28話「ロード大森林、その1」
暗闇の街道を一頭の馬が駆けていた。
その馬に跨る男性はしきりに背後を振り返り、追手を警戒している。
「国に尽くし、義に生きた結果がこれか…」
男の呟きは夜闇へ溶けていく。
彼の名は『ディーン・ノース』。魔術大国アーミットを支えていた役人の一人である。
そんな彼が夜更けの森を駆けている理由は、国の暗殺者から逃れるためだ。
財政と物流管理の一部を受け持っていた彼は、ある時違和感を覚えた。
国が管理する魔術研究機関『ウォーレス』。そこへ搬入される大型器材に対して処分される器材の比率が合わないのだ。
国内で最も大きな研究施設ではあるが、大きさには限りがある。大型の器材が搬入されれば、それに比例した大きさの古い器材が処分されるはずだ。
その違和感を払拭するために『ウォーレス』を調べると、搬入されていたのは器材などではなく魔術実験の検体として用いるための『人間』だった。
出どころまでは知ることが出来なかったが、人間が国公認の魔術実験の犠牲にされていたのである。
彼は意図せずして国の闇を見つけてしまったのだ。
正義感の強い彼が国に疎まれるまで、そう時間はかからなかった。
「なんとか、撒いたようだな。だが…」
追手を振り切ることだけを考え、着の身着のままで行き先すら考えずに彼は国を飛び出した。
その結果たどり着いたのはーーーー
「ロード大森林へ入ってしまった」
ロード大森林。デスクワークの彼でもこの森の噂は知っている。
多くの魔獣が住み、冒険者や商人の行方不明者が後を絶たない危険な森だ。
着の身着のままの元役人が踏み入って良い土地ではないのである。
「とにかく、何もせずに殺されるつもりはない」
危険な森だが、通行者がいないわけでもない。街道を駆けていれば商人の馬車に会えるかも知れないのだ。
その僅かな可能性に賭け、ディーンは馬を走らせる。
だが、決意の直後にディーンはロード大森林の恐ろしさを知ることとなった。
「なんだ、あれは…」
誰に伝えるでもない疑問を呟いたディーンの視線の先には、巨大な蟹がいた。
月光に照らされ、青白い光を放つ巨大蟹が街道を塞いでいるのだ。
「まずいっ」
蟹の突き出た目が、ディーンと馬を捉える。
すると馬は荒れ狂い、ディーンを振り落として来た道を駆けていった。
「くっ!」
乗馬など嗜む程度の経験しかないディーンには、暴れる馬を諌める事は出来なかったのだ。
暗い街道へと消えていく馬を眺め、後ろを振り返ると、巨大な蟹がディーンを見下ろしていた。
「ここまで…か」
巨大な鋏がディーンへと迫る。
ディーンは静かに目を閉じ、その瞬間を待った。
しかしーーーー
(…?)
ディーンに終わりが訪れる事はなかった。
「…なっ!?」
目を開けると、巨大蟹すら上回る体躯を持つ赤い龍が蟹を踏み潰していたのだ。先ほどまで絶対の存在だと感じた巨大蟹が、今や無残な姿となっている。
「こ、こんな化け物までこの森にはいるのか」
戦いとは縁遠い人生を送ってきたディーンですら、龍の恐ろしさは知っている。
曰く、複数の勇者によるパーティですら仕留めるに至らなかった。曰く、咆哮一つで山が消えた。曰く、怒りをかった国が一夜にして滅びた。
龍にまつわる伝説は数知れない。そんな伝説の存在を前にして、ディーンは逃げる事なくただ呆然と立ち尽くす。
自分の命を惜しいと感じるよりも、これほどの存在に会えた感動を噛みしめようと考えたためだ。
赤い龍はそんなディーンへと振り向き、口を開ける。
(今度こそ、ここまでか…)
ディーンは覚悟を決め、その時を待つのだった。
◇
「はぁはぁ。逃げなきゃ、どこか、安全な場所にっ!」
暗い森の中に一人の少女がいた。
茶色の短い髪をなびかせ、ずれる眼鏡を片手で抑えながら森を駆けている。
白を基調とした学生服には泥汚れが目立ち、必死に逃げてきたであろう様子を物語っていた。
彼女の名は『シノブ・リーグイット』。ジーニアス学園の生徒である。
そんな彼女がロード大森林へと踏み入ってしまった理由は、クエスト受注した為だ。
ジーニアス学園では専門的な知識を必要とするクエストを生徒へ向けて発注する事があり、今回の「ロード大森林における魔獣と魔物の生態調査」もその一貫であった。
魔術学を専攻しているシノブにとっては分野外のクエストだったが、危険である分報酬が高いため、生活費の足しにと思いクエストを受注したのである。
それ故に、他の学生や護衛の冒険者と共にこの森へ訪れていたのだ。
しかし、彼女はこの森の恐ろしさを甘く見ていた。
滞在2日目の夜。
危険が少ないと言われている領域を探索していたのだが、並みの冒険者では太刀打ちできないほどの強力な魔獣に襲われたのだ。
ロード大森林における魔獣の分布、縄張りの範囲が大きく変わっていたのである。
冒険者達は必死の抵抗で魔獣を引きつけ学生達を逃がしてくれたが、探索に慣れていない学生達は逃げる最中に散り散りになってしまい、今の状況へと繋がるのだった。
「ううっ、みんなっ」
冒険者達のお陰で襲って来た魔獣は追って来ないが、その安心も一時に過ぎない。
戦う力の無い女子生徒が護衛もなしに生き延びれるほどこの森は甘く無いのである。
「!?」
シノブの目の前に現れたのは、大型犬ほどの大きさがある黒いネズミだった。
「『黒曜鼠』…」
クエストを受けるに当たって魔獣の知識を頭に入れていたシノブは、一目見た瞬間その正体に気づく。
『黒曜鼠』。群で行動する下級魔獣だが、命懸けで獲物に襲いかかる獰猛性と強力な繁殖能力によって上級魔獣並みに厄介だと言われる魔獣である。
「そんな…」
シノブの絶望に反応したかのように、茂みの中から次々と別の黒曜鼠が現れる。
深紅の眼光はシノブを捉えて離さない。時には上級魔獣すら狩り殺すほどの魔獣にとって、無防備な学生など絶好の獲物でしかないのだ。
「火よ、『火』」
じりじりと近づいてくる黒曜鼠へ向けて、シノブは初級の火属性魔術を放つ。
黒曜鼠は歩みを止めたが、すぐさま行進を開始する。直撃しても何ら問題のない攻撃である事を悟ったのだ。
「ひ、火よ、火よ!」
恐怖と絶望で魔力が乱れ、シノブは魔術が発動できなくなる。その間にも、黒曜鼠はシノブを狩る為に近づいてくいく。
「うぅっ。お母さん、リュート…」
これから自分に訪れるであろう絶望を想像する中で、最後に思い浮かんだのはシノブの帰りを待つ母親と弟の姿だった。
早くに父親を亡くしたシノブの家庭は、母親が一人で支えている。
そんな母に負担をかけないよう特待でジーニアス学園へと入学したシノブは、研究者として新たな魔術を開発する事で母に楽をさせたいという夢を抱いていた。
新たな魔術など数十年に一度生み出されるかと言うほどの快挙である。そのため、開発者には多大な栄誉と莫大な報奨金が貰えるのだ。そのお金で今度は自分が母を支えてあげるのだと、彼女は考えていた。
だが、その夢もここで終わる。
飛びかかってくる黒曜鼠を前にして、シノブは静かに目を閉じた。
「お母さん、リュート…帰れなくてごめんね」
シノブの呟きは誰に聞こえる事もなく、轟音に掻き消された。




