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花と狼  作者: riki
第三章 恋花の八花片
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38

 カーテンを開けて迎えたのは落胆だった。沈む心と裏腹に眩い陽光が窓から差し込む。

 緊張のせいか食欲がわかず、またマルクス君を心配させてしまった。気持ちに体調が連動しているのなら、ロベルトさんと喧嘩したことが相当堪えているらしい。

 しばらくすると階下がにぎやかになり、花たちが朝食と講義を受けるために館を出て行く気配がした。

 わたしも支度に取りかかる。袖を通すのは任命式の時と同じ正装で、コルセットは紐を結ぶ段階で胸が悪くなってしまい中止してもらった。馬車に酔って綺麗な衣装を汚したくない。

 サッシュベルトを巻いてくれていたシラーさんが、「痩せましたね」と独り言のように呟いた。

 食欲が落ちているから体重も多少は減っているだろうけれど、自分では気づけなかった。むしろ鏡に映った顔はむくんでいるように見える。大泣きした瞼の腫れは引いているから寝不足が原因かな。顔色の悪さはシラーさんのお化粧でわからなくなる。

 念入りに匂い消しのクリームを塗られ、正装の上からコートを羽織った。

 長袖の足首まであるコートは春女神の緑色で、丸い葉っぱの刺繍は眷属の植物を表している。ある意味教会の花にとって制服的なデザインだ。体形を隠すゆとりがあったので、シラーさんの目を盗んでこっそりエリカさんのハンカチを懐にしまった。いつどこでフィリップさんに会ってもいいように、肌身離さず持っておきたい。


 玄関扉を開けてくれたのはクラウスさんだった。

 黒いロングコートに紅い腕章。服装は同じなのに、ロベルトさんとはまた違った雰囲気だ。黒髪で褐色の肌を持つロベルトさんは、纏う色彩は暗いけれど、微笑みを浮かべているからやわらかい印象だ。対してクラウスさんは無表情で、少しとっつきにくさを感じる。


「おはようございます、クラウスさん。王宮までよろしくお願いします」

「こちらこそ。馬車まで案内しよう」


 クラウスさんは簡素な喋り方をする人だった。

 表情に乏しいのもお仕事で疲れているから? ロベルトさんを遠ざけ確実に彼の仕事を増やしたわたしに、不相応な丁寧さで接されるよりこちらの方がいいけれど。

 差し出された腕に身を任せると、抱き上げる前に一瞬動きを止めた彼に見下ろされた。

 どうしたんだろう? ひっかかりを口に出す前に右腕に抱えられた。ロベルトさんとは反対の腕だ、と意味もなく比較してしまう。吊るした剣も反対だから利き腕が逆なんだろう。

 ジークベルトさんはお父さんに近い年齢だったからまだよかったけれど、男性に抱き抱えられるのは気恥ずかしい。厚手のコート一枚分薄らいだ羞恥心で、そっと肩を掴ませてもらう。わたしが腰を落ち着けたのを確認してからクラウスさんは歩き出した。

 ……こういうときに愛想よく世間話でもできたらいいのに、何を話したらいいかわからない。


「あの、運んでいただいてありがとうございます。重くありませんか?」


 前を向いていた視線がわたしを射た。


「それは遠慮か? 俺に対する不足か?」


 遠慮? 不足? 問われた意味がとっさに飲みこめない。

 正装の花は神聖騎士に運んでもらうものだから、遠慮はおかしいということ? 重いかどうかを気にするのは彼に対する侮辱、もしくはわたしが交代を遠回しに期待しているのかということ?


「違います! そんなつもりで言ったんじゃなくて、…………」

「ならば問題はない」


 逸らされた右眼からわたしの存在が消える。もう興味を失ったようだ。

 言葉を続けられなかったのは言い訳にしかならないと気づいたから。気遣いのつもりだった? ううん、気遣いのふりをした自己保身だった。彼の役割も立場も考えていない上辺だけの台詞。

 それ以上話しかけることができず、目的地に着くまでずっとうつむいていた。




 わたしの見送りは行事なのだろうか、そう思ってしまうぐらいに大事になっていた。

 教会の敷地を囲む塀は傍によると首が痛くなる高さで威容を誇っていた。馬車ごとくぐれる大きさの門は、何人がかりで開閉するんだろうという頑丈な扉がついている。

 馬車を中心に左右にずらりと並ぶ神聖騎士は黒く輝く甲冑と漆黒のマントを身に着け、各々一頭の馬を従えていた。馬の毛並みはさまざまで、馬具は黒で統一されている。兜を被っているので顔は見えないけれど、あの大柄な人は外務士長のラルフさんかな。兜についた紅い房飾りもひとりだけ長いし。

 ハールスの男性は総じて日本人より体格がいいから威圧感も凄い。護衛は彼らだけで十分じゃないだろうか。わたしが狼だったら尻尾を巻いて退散すると思う。

 見送りにはダールガンさんと、騎士団長のジークベルトさん、内務士長のユーリウスさんも来てくれていた。任命式にも劣らない豪華な顔ぶれで緊張してしまう。

 わたしが近づくと、ジークベルトさんが眉を上げてユーリウスさんを小突いた。ユーリウスさんは目を細めて足を踏み返している。ラルフさんや騎士たちにも微妙な空気が漂っていて……。

 注目されているのはわたし? なんだろう、どこかおかしいのかな。シラーさんに支度を手伝ってもらったから、変な格好はしていないはずだけど。

 ダールガンさんがその場をぐるりと見回したのが静まる合図だった。


「さて、皆には申し伝えておいたが、今一度の確認を行う。新たに迎えたリン嬢の境遇は知っての通りだ。離宮にて保護されたというが、リン嬢には疚しいことも罪に問われることもない。教会を出て再び戻るまで花の身と尊厳を守るがそなたらの務め。警戒を怠らず、しかと励め!」


 ――応っ!!

 唱和の声が上がり、鎧の胸部を打った拳が硬質なリズムを刻む。


『――《花》の意曲げし万象を 我らが牙もて打ち払わん

    《花》の身に降りし万障を 我らが肉もて断ち阻まん』


 これ、歌だ。

 一糸乱れぬ動き。ガシャンと鳴る鋼の音。狼たちの低い声が歯切れよく、勇壮に歌い上げる。自然と身体が揺れるメロディーは応援歌みたいに力強い。惜しむらくは兜で声がこもってしまっていることだ。


『――憩え祖の獣 脈々と流るる血族にその遺志は継がれたり

    謳え我ら《狼》 天より賜りし《花》守る存在ものなり!!』


 聖歌の締めくくりは音高く抜き放たれた剣だった。

 切っ先を天に、両手で握った柄を胸に引き寄せた騎士たちはそろって頭を垂れた。




 箱型の馬車に乗ったのはわたしとシラーさんの二人だけで、ゆったりと腰かけられた。

 教会に来たときはすぐに眠ってしまったからおぼろげな記憶しかないけれど、ロベルトさんも一緒だったような……。そう言うとシラーさんは勘に障ることを聞いたように冷ややかな目をした。


「狭い空間で緋紋の花と同席ですか。神聖騎士なら不埒な思惑でもないかぎり避けるでしょう」


 黒髪で匂いのしないわたしを人目に触れさせないようにだと思う。そして電車で隣の人が居眠りして寄りかかってくるぐらいには迷惑だったと思います。しかも終点についても起きないし。

 反論すると熱が出た原因は誓約のせいだと藪蛇になりそうで、もっともらしく頷いておいた。

 馬車の小窓が叩かれる。名前を呼ばれたシラーさんが窓を開けた。

 クラウスさんだ。騎乗しているらしく、身を屈めた彼は掌ほどの大きさの箱を彼女に差し出した。


「八花片の持つものを入れるようにと、内務士長から預かった。大々的に《護国騎士》を呼び寄せたのが吉か凶か。王宮へは万が一の襲撃に備えて飛ばすそうだ。馬車の内側に手すりがある」


 不吉なことを告げてクラウスさんは離れて行った。

 ……座席まわりがすっきりしているのは、荷物が飛び跳ねて怪我をしないように外に括りつけてあるから、とかじゃありませんように。

 号令と馬蹄の音が響き、にわかに外が騒がしくなる。鈍い音で軋んでいるのは門の大扉だろう。

 シラーさんはお世辞にも綺麗とはいえない色の箱を開けた。表面の布地は緑が変色したような茶色。


「それは何を入れる箱ですか?」

「匂い消しの塗料が塗られていますね。一般的には花が体液のついた私物を入れます。あなたに渡すようにということでしたが」

「体液のついた? ……あぁっ!!」


 コートで完全に隠せていたはずのハンカチを取り出す。


「それは?」

「エリカさんからフィリップさんに渡してほしいと頼まれていたハンカチです。一滴だけ、涙が落ちて……」


 教会から会うことを禁じられている二人だ。交流を絶つということは、ハンカチを渡すことも禁止事項に含まれているんじゃないだろうか。おそるおそるシラーさんを窺うと、深い溜息を吐かれた。


「わたくしは《花》ですから、それがあなたのものかエリカのものかわかりません。内務士長が箱を用意したのなら入れておいてはいかがですか」


 ……ことごとく甘い、と呆れた呟きは聞こえなかったことにする。

 芋虫の汁で染まっているのかと考えると触るのも憂鬱だけれど、ハンカチを畳んでしまい、蓋をする。内側が金属加工の箱はお茶筒に似ている。きっちり蓋を閉めると密封性が高そうだ。また懐に戻し、わたしに対する神聖騎士たちの態度がおかしかったのはハンカチのせいだったのかと、密かに納得した。

 こと“花”に関して、狼の嗅覚は非常に鋭い。ロベルトさんの言葉は本当だった。




 +++++++++++++++




 楽しい旅路を多く語れないのが残念でしかたがない。

 舌を噛まないように黙っているけれど、暴走馬車に乗れるのが八花片の特権なら手すりごと返上しますと言いたかった。総勢八十人の騎士が同行しているので街には地響きが起こっていそう。どうか教会に苦情がきませんように。


 長いようで短縮された時間は、酔う暇もなかった衝撃が唯一の救いだ。

 クラウスさんが馬車から抱き下ろしてくれた。

 両脇を神聖騎士が固めた道の先に、真っ白な衣装を身に着けた青年が立っていた。物怖じする様子もなく向かってくる。居並ぶ黒と白が対照的で、王子様が登場する映画のワンシーンのようだと思った。

 ――まぎれもなく彼は王子様だけれど。

 金色の髪が太陽の光を浴びて輝き、鮮やかな蒼の瞳とあいまって正統な出自を体現している。高位のハールス狼には欠かせない配色だ。初対面の時には選ばれし血筋の証だと知らなかった。わたしが冷たい態度を取られた理由は、トリスタンの色である黒い髪と瞳にもあったのだろうか。


「ようこそ、《八花片サフィ》。陛下のもとにはわたしが案内しよう」


 クリストフェル殿下は離宮のできごとを忘れたように、笑顔でわたしを出迎えてくれた。

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