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花と狼  作者: riki
第三章 恋花の八花片
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36

 ようやくシラーさんから許可が下り、初めて食堂へ行けることになった。

 マルクス君に食事を運んでもらうのは気が引けていたのですごく嬉しい。

 教会の花や狼たちが食事をとる場所は館からそれほど離れていない。他の花と会うのはまた時期を見てからといわれ、時間をずらして講義が始まってから館を出た。

 食堂までの案内はロベルトさんがしてくれるらしい。

 こっそり窓から眺めるのと、実際に相対するのでは全く違う。

 「おはようございます、リン様」と、あの甘い響きの低い声で言われたとき、瞳が潤んでしまった。抱き上げて連れて行こうとしたロベルトさんに焦って、涙はすぐにひっこんでしまったけれど。

 正装のときならいざ知らず、普段着のシャツとズボンだから運んでもらう必要はないですから。傍目にはわからないけれど右腕も完全に治っているとは思えないし。

 怪我を心配すると押し切られてしまうから、「鈍った足を鍛えるために歩きたいんです!」と固辞すると、間をおいた後に「ご無理はなさいませんように」と苦笑された。……彼の方が過保護だと思うのに、自分がわがままを言った気にさせられてしまうのが釈然としない。


 外は晴れているから気持ちが良かった。

 朝の光を金色の徽章が弾き、濃い陰影を刻む彫りの深い顔がしばしばわたしを振り返る。眦に緋を刻む藍色の眼が窺うように細められた。わたしは微笑んで、体調は大丈夫です、自分の足で歩けますよとアピールした。

 渡り廊下に目隠しの幕はなく、教会の敷地内が見渡せた。外から覗きこめないように高い塀とは別に木が植えられている。ちらほら見える人影は神聖騎士だろうか。首を伸ばしてキョロキョロしていたら、ロベルトさんの掌が目の前に現れびっくりして立ち止まった。


「前を見てお進み下さい」


 困ったように注意された。このまま歩いていたら支柱にぶつかっていたに違いない。恥ずかしくて返事が尻すぼみになった。ちゃんと歩かないと子供みたいに手を引かれてしまいそうで、大人しく廊下に落ちる影を追いかける。

 背の高い人は靴も大きい。そして脚が長い。本気で歩けば彼の一歩がわたしには二歩、三歩? 離宮から歩いたときにロベルトさんの足の速さは知っている。だから今はうんとゆっくり、久しぶりに外を歩くわたしのペースに合わせてくれているんだろう。


「食堂を使う時間は交代制です。花が朝食をとり、次に狼です。神官は大体同じ時刻に訪れますが、騎士は任務の内容で不規則になることもあります。基本的に花と同じ時間に食事をとることはありません。現在は花の食事が終わり、狼の食事を準備しているところでしょう」

「じゃあ今日は時間外に行って、お邪魔になるんじゃないですか?」

「交代には準備や掃除といった時間の猶予が設けてありますので、問題にはなりません。ですが落ち着いた雰囲気ではないかもしれませんね」

「それは大丈夫です。学校でも食べるのが遅くて、掃除の時間に突入しちゃった経験がありますから」

「食事中に掃除を?」

「いえ、掃除の時間は別にあるんですけど……苦手なものが出るとお箸が進まなくて」

「オハシ?」

「わたしの国では、箸という二本の棒で食事をとるんです」


 お箸の説明に怪訝な顔をされた。今度機会があったら実演して見せよう。


 平屋の食堂からは煮炊きの煙が上っていた。

 足を踏み入れた第一印象は、学食みたい、だった。

 火を使うから外よりも空気が熱く、美味しそうなにおいがする。カウンターの向こうに厨房があり、ジュウジュウ、ガチャガチャと調理の音や食器がぶつかる音が響いてにぎやかだ。洗い物をしている人。野菜を刻んでいる人。大鍋を振っている人。テーブルを拭き、椅子を直している人。忙しそうに立ち働く狼たちが、ちらちらとこちらを見ていた。

 ぺこりと会釈して、広い背中に続く。

 彼の説明によると、セルフサービスで好きな料理をとるバイキング形式のようだ。

 促されるままトレーにお皿を載せて、並んだ料理を見て回った。

 ポテトサラダ、マッシュポテト、これはニョッキかな? ……ハールベリスの特産はじゃが芋なんだろうか。

 これまでの食事も美味しかったので、味の心配はない。様々な芋料理に迷いながらポテトサラダをお皿に取り、プチトマトみたいな野菜を彩に足した。動かないせいで食欲が落ちていて、パンは食べられそうにない。

 カウンターでは熱々のスープをカップによそってくれた。

 お礼を言うと、料理人らしき男性は「腹いっぱい食ってくれよ!」と笑って片目を瞑った。

 背筋が震えた。

 ……なんだ。普通の人だ。

 神官や騎士のように、わたしには過剰に思える丁寧な対応をとるでもなく、ごく普通の反応だった。

 普通に働く人がいて、ご飯を食べて、人々の生活がある。これまでの人生とかけ離れた体験ばかりで現実感に乏しかった世界が真に現実味を帯びたのは、何気ないこの瞬間だったかもしれない。


 掃除の邪魔をしないように一番隅のテーブルに着く。

 横に控えていたロベルトさんも、お願いして向かいに座ってもらった。隣に人を立たせたまま食事をするなんて無理だと思ったからだ。

 失敗だったかも、と座ってから変な汗をかいた。長く頑丈な大人数用のテーブルは対面で座ったらある程度の距離はあるけれど、じっと見られていると食べづらいです……。

 食事は花の後になるらしいから、お腹が空いてるのかな? でも一緒に食べられないんだよね。わたしが早く食べてロベルトさんにご飯の時間を作らないと。

 かといってかきこんで食べるわけにもいかず、緊張してスプーンの扱いがぎこちなくなってしまう。スプーンから逃げたプチトマトをお皿の端に追い詰めてすくうと、黙って見ていたロベルトさんが口を開いた。


「祖国のものではないので、扱いにくいですか?」

「大丈夫です。スプーンやフォークはありましたから」

「そうでしたか。慣れておられないなら、私がお手伝いしようかと思っていました」


 ちょうど口に含んだところだったプチトマトをテーブルに落としてしまった。

 歯型のついた赤い実がコロコロと転がる。

 危なかったっ、スープじゃなくてよかった!とわたしは心底安堵した。コントみたいに噴いてしまうところだった。心臓に悪い騎士道精神を発揮するのはやめてください。日本の女子高生にはついていけません。

 スプーンを置いて拾おうと伸ばした手の先で、褐色の長い指がさっとつまみ上げた。


「ごめんなさい、もったいないことをしちゃいました」

「ならばこうしましょう」


 受け取ろうと差し出した手を一瞥したのに、プチトマトは彼の口に消えてしまった。

 ……た、食べかけなのにっ!?

 頑張って動揺を押さえていたのに、予想外の行動に自分の顔が真っ赤になるのがわかった。

 落としたのはわたしだから文句は言えないけどっ、でも落としたきっかけはロベルトさんの発言なんだけどっ、もったいないと言ったのはわたしでっ、~~ああもう!

 泣きそうになりながらプチトマトを咀嚼するロベルトさんに尋ねる。


「あの、お腹空いてたんですよねっ? すみません。急いで食べますから、もうちょっと待ってください」


 唇の端に親指を当てて考え込む様子だったロベルトさんは、藍色の左眼でひたりと見据えると、薄く笑った。


「ごゆっくりどうぞ、《主花アウリーシェ》。――“味見”ができましたから、私は満足です」




 ++++++++++




 狼の食事はまだ準備中らしく、ロベルトさんもお腹が空いていないと言うから、もう少しだけ散歩がしたいとねだってしまった。離れていた間のことを伝えたかったのと、久しぶりに話ができて別れがたい気持ちからだけれど、応じてもらえたことが単純に嬉しい。

 案内されたのは芝生に似た草が生えた広場だった。まばらにベンチが設置され、噴水があれば立派なデートスポットのような場所だ。その印象も間違いではなく、花結びで知り合った花と狼が散策しながら交流を深める場所らしい。

 緑の絨毯はふかふかと足が沈む。部屋でずっと過ごしていたから、自然に触れられてとても気持ちいい。花は植物だからかな。風を感じ、太陽の光を浴びて光合成ができそうな気分。心が浮き立つのは隣を歩いている彼の存在が大きく関係している。ちらりと盗み見ると、ロベルトさんもあたたかな日差しに目を細めていた。

 他愛ないことでも喜びは増すもので、わたしの足取りはさらに軽くなった。


「ロベルトさん、シラーさんに教えてもらって自分の名前が書けるようになったんです。またロベルトさんの名前も教えてくださいね。早くいろんな文字を読めて書けるようになりたいです。……書くのは下手ですけど」

「リン様は素晴らしい向上心をお持ちですね。トリスタンでは花が学ぶ機会は乏しいので、文字を知らないことが不利に働くことはないでしょう。リン様の国では教養を学ぶ場所はありましたか?」

「六歳から通う学校があって、そこで文字や計算や歴史、一般常識などを習いました」

「幅広く学ばれるのですね。幼少期から学ぶ姿勢については理解しておられるようですが、表に出しすぎないようご留意下さい。トリスタンでは学びの機会がない。そういった場に慣れた様子を見せては不審を抱かれますから」


 そうか、勉強慣れしていたら変なんだ。講義の間中じっと座って先生の話を聞くこと、質疑の間、ひょっとしてノートをとることだって。わたしはトリスタンの出身ということになっているから、講義を“当たり前”に受けていたらおかしいんだ。


「でも、知らないふりってどうしたらいいんですか?」

「リン様が礼儀正しく素直な性格でいらっしゃることはすぐにわかります。基本は自分から動かないことです。たとえご存じであっても率先して行動に移す前に、相手が教える間を持つことです。不安なことがあればまずシラーに尋ねるようにして下さい」


 大人しく待っていたら、相手が教えてくれるってことですね。たしかに不慣れなことは教えてもらうのを待つのが自然かもしれない。ついでに積極的な性格じゃないことも見抜かれている。わたしは納得してロベルトさんに頷いて見せた。


「懸念が残るとすれば言葉ですが……リン様は意識してハールス語を話されているわけではないようですから、直すことは難しいでしょうね」

「わたしのハールス語って変なんですか!?」


 神様の力で変換して喋っているから、まともな会話ができていると信じていたのに!

 わたしがショックを隠しきれないでいると、ロベルトさんに「そうではありません」と否定された。


「おかしなところがないゆえにです。トリスタン出身なら大陸の訛りが残りますが、生粋のハールス人のように流暢です。教育を受けて話されるにしては、ハールスの常識をご存じない。“聞き分けがつかない”ほどハールス語にも大陸語にも堪能でいらっしゃる」

「でも……王宮で話さないわけにはいきませんよね? あっ、片言で喋ってみましょうか? コニチハー、とか……」


 ……沈黙が痛い。

 うん、駄目ですよね。自分でもないと思いましたから。「ずっとその話し方を続けられるのであれば」なんてフォローさせてしまってすみません。

 結局、言葉については自動変換されているから解決策は見つからなかった。

 コミュニケーションに困らない恩恵をなくしたいとは思わない。悩んでも仕方がない、前向きに考えないと。

 トリスタン出身と偽っているのに大陸語が聞き取れないという事態は避けられるからいいよね。大陸語を話せないのは矛盾があるけど、話せないのかわざと話さないのか、簡単に区別はつけられないだろうし。


 その他、ぽつぽつと見聞きしたことを話した。

 エリカさんと知り合ったこと。シラーさんからアリウムさんという恋花の八花片の話を聞いたこと。

 クリストフェル殿下を怒らせたから、十四年前のことにロベルトさんも関係しているのかと思っていたけど、何も言われなかった。きっと聞いてはいけないことなんだろうな……。揺るがない眼差しと平静を崩さない態度は、質問を飲みこむには十分だった。

 わたしと彼の関係が噂になっていると言うと、「不快な思いをされましたか?」と顔を覗きこまれた。そもそもシラーさんとマルクス君とエリカさんとしか接触していないから、何もないと首を横に振る。むしろロベルトさんの方こそ、色々言われてるんじゃないだろうか? ほぼ全員がハールス狼の神聖騎士団だもの、いじめられたりしないのかな。

 わたしの言葉にいつも通りの、というには物騒な犬歯が見え隠れする笑いが返された。


「主花を持ち得ぬ狼の嫉妬は快いですよ。牽制にもなりますから、私は歓迎しています」


 ロベルトさんには都合がいいらしい。他人に妬まれても平然としていられるのは、彼が強い狼だから? わたしなら委縮して引きこもりになってしまいそうだ。フィリップさんは好戦的な人だと思ったけれど、実はロベルトさんも負けず劣らずの性格かもしれない。

 広場をそぞろ歩きベンチに近寄る。

 ふと見ると、枝の突き出たポストのような箱が立っていた。不思議な箱はクルークの止まり木だと教えてもらった。クルークって、彼は鳥と会話できるのかと勘違いしてしまった伝令鳥のことだ。大空を舞う鳥の影は猛禽類っぽかったけど……。以前テレビで見た鷹匠を思い出した。


「クルークって腕に止まらせたりもできるんですか?」

「……騎士ならば可能です。馴らしているとはいえ爪が鋭いので食い込むと怪我をしますし、大きな鳥です。リン様の腕では支えきれないでしょう」


 苦笑されたのは憧れる気持ちを見透かされたからだろう、頬が熱くなる。

 離宮の階段を抱き上げて下ろしてもらったとき、お尻の下に当たったのはクルーク爪から腕を保護する籠手の類いだったのかな。任命式では感じなかったから、外務の騎士だけがつけるのだろうか。

 ベンチに腰掛ける前に、どうぞ、とハンカチを広げられた。神聖騎士のハンカチは様々な場面で出番がある。当然一枚でも多い方がいいはず。その内の二枚を借りっぱなしだったことを思い出した。


「すみません。お借りしたハンカチ、洗濯はしてありますが返すのを忘れてて……」

「リン様。私にもレンドルフ様にも、ハンカチを返す必要はありません」

「大丈夫です! わたしじゃなくてシラーさんが洗ってくれたからちゃんと綺麗になってますっ」

「そういったことではないのです。ときに非常に鼻の利く《狼》がいます。身を守りたいなら、使用された物を安易に渡してはいけません」


 花は体液が香るから、わたしの血とか涙とか鼻水……もろもろがついたハンカチは、洗濯してあっても狼に渡さない方がいいということ?

 身を守りたいなら――。貞操と、正体と。彼は二つの意味で言っている。借りたものは返す、日本では当たり前のことでさえ、テュリダーセでは違うんだ。迂闊なことをしてまた迷惑をかけるところだった。


「わかりました。教えてもらわなかったら、カルステンさんにハンカチを返すところでした。ありがとうございます。また王宮に行ってもよろしくお願いします。気づかずにたくさん失敗をしてしまいそうで今から心配ですけど、ロベルトさんが一緒に来てくれるから安心です」


 わたしの言葉にロベルトさんの表情が消えた。

 唐突な変化に腰かけようとしていた身体が固まる。彼は視線を足元へ落とし、すっと身を屈めて拝跪した。伏せられた顔を黒髪が隠し、藍色の瞳も花刻も見えなくなった。


「――申し訳ありません。私はリン様と共に王宮へ参ることができません」


 え? ……どういうこと?

 一瞬何を言われたかわからなくて、頭の中が真っ白になった。

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