俺は知ってる
——部屋が静まり返る。
言葉を遮られた彩乃は、崩していた姿勢と表情を整えて悠の方に向き直った。
ギリッと鋭い眼差しを向けられた悠は、一度大きく深呼吸をして、わなわなと震える体を収束させる。
まだ、膝の上で握られていた拳から力が抜けない。
そんな悠の様子を斟酌してか、彩乃は何も発することなく、次の言葉を待っているようだった。
——心を落ち着かせ、悠が沈黙を破る。
「公園で乃亜さんを見かけた時、とても不思議でした。容姿抜群で、真面目で、誰に対しても優しくて。大学の人気者である彼女はきっと友達にも恵まれていて、家族にも恵まれていて……そんな彼女がこんな所で一人自棄酒を? って」
大学での乃亜はいつもニコニコしていて、もし仮に嫌なことがあっても、親身に相談に乗ってくれる友人や家族がいる。
乃亜についてそう考えていた悠にとっては、彼女が一人で憂さ晴らしをするような状況があまりに不自然に映った。
「理由はともあれ、その時は帰るように促したんですけど、頑なに拒まれまして……なんと言うか、俺にも色々あって家に居たくなかった時期がありましたので、勝手ながら同情してしまいました」
「……それが、乃亜ちゃんを連れ帰った理由、ということかしら」
「はい。相変わらず理由になってるかは分かりませんが、嘘偽りはありません」
飽くまで個人的な感情によるものであり、決して合理的とは言えない動機。
彩乃の表情に変化はなく、受け入れてもらえたのか否か、それは分からないが——今の悠にとって、もはやそんなことはどうでもよかった。
何やら物言いたげな悠に、彩乃は続けるように目で促した。
「あの日、なぜ乃亜さんがあんなことをしていたのか。具体的なことは分かりません」
何を言われて、或いはされて……。
それは今でも分からないが、あえて聞くような……傷口に塩を塗るようなことをするつもりはない。
「でも……会って話すようになって、そして今日の話で、何となく分かった気がします」
——乃亜は、ずっと我慢しているんだ。
家でも学校でも、彼女に息つく場所なんかないのだろう。
それでも、乃亜のことだ。自分の都合に誰かを巻き込みたくないと、理由なしに誰かを呼びつけたりすることも出来ず、高くつくため外泊も出来ない。
その挙句……外で一人寂しく、酒にはけ口を求めたのだろう。
(ふざけんな……)
自分を大切に、なんて。
乃亜はそんなことを思える環境になかったんだ。
悠は再び、拳に力を込めた。
「綾乃さんの言う通り、実際の乃亜さんは素っ気なくて、どうしようもなく不器用なのかもしれません」
常に優秀な姉と比べられて、あまつさえ、一番近くにいた家族にさえ否定され続けて……そんなの、気が滅入って仕方がない。
さぞ、辛かっただろう。
何をやっても上手くいかなくて、認めてもらえなくて。そんな自分が嫌いになって、何度も何度も……もう無駄だって、諦めようと思ったかもしれない。
ずっと、逃げ出したかっただろう。
「——でも、俺は知ってる」
周りが嫌な思いをしないように愛想を振りまいて。
怪我をしても迷惑をかけないよう、絆創膏を持ち歩くようになって。
大学の講義を人一倍真剣に受けて。
苦手な料理を克服しようと躍起になって。
「どれもやり方は拙いかもしれないけど、あんたの妹は前を向いて必死に頑張ってます」
悠は声と口調を荒げる。
(こんなことしたって、印象悪くなるだけで何にもならないんだけどな。……でも、今更か。ここまできたら、最後まで後悔しないようにしてやる)
「自分の弱さと真っすぐに向き合えるなんて……それこそ、とんでもない才能だ。そんな健気な姿勢に、少なくとも俺は勝手に励まされてんだよ!」
少し照れ臭そうにしながらも、悠は臆せず言い切った。
乃亜からすれば不本意だったかもしれないが、不器用なりに懸命な彼女の姿が微笑ましくて、それに元気をもらってきた。
それは、紛れもない真実だ。
(誰も認めないなら、俺だけは……。いや、認めてやるだなんておこがまし過ぎる)
——尊敬、しているんだ。
「ふふっ」
悠が眉間に皺を寄せたまま彩乃を睨みつけていると、彼女は口元に手を添えながら頬を緩めた。
先ほどまでの、揶揄のこもった笑みではない。
柔らかく、優しい表情だ。
「乃亜ちゃんの言う通りだ」
「……何が」
「怒るとちょっと荒くなるんだ」
「あっ……」
我に返ってたじろぐ悠に、いいよいいよと、彩乃はなおも微笑んでいる。
悠はそのあまりの豹変ぶりに驚くが、やがて一つの結論に至った。
「あの……わざと、ですか?」
「うん。試すような真似してごめんなさい」
「俺はいいですけど、その……もうやめてください」
「そうだね……。乃亜ちゃん、ごめんね」
彩乃の謝罪に対して、乃亜は俯いたまま何ら反応を示さない。
さすがに、ショックが大きかったのだろう。
普段は自分に優しい姉からの唐突な手のひら返し。例え嘘だと言われても、すぐには整理がつかないし、何を信じていいのか分からなくなってしまうかもしれない。
彩乃とて、そのくらい分かっていたのだろう。首を縦に振らない乃亜を見つめた後、いたたまれない表情を浮かべて悠の方へ視線を戻した。
「言い訳になっちゃうけど……お父さんたちには育ててもらった恩義もあって、私に大っぴらに反抗する度胸はなかった。それが情けなくて、せめて陰ながら気にかけてきたつもりだったんだけど……やっぱり私じゃダメみたい」
彩乃が原因の一端である以上、乃亜がその善意を素直に受け取るのは難しいかもしれない。
姉にも姉なりの苦悩があったのだろう。
「だからね、ありがとう」
「…………?」
キョトンとする悠に、彩乃がニコッと笑いかけた。
「頑張り屋さんで可愛い乃亜ちゃんに気付いてくれて、ありがとう」
「え、えっと……まぁ、はい」
彩乃の小恥ずかしい言い方に悠が照れながら答えると、ダンマリしていた乃亜が一瞬、ピクッと小さく体を揺らした。
そんな乃亜の顔色をチラッと窺うように見てから、彩乃は立ち上がった。
「私はそろそろお暇するけど、乃亜ちゃんはどうする?」
「……まだ、いる」
「そっか、気を付けて帰ってくるんだよ。悠君、乃亜ちゃんのことよろしくね」
「分かりました」
彩乃を玄関まで送るため、悠も立ち上がろうとする。
しかし、それを彩乃が手で制止してきた。
その視線を辿ると——乃亜が肩を落としながらベタっと座っていて、そんな様子を見て彩乃の意図を察した悠は再び腰を下ろした。
彩乃は小さく手を振って、満足げに去っていった。
ガチャ。
ドアの閉まる音を確認してから、悠は体を横に向けた。
「あの、大丈——」
大丈夫かと尋ねようとする悠だが、そこに乃亜の顔はない。
——代わりに、悠の胸にポスっと何かが置かれた感覚があった。




