エピローグ:復讐から五年、元カノと間男の末路を風の噂で聞いたけど、俺の隣には最高の嫁がいる
あの地獄のような祝賀会から、五年という月日が流れた。
俺、黒崎奏斗は、第一志望だった広告代理店でアートディレクターとして働いている。新人時代はがむしゃらに食らいついていくだけで精一杯だったが、今ではいくつかの大きなプロジェクトを任されるようになり、充実した毎日を送っていた。
そして、俺の左手の薬指には、プラチナのシンプルな指輪が光っている。
「奏斗、できたよ。今日は和食の気分でしょ?」
キッチンから聞こえてくる優しい声。声の主は、俺の妻であり、人生最高のパートナーである黒崎詩織――旧姓、柊詩織だ。
「お、ナイス。腹減ってたんだ」
ダイニングテーブルにつくと、湯気の立つご飯と味噌汁、そして完璧な焼き加減の鮭の塩焼きが並んでいた。彼女の作る飯は、いつだって俺の疲れた心を癒してくれる。
「相変わらず美味いな、詩織の飯は」
「おだてても何も出ないわよ」
そう言いながらも、彼女は嬉しそうに微笑む。大学時代はクールビューティーで通っていた彼女が、俺の前だけで見せるこの柔らかな表情が、俺は何よりも好きだった。
あの復讐劇の後、俺たちは自然な流れで恋人になり、社会人二年目の春に結婚した。彼女は大学院に進み、今はIT系の研究職として活躍している。互いに尊敬し合い、支え合い、穏やかで幸せな日々を築き上げてきた。
「そういえば、さっき大学の同期から連絡があってね」
味噌汁をすすりながら、詩織が不意に切り出した。その口調に、何かを含んでいるのを感じ取る。
「誰から?」
「写真サークルの、元部長から。覚えてる?」
「ああ、俺の次の代のやつか。あいつも結婚するんだって?」
「そう。それで、結婚式の二次会の幹事を頼まれちゃって。その打ち合わせをしてたんだけど……」
詩織は少しだけ言葉を区切り、俺の顔色を窺うように続けた。
「その時に、聞いたの。白石さんと……天羽玲のこと」
その名前を聞いても、もう俺の心は揺れなかった。かつて燃え盛った憎悪は、とうの昔に鎮火し、今はただの思い出のシミとして残っているだけだ。
「……あいつら、今どうしてるんだって?」
俺は、まるで他人事のように尋ねた。
詩織の話によると、天羽玲の末路は、想像以上に悲惨なものだったらしい。父親の会社が傾き、勘当された彼は、日雇いの仕事を転々とした後、何らかの犯罪に手を染めて警察に捕まったという。出所後の足取りは、誰も知らない。裕福な家庭に生まれ、人を人とも思わない傲慢な態度で生きてきた男は、その罪の清算に追われ、社会の底辺を這いずり回っているらしかった。
「……自業自得だな」
俺の口から漏れたのは、同情でも嘲笑でもない、ただの事実確認のような言葉だった。
「白石さんは?」
続けて尋ねると、詩織は少しだけ表情を曇らせた。
「彼女は……もっと、複雑みたい」
莉緒奈は、あの後しばらく地元で引きこもりのような生活を送っていたらしい。やがて、親に無理やり見合いをさせられ、相手の男性と結婚したという。だが、その結婚生活は、幸せなものではなかった。
「相手の人が、彼女の過去をどこかで知ってしまったらしくて……」
SNSが炎上した際のスクリーンショット、祝賀会での動画の断片。デジタルタトゥーという言葉の通り、彼女の過去はインターネットの海に残り続けていた。結婚相手は、それを知るや否や、彼女を罵倒し、暴力を振るうようになった。耐えきれなくなった莉緒奈は離婚したが、慰謝料を請求され、今は昼も夜も水商売で働いて、借金を返済する日々を送っているという。かつてサークルのマドンナとして輝いていた面影は、もうどこにもないと。
「……そうか」
俺は、ただそれだけを呟いた。胸の中に、わずかな苦さが広がる。だが、それは同情ではない。もしあの時、彼女が俺を裏切らなければ、全く違う未来があったのかもしれない。もし、俺がもっと早く彼女の寂しさに気づいてやれていれば……。いや、そんな「もしも」に意味はない。道を選んだのは、彼女自身なのだから。
「奏斗、大丈夫?」
心配そうに俺を覗き込む詩織。俺は彼女に向かって、穏やかに微笑んだ。
「ああ、大丈夫だ。ただ、人生ってのは、本当に選択の連続なんだなって、改めて思っただけだよ」
俺は立ち上がり、食べ終わった食器をキッチンへ運ぶ。そして、後ろからそっと詩織を抱きしめた。彼女のシャンプーの香りが、俺の心を安らぎで満たす。
「俺は、お前を選ぶという人生最高の選択ができて、本当に良かった」
「……今さら、何よ」
照れたように呟く詩織の耳が、ほんのり赤く染まっている。
窓の外は、すっかり夜の闇に包まれていた。遠くに見える街の灯りが、キラキラと輝いている。あの頃、俺は絶望のどん底にいた。信じていたもの全てに裏切られ、未来なんて見えなかった。
でも、今は違う。
この腕の中にある温もりと、揺るぎない信頼。それこそが、俺が手に入れた本当の宝物だ。
風の噂で聞いた二人の不幸な現状も、今となっては、俺の人生の脚本からは完全に退場した、脇役たちのエピソードに過ぎない。彼らがどんな地獄を生きようと、それは俺の知ったことではない。
俺は、隣にいる最高の嫁と、これからも続いていく穏やかで幸せな未来を、ただ大切に生きていくだけだ。
過去の復讐劇は、確かに俺の一部だ。だが、それはもう、未来へ進むための、ただの踏み台でしかない。
「詩織、週末、久しぶりに写真撮りに行かないか?」
「いいわね。どこに行く?」
二人で交わす、何気ない未来の約束。それこそが、俺が手に入れた、何にも代えがたい幸福の形だった。




