりは心を閉ざしてそつなく人と関係することを学んだ。いつも輪から少し外れたところで追従して微笑んで、周囲に合わせた、そつのない言葉で混ざって目立たないようにして、それではいけない深刻な場面には居合わせないようにした。なによりも自分の考えを、そして普通でない部分を気取られぬように細心の注意を払った。それこそ、さっきまでのリノンとつばめとの会話のように『居ても居なくてもいい』人間であることを努めた。誰にとっても、ひかり自身にとってでさえも。やがて、その処世術はひかりの生き方そのものとなった。

退屈な授業を、頭を使って取り組むことなく、かといって騒いだり、居眠りをして教師に目をつけられることもなく、ほどほどに聞き流して、授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、淡々と時を消費する。授業以外のなにも例外ではなく、何も感じず、何も為さず、ただ時間が過ぎ去っていくに全てを任せた。そうすれば傷付くことはなかったし、嫌なことは全て誰かが解決してくれるか、そうでなければ日常となって沈着した。自分はそんな風に、全ての出来事に壁を張って傍観者として人生を過ごすのだと考えていた。

「……うっ」

差し込む夕日と同じ色をしたコートと、臙脂色のスカートから伸びる華奢な脚にしっとりと纏わりつくように冷風が吹き込む。この時期でも暮れ時はもう寒く、ひかりは小さなうめき声を漏らして、目の前にそびえ立つ廃工場を見上げた。配管や鉄橋(キャットウォーク)の赤錆びが見えるくらいまで近づいてみると、そこから先は鉄網でできた立ち入り禁止のフェンスが幾つも立てかけられて進めないようになっている。フェンスの根元にはぼうぼうに繁ったままのススキかなにかが枯れていて、その中に空き缶から立方体のような形の旧式テレビまで様々なゴミが捨てられていた。

きしきしと音を立てる筋張った枯草を踏みしめて、ひかりはフェンスの隙間から廃工場の中へと入っていく。初めて踏み入った廃工場の中は、がらんとしていて埃っぽい臭いがした。居ても居なくてもいい人間は、他の人間の見えないものについて口にしたり、そこに足を運ぶことはない。そして『居ても居なくてもいい』ことを生き方にしたのと同じくらいの時に、篠崎ひかりは心の中で一つの言葉を繰り返すようになった。

――ここではない、どこかへ。

退屈な授業の最中に窓の外を眺めている時にも、なんの変わりもない一日を終えて、ベッドに潜りこんだ時にもその言葉が頭をよぎった。本当の自分を外に出してしまわないように、そして誰も傷付けず誰にも傷付けられないために、壁の中に閉じ込もって過ぎていく日々から抜け出したかった。どこかへ行きたかった。ここではないどこかへ。『扉』の向こうが異世界に繋がっているかもしれない、というリノンの噂話は確かにきっかけではあった。けれど今ここに足を運んだ本当の理由を聞かれたら、ひかりは心の中に巣食っていたその言葉を答えていただろう。

けれど工場に入ってすぐの上り階段はまたフェンスの金網で塞がれてあって、ひかりがフェンスの金網にかけた手に力を込めようとしたとき、不意に鉄さびのざらざらとした感触と痛みを感じる。フェンスから離した手の指を見ると、薄く血がにじんでいる。鉄網のさびかなにかで切ったのらしく、その傷と痛みでひかりは我に返った。目の前の景色を冷静になって眺めると、今度は都合の良い抜け穴も乗り越えられそうな場所も見つからなかった。そして高い廃工場の天辺は、『扉』の下にあるタンクの上に行くことすら、どう考えても不可能だった。ひかりは再びフェンスに手をかけることなく、自分は何をしようとしていたのだろうと小さくため息をついた。フェンスを乗り越えて、その後どうする?たった一人で侵入して事故にでもあっても、誰も助けてくれないだろう。もし運よく『扉』のある場所までたどり着けたとして、その後は?『扉』の先に待つ場所が今よりいい保障なんて、どこにもないのに。らしくない突発的で無計画な考えは、それが生まれた時と同じようにあっさりと消え去った。来るときは廃工場を目印にして歩いてこれば良かったけれど、帰るときは迷わずに家に辿り着けるだろうか。ひかりは『扉』の事を心の中から追い出して、そんな事を考えながら振り返った先、しばらく自分が目にした外の光景を信じることができなかった。

そこはさっきまでと同じ、工場の前の敷地だった。ただ、一切の光が消えていたのだ。街灯も、月の光も、さっきまで昇っていたはずの太陽の残照も。日が暮れるにしても余りに唐突で、そして周囲のどの家にも明かりは灯っていなかった。ひかりは目の前に広がる廃工場の外の景色が、自分の街のものでないように思えた。そこには自然の中ですらそう目にすることのないような完全な暗闇の街並みが、自然の夜とは比べ物にならないほど異様な雰囲気を漂わせている。辛うじて見える街並みの輪郭も真っ黒で、数歩先の地面まで覆い隠すような、コールタールのように重く纏わりつく闇、それだけが周囲に満ちていた。

――ここは、どこだろう。

――いつの間に、自分は暮町でないところに迷い込んでいたのだろう。

ひかりは自分がどうやってここまで来たのだろうと考えた時、帰り道を外れてから廃工場までの道で、誰一人として人間に出会わなかったたこと、それでいて誰かにずっと見つめられているような気配があったことを思い出す。工場はもとより住宅街までも、完全に死に絶えたように静まり返っていて、その中でひかりの荒い呼吸音だけが、いやになるほど大きく響いていた。再び誰かの視線を感じた気がしてひかりが振り向くと、たった一つ変わらずそびえ立っている廃工場の上、光る粒子を纏う『扉』が開き切っていた。内開きのはずの『扉』が何故か外開きになっていて、その向こう側には四角く切り取られた橙の夕空が見えた。

――その『扉』がどこに繋がっているのかは、誰も知らない。

そして急にいくつかの明かりが灯った。廃工場の中にぽつぽつと、そしてすぐ後ろの街灯が一つだけ。ひかりは誰がその明かりを灯したのかという疑念以上に、強い恐怖を感じて服が千切れるくらいに強く、胸の辺りを握りしめる。灯ったのは、真黒の(コールタール)に垂らされた白い絵の具のような、あまりに弱く、あまりに淡い、何も照らせない光だった。そして振り向いた先、一個だけ灯っていた街灯の陰で何かの影が動いたような気がしたのだ。少なくとも、自分の理解を越えた事態が起こっていることだけは確かだった。

廃工場の周りに、そして二階に向かうための階段に張り巡らされていたフェンスも、いつの間にか全て無くなっていた。ひかりは恐怖で萎えそうになる足を無理矢理に動かして、廃工場の中へと走り込んだ。錯覚ではなく、確かに外の暗闇の中で何かが蠢いていた。地面を蹴る音、さっきまでは聞こえていた自分の荒い呼吸さえも聞こえない。まるで音さえも周りに満ちた暗闇に吸い込まれてしまったかのように。恐怖からあふれた涙で視界が歪む。今にも切れそうな電灯の下を走り抜けたあと、自分を追う何かがその光を一瞬遮ったように暗くなる。何一つわけの分からない状態で、恐怖に折れそうなひかりの足を動かしていたのもまた恐怖だった。ひかりは無我夢中で走った。どこを通ったかも、何故走り続けられたのかも分からないまま、奇跡のように『扉』の前へと辿り着いた。そして小さく絶望の声を漏らして、ひかりはその場に崩れ落ちる。『扉』はひかりが走っている間に、完全に閉じていた。その巨大な鉄製の扉の何処にも取っ手は付けられていなかった。背後からは、自分を追う得体の知れない何かが着実に、一歩また一歩とこちらに歩いてきている。

ひかりは、【それ】が自分の通った階段を上ってくるのが分かった。足音は無かった。ただ、街自体の纏う異様な雰囲気と、暗闇と静寂とが【それ】の歩みにともなって一段と深くなるのが分かった。【それ】は震えて立ち上がれないひかりの目の前で立ち止まる。そして扉の纏う光に照らされて、【それ】の姿が浮き上がる。そして、ひかりは理解した。闇の中に何かが居たのではない。この街を覆う闇そのものが、【それ】の正体だったのだ。ここに来た時からすでに、自分は【それ】の胃袋の中に居たのだ。

それは静寂という彼らの鳴き声。

それは暗闇という彼らの姿。

名前のない代名詞、【それ】こそが彼らの名前であり、

有り体に言えば【それ】は、二足歩行する絶望だった。

高さは二.三メートル程度、腕のような部分からは常に黒いなにかが蝋のように垂れ落ち、再び根元から同じ場所へと這い上がっていく。形を認識しようとするたびにその姿は崩れ去り、再構築が終わる前に端から腐り落ちていく。【それ】の眼球のあるべき場所にはなにもなく、落ち窪んだ二つの洞[うろ]でひかりを見つめていた。


ひかりの肺から漏れ出した空気が、細く掠れた呻き声となる。膝が笑い、歯の根が合わない。涙はとうに出尽くして、乾いた瞳に十数体の【それ】が写り込む。脳裏に過ぎ去る走馬灯。リノンとつばめのこと、学校のこと、巨大な何かが回転する金属音、母親のこと、物心ついた時からずっと見えていた『扉』のこと。そして、ひかりは怯えることをやめた。何もかも諦めて、いつも自らの唱え続けていた言葉を思い出すまで長くはかからなかった。

――『居ても居なくてもいい』自分であるように、と。

それがスクリーンを隔てた向こう側の出来事であるように、同じ場所に居合わせながらも決して参加することはなく、ただ時間が過ぎ去っていくに全てを任せるだけだ。そうすれば、嫌なことはすぐ終わる。痛いのは、きっと一瞬だけだ。そして眼を閉ざそうとしたとき、視界の端で白い光が瞬いた気がした。


刹那、轟音が鳴り響く。ひかりの目の前の【それ】の頭部が消滅し、その個体が倒れ伏す前に新たに飛来した何かが別の一体を真っ二つにする。飛来した物は、弾丸。視認する事は叶わず、それでもタンクの壁に開いた大穴がその破壊力を雄弁に物語っていた。そして弾丸は止まず、闇を裂く。残された【それ】達が振り向くまでの間に一体消し飛び、跳躍の姿勢に入ったもう一体が千千の断片になる。弾着の度に轟音と振動が起こり、暗闇しか無かった空間に瓦礫と土煙と【それ】の残骸を巻き上げる。思わず頭を抱えてしゃがみこんだひかりは、すぐそばにできた弾痕に目を釘付けにされた。

巨大な黒い穴、そして穴の周囲の壁が着弾の衝撃ではじけ飛んで、内部のざらざらとしたコンクリート面をむき出しにしている。その破壊をもたらした主である弾丸は貫通したか、壁に埋まり込んで見えなかった。ひかりは生まれて初めての感情に困惑して、胸を押さえる。

その弾痕は死んだ物体のはずだった。生命のない、役目を果たしてもう何も起こさない物体のはずだった。それでも、今までの何よりも、【それ】よりもひかりの感情を激しく波立たせた。それは絶望や恐怖に似ていながら、遠くかけ離れた感情だった。

圧倒的な質量と速度による、強烈な破壊の行使。そして、それは決して無秩序な暴力ではなく、自分に当たらないように、【それ】を一撃で仕留めるように精緻に狙い定められていた。その結果が、この巨大な弾痕なのだ。もはや【それ】達は篠崎ひかりの事など一切構わず、目下最大の脅威である未知の敵の元へと信じられない速度で跳躍していく。が、すぐに二体分の上半身が乱回転しながら戻ってくる。踏み潰されたトマトのような音を建てて地に落ちた【それ】はもはや、暗闇や絶望の具現化ではなかった。いつしか体の震えは止まっていた。真っ暗な街、【それ】の出現、そして、全てを吹き飛ばす圧倒的な力。目の前の現実の、あまりの変転に理解がついていかない。

――絶望を打ち砕くのは、希望なんかじゃないんだ。

混乱した頭の中で、かつて誰かがそう言っていたことを思い出す。

――絶望を打ち砕くもの。それは……

そしてひかりは、その言葉の意味をようやく理解した。心なしかぼうっと上気した自分の顔が、焦がれるような胸の疼きが、ひかりにその感情の正体を教えてくれた。そこにあるのは、圧倒的な『力』の奔流だった。そして、この感情が――感動。あるいは、憧れというものだ。


――


ひかりが顔を上げて弾丸の飛来した方向を見た時、引き金の主もまた照準の端にひかりを捉えていた。闇に包まれた街の中で唯一白い光に満たされ、別の世界のように輝きを放っているその場所は、ひかりの通っている中学校の校舎の一角だった。撃ち切られて空になった弾倉が、ガランと音を立てて床に転がる子供の頭ほどの大きさのそれは時を待たずして白い粒子となって空気に溶け、辺り一帯を満たすスノウホワイトの光の渦へと取り込まれる。その中心で、少女は硝煙の立ち上る銃を構え直す。白銀の短髪が夜風に吹かれて揺れる。黄金の瞳が新たに襲い来る【それ】に狙いを定める。この世のものでないような美貌にはなんの感情も浮かんでおらず、フロントジッパーを閉めたコートと、同色のズボンから浮かび上がる雪色の細い輪郭は、微動だにしない。

そして一瞬の静寂の後、微かに銃身が動く、【それ】を寸分違わず射線上に捉え、少女は引き金を引く。街を覆う静寂を、重く鋭い銃声が打ち破る。立て続けに響く轟音が無人の住宅街の窓ガラスを震わせ、学校のグラウンドに土埃を舞い上げる。鉛弾が【それ】との間に直線を結び、間髪置かずに到達点を無に還す。直線的に向かってくる【それ】を二体撃ち落とし、斜め方向から迫る者が次の瞬間存在するであろう場所へと鉛弾を撃ち込む。鉛弾に自ら突っ込む形となった【それ】の、バラバラになった破片が慣性の法則に従って明後日の方向に飛んでいく。

飛翔し砕け散る【それ】と巨大なマズルフラッシュ、それでもまだ、【それ】らの襲撃は途絶えない。少女の放つ弾丸は壁の一枚や二枚ならなんなくぶち抜く威力を持っていたが、その代償として発射間隔がやや長い。次の弾丸が放たれるまで約二秒、その威力と、全ての弾丸を外していないことから考えると異常な連射速度だろう。しかし【それ】らはたった一人の銃の主に対して、あまりにも速く、あまりにも多勢だった。

一体の黒い影が、校舎の壁を縦に走る。【それ】は射線の通らない下の道路から近づき、射撃の直後を狙って跳んだのだ。狙撃は間に合わない。あわよくば侵入した【それ】を撃退したとして、続々と新しい【それ】らがあの狙撃手に飛び掛かっていく。ひかりがこの光景を間近で見たら、そして銃の主である白い少女が【それ】に倒される光景を想像しただろう。事実ひかりは、【それ】の優勢が揺らがないことを想像して、不安と恐怖で胸を押さえていた。

その時、白い光が一段と強く、激しく輝いた。

迫り来る【それ】を前にして、少女は取り回しの悪い銃を投げ捨てる。その圧倒的な質量をリノリウムの床に響かせる前に、銃は光の粒子となって飛散する。薬莢、弾倉と同じように少女の纏う光に取り込まれるよりも早く、【それ】が目の前のガラス窓を突き破って少女に飛び掛かる。目と鼻の先の【それ】から視線を外さず、少女は無表情のまま両手を目の前にかざした。

≪”sepia-note”≫

どこからともなく響く、落ち着いた低音の電子音声。読み上げるその文言に応えるように、満ちた光の粒子が一段と強く光り輝く。少女は望む、新たな銃を。その姿に見合わぬ、破壊の為の兵器を。光の粒子が彼女の手に集い、新たな銃の輪郭を形作る。その光ごと少女を断ち切るように、【それ】の腕が振り降ろされる。全ては、一秒にも満たぬ出来事だった。

【それ】の蟷螂のような腕が床に深々と突き刺さる。しかし少女の姿は既に無く、【それ】の背後から

≪shot bullet≫

電子音声による死刑宣告が鳴り響く。散弾の接射を受け蒸発した一体に続き、次々と新手がガラスの破片を飛び散らせながら地面に降り立ち、

≪assault≫

再びの機械音声と共に超高密度の弾幕で蜂の巣になり、倒れ伏す。傷一つない少女の両手には、散弾銃とアサルトライフルが一挺ずつ握られていた。

それは、少女の『魔法』だった。淡雪色の粒子が集まり先程までの銃を、新たな弾倉を生み出したように。彼女の魔法が、かつてこの世界のどこかに存在した銃を、世界の記憶の中から呼び起こしたのだ。

【それ】らは対物銃での狙撃と、廊下に誘い込まれての弾幕でほとんど壊滅状態だった。しかし少女は頭上から、微かに風を切る音が響いていることに気付く。そして、その後の判断は一瞬だった。少女が跳躍した直後、それまで彼女が居た場所を根こそぎ踏みつぶしながら、巨大な一体の【それ】が天井を突き破って現れる。今までの【それ】の数倍の大きさを持つ、その形も更に異質なものだった。太い二本脚が支えるのは、蟹のように頭と身体が一体になった、幅広の身体。【それ】が接地する前から鉛弾は雨のように降り注ぎ、硬質な輝きを宿す闇色の表面に弾かれ空しく金属音を立てる。着地の衝撃から姿勢を立て直したその顔に眼窩は無く、平坦な肌にはより濃密な死の気配を漂わせている。横に裂け広がった【それ】の口に僅かに光が灯る。その事に気付いた少女は、窓ガラスを突き破り全速力で外に飛び出した。

そして、これまでの全てを上回る轟音。【それ】の口から放射された熱線によって校舎の上半分が溶け去り、窓ガラスから洩れた炎でさえも二十メートル先の木々を一瞬で燃え上がらせる。間一髪で逃れた少女は銃を手放し、重力に従って落下を始める。吹き付ける風に眼を細め、コートの裾がふわりと捲れ上がる。地面が近づき十分な速度に達した時、少女は天に手をかかげる。

≪wired≫

【それ】が再び口腔に光を灯す。そして機械のように無機質に、無秩序に行使される死の炎。道路がマグマのように溶け、誰も居ない住宅街が業火に包まれる。指向性のない暴力が、ひかりの居る廃工場さえも呑みこもうとしたその時。白い輝きが、ひかりを抱きかかえて宙に舞う。

少女の纏う光の中心からは、幾本もの線条が迸っていた。炎を照り返して白く輝くそれは、鋼線だった。少女の意志で数十メートル先の電柱や樹木へと巻きつけられ、そして再び光の中へと引き込まれていく。ワイヤーが振り子のように、落下の速度をそのまま前進の速度に換え、そして引き込まれる速度も加算して、少女は凄まじいスピードで街を駆け抜ける。

少女の腕に抱かれたまま、ひかりはその姿を初めて間近で見た。背丈からして高校生くらい、自分よりも少し上な程度だろう。背中に小さなリボンをあしらった白いコートの前をジッパーで閉じて、細く起伏の少ない、華奢でさえある身体のラインを際立たせている。少女は燃え上がる街、背中を掠める熱線にも動じず、振り子の頂点で手を放す。そして掲げた手に光を集めながら、凄まじい速度をそのままに星の無い夜空へと躍り出た。

≪anti-material≫

高度が下がり、ビルの屋上が迫ったその瞬間。呼び出された巨大な銃の把[グリップ]を掴み、土埃を巻き上げて凄まじいGとともに減速しながら、少女は流れるような動作で銃を構える。その先端は今まさに二人を呑みこもうとしている熱線の根元、校舎に立つ【それ】の口へと寸分たがわず向けられていた。

少女の銃から轟音と共に放たれた破壊の線が、吐き出される熱線ごと【それ】の無防備な口腔を貫く。大穴の開いた【それ】は暫く棒立ちになった後、溜め込んでいたエネルギーの余剰で爆発する。ひかりは耳をつんざくような激しい音に、思わず耳を塞ぐ。しかし、その眼を少女の方から逸らすことはできなかった。


昼よりも眩しい、爆炎の中にある街を無表情に見つめていた少女が、やがてひかりの方へと向き直る。戦闘の時の圧を微塵も感じさせないような笑顔を浮かべて、少女はソプラノの声で話し始めた。

「ねえ、きみ」

まだ立ち上がることさえできないひかりの頭の中は、あの戦いの情景が、この華奢な少女が目の前で撃ち放った銃の衝撃が渦巻いていた。

「“魔法少女”に、なってみないかい?」

街の炎に照らされた少女の頬を、焦げ付いた風が撫でていく。ひかりは、その姿がさながら神話の戦乙女のようだと思う。ひかりは理解の追いつかない頭で、“魔法少女”なんて言葉はこの人には似合わない、とだけ思った。


/プロローグ:『打ち砕くもの』

⇒第一話:『夕暮れ戦争』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ