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嫌な具合に心臓がドキドキしだした。
……彼は王宮に行けないと言ったの?
「王宮からは矢の催促で、薬師付きで迎えの馬車を寄こす勢いです。喜ばしいことに体調も回復されたご様子、遅くとも明後日には教会を発つことになるでしょう」
落ち着いた低音が告げる予定。
急な話だとは思わなかった。今はご飯も食べられるし、外を歩き回れるぐらい元気になった。正当な理由もなく王宮行きを引き延ばすことはできない。シラーさんではなく彼がこのことを告げたのは、花護騎士として最後の見極めを任されていたからかもしれない。
口の中が急速に乾いていき、返事をするのが遅くなった。
「……お話は、わかりました。明後日には向かうんですね。あの、一緒に行けないというのは、別の馬車に乗るという意味ですか?」
「いいえ」
「……遅れてこられるということですか?」
「いいえ」
手が冷たくなって震え始める。
身体の中心に熱が収束していき、心臓が破れんばかりに鼓動を打った。
ためらう間の不自然な沈黙に気づいているだろうに顔を伏せたままだ。胸の前で合わせた手も微動だにしない。
「王宮へは……行かないんですか?」
簡潔な返答は一縷の望みを断ち切るものだった。
嘘。
――だって、だってっ……!!
ロベルトさんは忘れてしまったの? 後ろ盾に教会を選べと。尋問の場に神聖騎士が付いて行けなくても、花狼なら同席できるからと誓約を交わしたのに? 傍にいてわたしを守ってくれるって、彼が言ったのに!
優しくしてくれたから、疑ってなんかいなかった。
王宮に行くときは一緒なんだって。クリストフェル殿下にもう一度会うことも、尋問されることも、足が竦んでしまうほど怖いけれど、ロベルトさんが一緒に来てくれるなら頑張れるって思っていた。
視界の端がチカチカする。喉をごくりと鳴らし、喚きたい衝動を無理やり押さえこんだ。感情的になっては駄目だ。
「……理由を、伺ってもいいですか? 最初に聞いたお話では、ロベルトさんが花狼としてついて来てくれることになっていましたよね? わたしのことでクリストフェル殿下に剣を向けたからですか?」
ロベルトさんが外れた理由は王族に無礼を働いたから?
納得できる理由を聞かないと責めてしまいそうだった。
恩知らずな真似をするなと戒める理性と裏腹に、お腹の底に醜い感情がどんどん溜まっていく。
「いいえ、クリストフェル殿下への返礼は関係ありません。この後シラーから同様の説明を受けられるかもしれませんが、首座主教の交渉により状況が変わりました。国王の下問をもって尋問の話はなくなりましたので、ご安心下さい。正式な謁見の場であれば護衛がつかないなどありえません。リン様には外務から選りすぐりの精鋭が付き従います。クリストフェル殿下が横槍を入れてくる可能性もありますが、神聖騎士がお傍にいる限り大事には至らせません」
「……花狼じゃなくても護衛が務まるということですね」
拷問されることがなくなっただけで、相手が王様に代わっただけの尋問じゃないだろうか。神聖騎士がいてくれることは心強いけれど、やっぱりわたしはロベルトさんについて来てほしかった。護衛がいるからじゃなくて、ロベルトさんがいてくれるから安心できるんだもの。
教会の外で働くのは外務だと言っていたけれど、花護騎士はどうだろう? 部屋付きの騎士は教会の敷地を出たらついて来てくれないの?
「でも、ロベルトさんはわたしの花護騎士ですよね。花護はずっと傍にいてくれるんじゃないんですか?」
「花護騎士として、クラウスが同行いたします」
任命式で会ったきりの、もう一人のわたしの花護。姿を見ないのは夜間の護衛を担当してくれているからだろう。エリカさんの言っていたロベルトさんと交代している相手というのは、同じ花護である彼しかいない。
ほとんど話したことがないから、クラウスさんが強い狼であることしか知らない。嫌だとか良いとか、わたしが判断する立場にないことはわかっていても、どちらか一人を選べるならわたしは――。
「ロベルトさんでは駄目なんですか?」
溢れた気持ちが言葉になってしまった。
見つめる先の黒髪が風に揺れる。ロベルトさんはこの話を始めてから一度も顔を上げない。冷静な声から彼の内心を窺い知ることはできなくて、せめて瞳が見たいと思った。
「申し訳ありません。私は神聖騎士としての務めがありますので、先に申し上げた通り、同行はかないません」
任務だから? 神聖騎士の仕事ってなに? 花を守るのが一番の仕事だと言ったのに!
わたしのことはもうどうでもいいのかな……クラウスさんや他の神聖騎士に任せても、気にならない存在?
「……主花としてお願いしても、来てはくれませんか?」
わたしって、こんなに聞き分けが悪かったんだ。
仕事だと言われているのに「一緒に来てほしい」って、幼い子供と同じだ。保護者と離れるのが怖くてだだをこねている。わかっているのに止められない。彼と一緒にいられるのならみっともなくていいと思ってしまう。
「私に、《主花》としてお命じになりますか?」
つい、と切り上がった視線が絡んだ。
見たいと願った藍色。漣立つ面にぞくりとした。引き込まれて目が離せないのに、背筋が冷たくなる。
陽光は彫りの深い目元に影を作り、眦に一筆刷かれた緋が褐色の肌に鮮やかに映える。
花刻。わたしが彼の主花である証。
……命令したら、従ってくれる?
射抜く視線の鋭さに、試されているような気がした。空気が薄くなったみたいだ。何度息を吸っても動悸がおさまらない。
わたしは消えそうな声で、いいえ、と答えた。
途端に張りつめていた緊張感が消え、大きく息をつけるようになった。
「この度は共に参ることが叶いませんことを、どうかお許し下さい」
ロベルトさんは再度顔を伏せると、三度の断りを口にした。
結局は来てくれないんだ! わたしが何を言っても、お願いしても駄目なんだ!
――ロベルトさんの嘘つきっ!!
たまらなくなって足が勝手に動いていた。
呼び止める声が聞こえたけれど、夢中で広場を駆ける。
鈍った身体で全力疾走をしたらどうなるかなんて考えずに。
衝撃はいろんなところに来た。掌と肘と膝。熱い、と感じた個所がジンジンヒリヒリしてくる。
盛大に転んで動けないわたしの上に影が差す。
察した瞬間に叫んでいた。
「触らないでくださいっ!! ……自分で、起きますから」
のろのろと腕を突っ張り、上体を起こす。膝を立てると土と草の汁でズボンが汚れていた。上着も同じ。掌の土と葉っぱを払うと、赤くなっていたけれど血は流れていない。瞳が潤んで、涙がこぼれそうになったのを必死で押しとどめる。汚れた金環に指をかけ、力をこめて――やめた。
今さら返しても無駄だもの。誓約を交わしたことや教会に登録したことが、白紙に戻るわけじゃない。
ロベルトさんの顔を見ないように立ち上がった。
「お怪我はありませんか?」
黙って待っていた彼に、頷いて両手を見せる。確認を取れただろうという時間をおいて歩き出した。
今度は慎重に、転ばないように。
怪我もないし、泣いてもいませんから……神聖騎士の気遣いは、もう必要ありません。
ロベルトさんが花狼になってくれて、己惚れていたのだと思う。
誰にもされたことがないほど丁寧に扱われたから。大切にされているとか、わたしは特別なんじゃないかって、勘違いをしていた。
やっぱり仕事だったんだ。お願いしたら聞き入れてくれるかもしれないなんて馬鹿な思い上がり。
神聖騎士の義務感で、放っておけないから助けてくれただけ。視力をかける誓約だって、責任の強さがさせたことだろう。彼は有能な騎士だから仕事はたくさんあるはずで、他の仕事を優先されたからといってわたしに怒る権利なんてない。裏切られた気でいるのは、自分が立場を理解していなかったからにすぎないのだから。
恥ずかしくて、みじめで、消えてしまいたい……。
膝と掌のズキズキとした痛みは歩いているうちに広がって、お腹や頭も痛くなってきた。
新しい発見に自嘲が浮かぶ。痛みに救われることもあるんだ。いたい、いたい、と頭の中で呟いていたら、他のことを考えなくてすむもの。
いたい、いたい…………こころが、いたい。
いつの間にか先導するように先を行く人のブーツをぼんやり見ながら歩いていると、ある場所で立ち止まった。
周囲を見渡し、見覚えのある建物に館に帰ってきたのだと気づいた。
振り返ったロベルトさんの視線を避けてうつむく。
「リン様、」
「ロベルトさん」
彼の言葉を遮るのは、はじめてかもしれない。
痛いところがいっぱいで、とにかく今はなにも聞きたくなくて、続きを待つロベルトさんに一方的に言った。
「王宮の件はわかりました。さっきは我儘を言ってすみませんでした。……もうひとつ、とても勝手なことを言いますが……しばらくロベルトさんの顔を、見たくありません」
どう思われたのかわからない。沈黙は長くは続かず、ロベルトさんが拝跪した。
跪く彼を視界に入れないように横を向いたわたしの耳に、甘い響きの低い声が答えた。
「――仰せの通りに、我が《命花》」
++++++++++
午後になって部屋を訪れたシラーさんは、ロベルトさんから聞いた内容と変わらない予定を告げた。王宮には薬師兼世話役として同行すると言われて安堵した。異世界から来たことを知っている人が傍にいてくれることは心強い。
出発は明後日の朝。準備は今日と明日で整えるらしい。淡々と用意する物品を教えてくれる彼女と二人、荷作りに取りかかる。櫛、洗面用品、何に使うのかもこもこした綿の塊といった品はいいけれど、着替えもいるのだろうか?
「意外に荷物が多いんですね。王宮からはその日に帰ってくるんじゃないんですか?」
「わかりません。謁見の時間はそれほどかからないでしょうが、内容によっては王宮への滞在を余儀なくされるかもしれません。教会のように花の支度に必要なものがすぐにそろうとはかぎりませんから、不測の事態に備えておくことは必要ですよ」
腫れた瞼のことには触れなかったシラーさんが、ふと手を止めて外に視線をやった。
「距離を置くことは良い判断です」
誰のことを言われたのかに気づいて駆け寄ると、窓の下に見えたのは黒髪ではなく金髪の神聖騎士の姿だった。すぐに窓から離れ、壁に背中をつけて座り込む。
……あれはクラウスさん? わたしが言ったから?
顔を見たくないと言ったのは、平常心で接することができないと思ったからだ。固く握った拳にじわりと汗が滲む。ロベルトさんに謝らなければいけないのに、子供っぽい感情が邪魔をしてできそうになかった。
「……ロベルトさんは他にお仕事があって、王宮には行けないそうです」
「そのようですね。首座主教のお考えはわかりませんが、あなたにとって視野を広げる良い機会になるかもしれません。わたくしが他の花狼を得るべきだと言ったことを覚えていますか?」
「ロベルトさんはお仕事だから! 仕方がないんですっ」
むきになって言ったところで、シラーさんの冷静な水色の瞳に、自分自身に言い聞かせている言葉だと自覚した。納得できていないから、言い聞かせないといけないんだ。
「事実は立場によって受け止め方が変わります。盲目的な信頼は己を苦しめることにつながります。よく見て、よく考え、行動に移さなければなりませんよ」
シラーさんが学校の先生みたいなことを言う。
ズキズキと頭まで痛くなってきた。黙って唇を噛みながら、わたしは胸に巣食う苛立ちを持て余していた。
夜になっても食欲がなく、クラウスさんと会うことも気が重かったから、マルクス君が心配してくれたけれど夕食は食べずに休むことにした。
明かりを消してベッドに入る前に、カーテンの隙間からそっと下を覗く。
暗闇に探している人の姿は見つけられなかった。
++++++++++
翌日は荷作りと王宮での作法をシラーさんから教わり、バタバタしているうちに日が暮れてしまった。食堂に行くのを躊躇する気持ちに気づいてくれたらしく、マルクス君が簡単な食事をもらって来てくれたから部屋を出ることもなかった。
一日経って頭も冷えてきたけれど、今度はロベルトさんにどう声をかけていいかわからない。
八つ当たりで癇癪をおこして、彼に失礼なことを言ってしまった。たぶんシラーさんかクラウスさんにお願いすれば呼んで来てもらえると思う。けれど謝罪の言葉より言い訳ばかりが先に頭に浮かんで、自己嫌悪すら自分を守るためのように感じ、わたしは溜息を吐きながら夜を迎えてしまった。
パジャマがわりのワンピースに着替えたところで、ノックの音が聞こえた。
とても既視感がある。
扉を開くとそこにいたのはエリカさんだった。お互い顔を見合わせ、プッと噴き出した。いつかの夜と同じシチュエーションに笑いながら部屋に招き入れる。
「明日王宮へ行くそうね?」
「はい。王様がわたしの話を聞きたいとおっしゃってるんです」
「何を聞かれるのか知らないけれど、大丈夫なの? 神聖騎士がついているから滅多なことはないと思うけれど、多花片が教会から離れるのは危険よ。不埒者を撃退するために、お茶をたっぷり飲んで狼返しの軟膏も厚塗りした方がいいわよ」
シラーさん特製のクリームを持っていると言うと、菫色の瞳が「それなら安心ね」と悪戯な猫のように細くなる。花でも臭いのだから、鼻の利く狼には相当刺激的に香るらしい。
「――リン、あなたにお願いがあるの」
微笑みを消したエリカさんが真剣な顔をしてわたしの手を取った。
握られた手が小刻みに揺れるのは、エリカさんの手が震えているからだ。
彼女の掌に乗せられていたのは小さく折りたたんだ布だった。暗くて細部はわからないけれど、何か模様が刺繍してある。ひょっとして、ハンカチ?
「もしフィリップに会うことがあったら、これを渡してほしいの。……こんなことを頼むなんて、迷惑だってことはわかっているわ。だけど、だけど、あなたにしか頼めないの。あたしが教会を出ることはできないわ。彼が花結びに参加することも許されない。だから彼に会ったらでいい、渡してほしいの」
「エリカさん……」
癖のある金髪がやわらかく縁取る頬は緊張に強張っていた。
でも、ロベルトさんは安易に身の回りのものを渡してはいけないと言っていた。ハンカチを返す必要はないのだと。途惑うわたしの態度にエリカさんの手から力が抜けた。
潤む瞳は水に濡れた宝石のようだ。
「あの人が好き。本当に好き。逢えなくても、話せなくても、花片を捧げたときのまま、彼を想っているわ。そのことだけでも伝えたいの……お願いよ、リン……」
胸の前で手を組み、長い睫が祈るように伏せられた。
あ。
一筋頬を滑った雫が、ぽつりとハンカチに染みこんだ。
辛い気持ちが涙として生まれるのなら、これ以上泣いてほしくない。わたしはとっさにエリカさんの手を覆っていた。
「届けます。フィリップさんにこのハンカチを届けます。ハンカチもエリカさんの気持ちも、わたしがちゃんと届けますから、安心してください」
……ありがとう、と泣き笑いで微笑んだエリカさんにホッとして、わたしも微笑み返した。
エリカさんを見送った後、わたしは預かったハンカチを大切にしまいながら、シラーさんの話を思い出していた。
お互いに好きなのに逢えないエリカさんとフィリップさん。亡くなった八花片のアリウムさんも、本国の花狼と引き離されたと言っていた。花狼の誓約は合意のもとに交わされる。
“主花”と“花狼”。両者の間にある絆というのは、どのようなものなのだろう。
明日の朝にはいよいよ教会を出発する。
寝る前にもう一度、昨夜と同じように外を覗いた。
黒髪も黒い服も夜の闇にまぎれてしまっているのか、それともわたしの傍に彼はもういないのか、わからなかった。




