無自覚な始まり
「ままならない恋~年下彼氏~」の第4部「番号とアドレスはどっちが正解?」を先に読んでいただければ幸いです!
初めて綾乃さんに出会ったのは、4月も終わりかけた春の日だった。
無事に東京の大学に合格した俺は、学校からも家からも比較的近い、松田屋というレンタル店で働くことになった。学費やアパートの賃料などは時子さんの遺産から出ている。時子さんは俺の両親の預貯金なども全て手つかずで残してくれていた。その事を知った時は、あの夕日に誓った事を忘れそうになり、目頭が熱くなった。だから、せめて生活費は自分で稼ぎたいと思ったんだ。
少し、いやだいぶ頼りなさそうな店長に引き合わされたのが、その店唯一の女性社員である綾乃さんだった。
名字の読みが一緒なことと、映画が好きという共通点があるだけの職場の上司、ただそれだけだった。
綾乃さんを異性として意識し始めたのはいつからだったのだろうか。
いつのまにか、彼女の姿が目に入るようになっていったんだ。
彼女は、その小さい体でくるくるとよく動く。さっきまで事務所でスタッフのシフトを作ってたかと思うと、次の瞬間には売り場で客と談笑してるなんてことはしょっちゅう。誰にでも分け隔てなく優しく、自分には厳しく。仕事は一切手を抜かないところは尊敬に値すると思う。
そして、なんて何て不器用な人なんだろうと思った。
人を叱る時には、まるで自分が叱られているような顔をしたり。
たまに転びかけて、誰も見てないか慌てて周囲を確認したり。(俺は目が合う前に目をそらした)
好きな映画のDVDを借りて行く人に、ちょっと話しかけたそうな顔をしたり。
仕事は出来るくせに、どっか抜けてる、見ていて飽きない人。
本当に、ただ、それだけ。
―――それだけだった、はずなんだ。
「徹くん、綾乃さんのも書いてもらったら~?」
歓迎会の夜に、山下が言った言葉。その言葉で、俺の心臓が一つ大きく跳ねた。メモ紙を綾乃さんに手渡した時、かすかに指が触れて、全身に電気が走った気がした。その手に、もっと触れたいと思ってしまったんだ。誰かに触れたくなるなんて、初めてだった。
だから、綾乃さんが書くのをためらっているのが分かった時、そんな俺の気持ちに気付かれたと思ってすぐに引こうとした。すると綾乃さんはそれをやんわり手で押しとどめて番号を書いてくれた。その間、綾乃さんの頭頂部を見つめて内心そわそわしっぱなしだった。
家に帰ると、ポケットからくしゃくしゃになったメモ紙を取り出した。今度会った時に赤外線で登録すればいい、そう思ってテーブルの上に放り出す。そしてソファに座り、その紙をしばらく見つめ……気づいたら、綾乃さんの番号に電話をしていた。
綾乃さんが電話に出たときはかなり焦った。ま、電話かけたんだから出るのは当たり前なんだけど、それぐらい無意識の行動だった。
綾乃さんは戸惑っていることが電話口でも分かった。たしかに、帰りついたかどうか心配だったから、という理由だけで電話してくる男を不審に思うのは無理もない。俺だってそう思う。それなのに、彼女は話を早々に切り上げることなく優しく対応してくれた。正直、電話で何を話したかなんて覚えていない。かなりしどろもどろだったはずだ。
通話を切断した時は、指が冷たくなっていた。どうやらすごい力を入れて掴んでいたらしい。俺は携帯を充電器につないでソファに寝っころがって天井を見つめた。
人に、大した用もなく電話をかけるなんて、初めてだ。
こんなに、緊張して、なのに嬉しくなっているのも。まるで、遠足の前の日みたいだ。
―――俺はどうしてしまったんだろう。
自分の気持ちが、よく分からなかった。




