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花と狼  作者: riki
第二章 花護の騎士
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31

 いた! ロベルトさんだ。舞台袖の下、暗がりで壁を背にして座り込んでいる。

 彼のまわりには傷の手当てに使うと思しき道具があった。駆け寄ろうとしたら、「危ないですよ。足元に段差があります」と制止された。

 暗くてよく見えない。そろり、と爪先を前に滑らせると確かに低い段差があった。気づかずに走っていたら躓いていたかもしれない。

 闇に目が慣れるのを待ってもう一度見ると、顔を上げもせず注意したロベルトさんは手元でなにか作業しているようだ。上から射し込む弱い光が彼へと続く床を照らしていたけれど、出端を挫かれたわたしは近づくのをためらった。


 任命式を仕切り直すにあたり、ダールガンさんはロベルトさんに服を着替えるよう命じた。ちゃんと手当てをしてほしかったからホッとした。

 なにか手伝えるかもしれないと思って、渋るジークベルトさんを押しきって追いかけてきたけれど……。日常のすり傷や切り傷とは違う。なにを手伝ったらいいんだろう。


「あのっ、わたしに手伝えることはないですか?」

「リン様にお手伝いしていただくことはありません。手が汚れてしまいますから、お気持ちだけで結構です」

「そんなこと気にしませんっ!」

「私が気になります」


 止血のために結んでいたハンカチを解き、ロベルトさんが上着のボタンを外した。無造作に床へ放り投げられた上着が濡れた音を立てる。

 真っ赤に染まったシャツの右袖がめくり上げられると、血の滲む生々しい傷口が顔を出した。ロベルトさんは傷口を洗うためか、瓶の中の液体を振りかけた。

 見ている方が痛くて、思わず視線が逸れてしまった。


「どうぞ上でお待ち下さい。すぐに参ります」


 苦笑まじりの勧め。ロベルトさんだって呆れているだろう。手伝うと言っておきながら、近寄れもせずに立ちつくしているのだから。

 不甲斐ない自分を叱咤して一歩踏み出すと、さっそく「裾が汚れますよ」と言われた。負けじと正装の裾を持ち上げて、ロベルトさんの隣にしゃがみ込む。

 むっと血の臭いが鼻をついた。


「……わたしにも手伝わせてください」


 ちらっと目を上げた彼は、針を取るようにと言った。縫った方が早く治るのかもしれないけれど……出方を観察されているみたいだ。ここで怖気づいたら追い返される予感がして、震える手で糸の通った針を渡す。

 ロベルトさんは躊躇なく自らの腕に針を立てた。無残に開いた肉が縫い閉じられていく。

 麻酔をしていないことは変わらない表情の中、額に浮かぶ汗で気づいた。

 ぷつっと糸が噛みちぎられた。

 言われるまま傷口に軟膏のついた布を押し当てると、ロベルトさんは布の上からグルグルと包帯を巻きだした。

 傷口を洗った液が褐色の肌にまだらの血の筋を残している。筋肉の盛り上がった腕はわたしの貧弱な腕と比べ、倍は太く逞しかった。

 呻き声も上げず傷を縫ってしまう狼の精神力。生まれ変わってもわたしには持てないだろう。その証拠に今も握った拳が震えている。

 巻く手を止めないまま、低い声が問うた。


「――私に、何かお話になりたいことがあったのでは?」


 彼は鋭い。

 ロベルトさんが心配で、矢も楯もたまらずきてしまった。

 近くで顔を見て、声を聞いて、安心したかったから……でも、それだけじゃない。


「どうして、ですか」


 初めて逢った時から不思議だった。

 ロベルトさんはどうしてわたしを助けてくれるんだろう? こんなに良くしてくれるんだろう?


「どうして、ここまでできるんですか。神聖騎士だからですか? わたしが普通の花とは違うこと、ロベルトさんも知ってるじゃないですか! 神聖騎士の義務ってそれほど重いものですか!? こんな風に怪我をして、なんでわたしを怒らないんですかっ!!」


 責めたいわけじゃないのに、興奮して叫んでしまった。

 本当に自分の意思で助けてくれているんだろうか。

 神聖騎士が離宮に現れたことも、エリカさんの話を聞くまで明確に疑問を感じていなかったけれど、わたしがクリストフェル殿下に捕らえられていることを、どうやって知ったんだろう?

 個人の力が及ぶ範囲じゃないことはわかる。手配されていた馬車。受け入れ態勢を整えていた教会。教会が関わっているとしたら、ロベルトさんは神聖騎士として動いたんだろう。

 だけど、わたしの花狼になることも職務の内なの?

 自称異世界人で、花として匂いを持たないわたしに、一生縛られてしまうことが?

 恐ろしい試合をして花護になることも?

 誓約の代償に視力をかけ、怪我をしてまで助けることが彼の仕事?

 そんな理不尽、到底納得できない!

 彼は強い。いくら命令されたとしても、盲目的に従う必要があっただろうか。


「リン様、それは違います。己が弱さに受けた傷でどうして人を責められるでしょう?」

「わたしがいなかったら、しなかった怪我ですよね?」

「いいえ。《狼》として生まれたからには、いつかどこかで負う傷でした。――リン様のおかげで手当てが早くすみました。ありがとうございます」


 慣れた手つきで包帯の端を押し込み、ロベルトさんは道具を片づけはじめる。

 お礼を言われたら、自分が情けなくなった。わたしが何の役に立てただろう。

 ……行かなくちゃ。手当てを終えれば戻ると言ったから、グズグズしているとジークベルトさんが迎えにきてしまう。

 消化不良の感情がまだ胸につかえている。

 階段の上は静かだ。あと一分。はぐらかされて答えをもらえないのは嫌だ。


「ひとつだけ、教えてほしいんです」

「私にわかることであれば、いくつでも」

「わたしの花狼と花護になってくれた理由です。ロベルトさんが、神聖騎士だからですか?」


 彼は憶えていないかもしれない。離宮でカルステンさんが出て行ったあと、神聖騎士だから花狼になってくれたのかと尋ねたときの答え。途切れてしまった続きをずっと聞きそびれていた。

 あのとき、何て答えるつもりだったんですか?

 ロベルトさんは答えてくれた。用意していた台本を読み上げるように淀みなく。


「それはリン様が私の《命花サンザリア》だったからですよ」

「誤魔化さないでくださいっ、話が前後してます! 今はお茶を飲んでますけど、わたしの系統は誰もわからなかったんでしょう? クリストフェル殿下も、フィリップさんも……ロベルトさんも」


 周囲を慮って潜めた声でも、ロベルトさんには充分届いただろう。

 無言でわたしの視線を逃れた横顔。動かない表情は冷静さか、あるいは全ての感情を覆い隠しているように見えた。


 もう答えてもらえないのかな、と諦めかけたときだった。

 溜息ひとつ。「《主花従狼》か……」と呟いたロベルトさんが頭を振り、わたしの方を向いた。


「――――あなたを」


 乱れた前髪の隙間、不揃いの二色には微かな炎が宿っていた。

 暗闇に目が馴染んだからこそ気づくような、どこか挑戦的に揺らめく灯火は見る者の動揺を誘う。


「あなたを見ていると、不思議と放っておけない気持ちになります。それがなぜなのか、わかりませんが」

「……わたしを、見ていると……? 髪が黒いからですか……?」


 ハールベリスでトリスタンの色を持つという意味をわたしは知らない。ただマルクス君の反応を見れば厳しいものだと想像はついた。ロベルトさんの黒髪に親近感をおぼえたように、彼もまたわたしの髪色に故郷への懐かしさを感じているのだろうか。


「……どうでしょうね」


 曖昧に答えたロベルトさんは、瞬きで炎を散らせた瞳にからかう色を乗せた。彼の目くばせと同時に、階段の上からジークベルトさんの声が響く。


「さ、上にお戻り下さい」

「ロベルトさんは?」

「私も着替えてから参ります」

「~~ごっごめんなさい!」


 血だらけのシャツを脱げなかった理由に思い至り、焦って階段に走ったわたしは二度目の制止を受けることになった。




 +++++++++++++++




 手当てをしている間に椅子を直したらしく、聖堂は雑然とした闘技場から荘厳な姿を取り戻していた。

 二度目の任命式。祭壇を背にしたわたしの前には、ぱりっと新しい服に着替えたロベルトさんとクラウスさんが立っていた。

 ステンドグラスを通した七色の彩色を吸い込む漆黒の団服。長身がさらに引き立つ踝までのロングコート。タイトに腰を絞った剣帯には、狼の“牙”が揺れている。


「皆、待たせたな。――これより、リン・ハールスラントを守護する花護騎士の任命式を執り行う」


 ダールガンさんが厳かに宣言した。

 ザッとコートの裾を捌き、そろって拝跪した二人は一幅の絵のようだった。腕が痛むはずなのに、ロベルトさんはなめらかな動きで両手を組んだ。

 怪我の影響を感じさせない鋼の意志。気遣う言葉はかえって失礼だ。わたしは口にしかけた言葉を飲み込んだ。

 ダールガンさんが手に持った鐘を打ち鳴らした。

 キィィィ――ィィン……、キィィィ――ン……、キィィ――ン…。

 聖堂に殷々と澄んだ音が響く。聖鐘の音はだんだん間隔が短くなり、最後に強く打たれた一音が水面に波紋を残すように、ゆっくりと空気に溶けていった。

 清らかな音を惜しむ静寂。

 これはテレビや雑誌では伝わらない、この場に居合わせたから実感できることだろう。

 心を洗う音色に耳をすませる狼たちの瞳は敬虔な信徒のもの。花狼の誓約も花護の任命式も、彼らにとって神聖な誓い、神への誓いなのだ。

 ……信仰する宗教がないわたしは、テュリダーセの人たちを少しうらやましく思った。

 余韻を壊さぬよう、誓詞は静かに始まった。


「――遍く響け我らが誓い。母なる女神の御許まで」

「我ら愛知る獣の末裔すえに、この世の姫らを委ね給え――」


 まずはロベルトさん。その後をクラウスさんが次ぎ、そして二人の声が重なった。


 ――一つ負いしは花たる命。主花とも想いて、此の牙捧げん。

    二つ負いしは双たる狼。絶大の信似て、此の背預けん。

    三つ負いしは我が誇り。誓い違えぬ此の覚悟こころなり。

    命に捧ぐ此の身に《太陽神ゴルト》よ、どうか御加護を……。


 朗々と諳んじた二人は一端立ち上がり、手を伸ばすと触れそうな距離まで詰めると、わたしを中央にして左右に跪いた。描いた三角形は頂点がわたしで、右手側にロベルトさん、左手側がクラウスさんだ。


 ――そして我らがリン・ハールスラントに乞う。

 願わくば古に語られるが如く、我らと貴女とが、永く友愛に結ばれて在るよう……。


「――彼らを承認しますか? 」


 ダールガンさんに尋ねられ、ぎゅっと両手を握った。

 次はわたしの番。

 ……緊張で胃が痛い。花に誓詞はないから、承認は自分なりの言葉でいいってエリカさんは言ってたけど……。

 すうっと息を吸い込む。


「わたしは……この教会の新参者で、たぶん誰より物知らずです。ご覧の通りハールス人でもありませんし、実は記憶がはっきりしなくて……過去のことをあまり思い出せません」


 聖堂は静かで、誰もがわたしの声を聞こうと耳をすましているようだ。

 遠からずボロを出す自分がありありと想像でき、先手を打って記憶喪失という設定を広めておこうと思ったんだけれど……。誓いの言葉に偽りを混ぜるのは気が咎める。


「……一体自分はどうしたらいいのか、どこへ行けばいいのか、なにもわからず途方にくれていました。もし教会に保護してもらわなかったら、路頭に迷っていたと思います。熱を出して、看病してもらいました。食事や、綺麗な服も、部屋も用意してもらいました。それに生活する上で必要な知識まで教えてもらっています。……本当に心から、感謝しています」


 目覚めたのがハールベリス以外の国だったら? ロベルトさんと出会わなかったら?

 もしも、と考えた未来は決して明るいものじゃなかった。わたしはとても幸運だったのだ。


「わたしはなにも持っていません。だからこの教会で知識と技術を身につけ、お世話になった人たちのお役に立てるようになりたいです。助けてもらったぶん、お返ししたいんです。……あの、すごく賢かったらいいんですけど、わたしはあまり物覚えがいい方じゃありません……」


 学校の成績は中の中で、人に自慢できるような取り柄もない。額の祝福が学力アップのご利益だったらいいのに、なんて馬鹿なことも考えてしまうほどだ。


「それでも、限られた時間、精一杯頑張ります。花護になっていただくロベルトさんとクラウスさんには、一人前になるまでたくさんご迷惑をおかけすると思いますが、どうかよろしくお願いしますっ!」


 聞こえていますか、神様。

 上手に言うことはできなかったけれど、これがわたしの正直な気持ちです。

 言い終えて深くお辞儀した。

 二人に伝わっただろうか? 心配しつつ頭を上げると、後ろでパンパンと手を叩く音がした。

 振り向いたら、拍手をおくってくれたダールガンさんが頬笑みを浮かべて言った。


「――あなたが先人の知識を学び、他の花と交遊を楽しみ、心安らぐ日々を過ごした後にこの教会を立たれるまで、我らがお護り致します。……しかし、花護を得る花の第一声が独り立ちでは、この者らの解任は早いかもしれませんな?」


 ~~とんでもない誤解です!!

 青くなってブンブン首を横に振ると、噴き出す声が聞こえた。

 それが複数だったのは、わたしが狼じゃなくても聞きとれました……。

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