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花と狼  作者: riki
第二章 花護の騎士
29/43

27

 扉の前にはひとりの花が立っていた。十代後半か二十歳ぐらいに見える。シラーさんとはまた違った感じの、綺麗よりも可愛いと言った方がしっくりくる美人さんだ。

 ふわりと広がり波打つ金髪は腰に届くほど長く、手蜀の灯りが黄金に深みを与えていた。猫のように目尻が上がった瞳は印象的な菫色。瞬く炎の角度で青と紫のどちらかに色合いが濃くなる。ぷっくりとした唇は瑞々しいさくらんぼみたいに色付いてておいしそうだ。思わずキスしたくなる唇というのは、きっとこういう唇を指すんだろうな。


「はじめまして八花片、遅くにごめんなさい。あたしは花の位《六花片レダ》、恋花のエリカ・ハールスラントよ。よろしくね」

「……わたしは同じく恋花の鈴・ハールスラントです。よろしくお願いします」


 ――この人が、エリカさん。フィリップさんの《命花》だ。

 思っていたよりも若い。フィリップさんが二十代後半に見えたから、相手も年上の女性を想像していた。……そうか、二十歳になったら教会を出なくちゃいけないから、必然的に二十歳以下になるんだ。テュリダーセの人々は見た目より若いのかもしれない。

 長い睫にマッチ棒が乗りそうだと見惚れていたら、エリカさんはわたしの反応の鈍さに顔を曇らせた。


「……休んでいたのなら、悪いことをしてしまったわ」

「いいえ! さっきまで本を読んでいたところです。あの、何かご用でしたか?」

「隣の部屋なものだから、挨拶をしておこうと思って……」


 足元をすうっと冷気が撫でる。見下ろすとお互い夜着一枚で、火の気がない廊下は肌寒い。


「立ち話も何ですから、どうぞお入りください」

「お言葉に甘えてお邪魔させてもらうわね」


 椅子が一つしかないので並んでベッドに腰掛けた。ちょうど二枚あったショールの片方を手渡し……つい胸元を確認してしまった。

 女性に会うのは二人目、自分以外の花紋を目にするのは初めてだ。透明感のある乳白色の肌に鮮やかな深紅で、燃える焔の切れ端に似た花片が六つ。どきりとする艶やかなコントラストと、花紋の形を変えている豊かな胸に目を惹かれた。

 花紋が歪むなど自分のぺったん胸では夢のまた夢。シラーさんといいエリカさんといい、ハールベリスの女性はすばらしいプロポーションだ。

 わたしは胸に手をやった。今さら伸びてくれない身長は諦めるとしても、せめて――。

 望みは薄そうだ……。


「あなたの花紋は見せてくれないの?」


 面白そうな声の問いで我に返った。確かに自分だけ見たのでは不公平だろう。

 襟を開けば、エリカさんが覗きこんできた。輝く瞳には好奇心しかなく、女性同士だからと念じて恥ずかしさで俯きそうになるのをこらえる。


「まぁ……初めて見るけど、本当に八花片って教科書の通りなのね!」


 珍しいものを見た、というように感心しきりの様子で頷かれた。わたしにとってはテュリダーセの方が不思議に溢れていて毎日が驚きの連続だ。

 エリカさんが「ありがとう」とわたしの襟を整え、ショールを直してくれた。話しかけるのも躊躇う美少女モデルのようなのに、頼れるお姉さんみたいな雰囲気がある。……単にわたしが子供扱いされているだけかもしれないけれど。


「熱があったってシラー先生から聞いたけど、大丈夫?」

「はい、熱も下がって体調も元通りです。ありがとうございます。それにしても、よくご存知ですね」

「あなた、自分がどれほど注目されているのか知らないの?」


 わたしが注目? ぶんぶんと首を振ると、「当事者って案外こういうものなのかしら」とエリカさんが呆れていた。


「閉め切られていた八花片の部屋に手が入ったって噂でもちきりよ。この国に八花片が現れるのは十四年ぶりだけど、あなた緋紋でしょう? 本国の花なら蕾の内に存在が知られているものだし、どこから来た花なのか伝わっていなかったから。あなた、トリスタンの出身?」


 来た、と内心身構えた。装いは教会のものでも、外見は服を着替えるようにはいかない。金髪碧眼を特徴とするハールス人の中でロベルトさんが異彩を放つように、わたしもトリスタンの黒色をもっている。


「おそらくそうだと思いますが……記憶がないんです。南の小さな群れにいた気がするんですが、それも曖昧で何もわからなくて……」

「トリスタンにしてはハールスの言葉が上手ね。南の群れって、まさかアウティス……?」


 エリカさんの声が尖った。固有名詞を出されてもさっぱりだ。各国の情勢を知らないから、どう言ったら説得力があるのか、誤解を招かないのか判断がつかない。否定も肯定もできなくて「わからないんです」と答えると、張り詰めていた空気がゆるんだ。


「気を悪くしたならごめんなさい。覚えていないとあなたは言っているのにね」

「いいえ……」


 どうやら最悪の選択をした訳ではないらしい。エリカさんの反応を確かめながら、じっとりと汗ばむ掌をショールで拭った。

 嘘がつけないとロベルトさんに言われていたから、正直に答えたのがよかったのかも。下手に誤魔化そうと言い訳をすると、わたしの場合は泥沼にはまる気がする。


「し、信じてもらえないかもしれませんけど、本当にどうやってこの国に来たのか覚えていないんです。気がついたら王宮で……」

「王宮!? あなた王宮にいたの?」

「はい、王花の庭というところで目が覚めたんです。自分がどこにいるかもわからなくて茫然としていたら、クリストフェル殿下に見つかったんです」

「クリスに?」

「クリストフェル殿下をご存知なんですか?」


 どうして不味いものを食べたみたいな、微妙な顔をしているんですか?


「……あたしとクリストフェルは従兄妹同士なの」

「えっ、じゃあエリカさんも王族の方なんですか!?」


 普通に接してくれているから身分の差なんて考えなかった。日本人なせいか、身分や階級の差というのが意識に上らなくて困る。うっかり失礼な真似をしていたんじゃないかと固まっていたら、エリカさんは冗談を耳にしたように笑った。


「まさか! 王族じゃないわ、クリスの母とあたしの父がきょうだいなだけよ。教会に来る前はよく父について王宮へ行ったわ。父は《侯爵マルグラーフ》だから、王宮でクリスと会うこともあったの」

「マルグラーフ?」

「そうね、貴族の階級なんて知らないわよね……平たく言えば王の側近よ。氏族長を補佐する立場の者はトリスタンにもいるでしょう?」


 大臣みたいなものかな。わたしは頷いて理解を示した。


「それからどうしたの? 《王花》の庭なんて離宮の最奥じゃない。よく何事もなかったわね」

「いえ、すごく怒られました。怒られたというか、間諜だと疑われて……。わたしは自分がなんでそこにいたかもわからない状態で、捕まえられて部屋に閉じ込められていたんです。そうしたら神聖騎士の人が来て、わたしを教会に連れてきてくれたんです」

「――神聖騎士が来たの?」

「そうですが……?」


 花狼の誓約のことは言わずにおいた。わたしにだって学習能力はある。だからエリカさんが考え込んだ理由が思い当らなかった。

 眉を顰めた彼女は形のいい爪を唇に添え、「……変ね」と独りごちた。


「王宮に、まして離宮に神聖騎士がいるなんておかしいわ。王宮を守るのは護国騎士よ。ただでさえ今は教会との関係が思わしくないのに、神聖騎士が出入りできるものかしら?」

「……花のあるところに虫はありだって、クリストフェル殿下が言っていました」

「いくら《花》の身を守ることに固執する教会だって、権威が及ばない場所はあるものよ。どうやって情報を得たのかしら? ……ここに居てあの人の力になれるわけじゃないし、考えてもしょうがないけれど……」


 軽く爪を噛むエリカさんの表情に「あの人」が誰を指すのか考え、ひょっとして、と身を乗り出した。


「ごめんなさいっ、出会ったら一番に言おうと思っていたのに忘れていました。わたし、王宮でフィリップさんに会ったんです」

「フィリップにっ?」

「はい。エリカさんによろしくと言付けを頼まれました」

「……彼、元気そうだった?」

「とてもお元気そうでした。部下の方をよく纏められて、慕われている感じでした」

「そう? あの人上司の受けはあまりよくないけど、下には好かれているみたいだから。……ありがとう、ずっと逢えなくて心配してたの」


 菫色の瞳が揺れ、はにかんでお礼を言う頬が桜色に染まった。

 ……口に出されなくても察して余りある。エリカさんはフィリップさんが好きらしい。

 喜ぶエリカさんの様子があまりに可愛いのでつられてにこにこしていたら、彼女はコホンと咳払いした。


「ええと、この教会でわからないことがあったら聞いてちょうだい。あたしも長くいるわけじゃないけど、大体のことは答えられるわ」


 照れ隠しの言葉に、目下最大の心配事を思い出した。

 明後日に迫った任命式。先輩のエリカさんなら経験済みだろう。


「実は、わたしの花護騎士の方を選ぶ任命式が明後日なんです。この国のことも教会のこともまだ知らないことが多くて……式では一体何をしたらいいんでしょうか?」

「花のすることはほとんどないわよ。誰を花護騎士に据えるかは教会側の決めることだから、あたしたちは承認すればいいの」

「承認って、どういう風にですか?」

「花護騎士の誓言が終わったら、跪いている彼らの額に口づけの真似を……」

「くっ口づけですか!?」

「怖がらなくても大丈夫、ふりだけだから。相手は花護に選ばれる神聖騎士よ? あなたが八花片だからって、襲いかかってくる心配はないわ」

「そういう心配じゃなくてですねっ! その……は、恥ずかしいじゃないですか……」


 想像しただけで顔が赤くなり手に汗が出てくる。

 シラーさんが式には大勢の人が出席すると言っていた。衆人環視の中でキスするふりとか、クラス劇も大道具参加のわたしにはハードルが高すぎる。緊張で頭突きしてしまいそうだ。ロベルトさんだけならわたしのドジも今さらだと許してくれるかもしれない。けれどもう一人の花護は初めて会う人だからそうもいかないだろう。

 天気予報並みに的中率が高い予想を懸命に訴えていると、エリカさんがぷるぷると震え、盛大に噴き出すと身体を二つに折って笑いだした。


「あはははっ……!! 頭突きっ……! そっ、それは困るでしょうねっ、承認されたのか拒否されたのかわからないものっ。見てみたいわあなたの任命式!」

「…………笑いごとじゃないですよ」


 わたしの視線に「ごめんなさいね」と目許を擦るエリカさん。……笑いすぎです。

 むくれていると頭を撫でられた。


「あなたは不安なのよね。そうだ、式は明後日でしょう? 明日承認の練習をしない? 本番で失敗する可能性は低くなるわよ。笑ったお詫びに付き合うわ」

「本当ですかっ? ぜひお願いします!」


 ふくれっ面に飴。子供扱いでもこの際かまわない。すかさずギュギュッとエリカさんの手を握ったとき、コン、と小さな音がした。

 見つめ合うエリカさんも首を傾げている。扉の方じゃなく、窓から聞こえた音だったような……。

 再びコン、と鳴った。空耳じゃない、窓の方からだ。


「今、音がしましたよね?」


 カーテンの閉まった窓へ行こうとすると、エリカさんがわたしの手を掴まえた。

 意図は明確で、強張った顔は青ざめて見える。


「エリカさん?」

「……行っちゃ駄目。あの音は怪しいものじゃないわ、小石が窓に当たった音よ」


 いえ、充分怪しいと思います。

 何の理由で誰が投げてきているのか、エリカさんは心当たりがあるようだけど……。

 「まずいわ」と呟くエリカさんは窓の外にお化けがいるみたいな怯えようだ。あたふたとショールを外して畳んでいる。


「ありがとう、これ返すわね」

「待ってください、急にどうしたんですか?」

「あれはあたしの花護がよくやる合図なの。ここに狼は入れないでしょう? 夜更かしをするとああやって“早く寝ろ”って外から圧力をかけてくるのよ。あなたのところにいるのがバレているんだわ。こっそり抜け出してきたのに目敏いったら……」


 声が聞こえたように三度目の小石が当たり、ビクッと竦んだエリカさんが手蜀をひっつかんだ。いつの間にか蝋燭は短くなっていた。


「すっかり長居してしまったわね、ごめんなさい。今夜あなたと話ができてよかったわ」

「そんな、わたしの方こそ尋ねてきてくださってありがとうございました。また色々とお尋ねするかもしれませんが、よろしくお願いします」

「かしこまらなくていいわ。あたしも高位の苦労をわかってくれる同士が現れてくれて嬉しいの。仲良くしましょうね、リン」

「……はいっ!」


 名前を呼んでもらえた。

 また明日、と微笑んだエリカさんが慌しく扉の向こうに消えた。

 怒らせたら怖い花護なのだろうか? わたしも会うときがあったら気をつけよう。

 再び闇に満たされた部屋で深呼吸する。目が慣れないのでまだ歩きだせない。

 そこに居るだけで場が華やぐ、エリカさんはまさに花だ。誰もいなくなった部屋で静寂は寒さをともなって身に沁みた。楽しかったぶんだけ、人恋しくなる。

 ぼんやり戻った視界。

 ごそごそとベッドにもぐりこみ、上掛けを頭まで被った。

 夜の闇には慣れても、眼裏の闇には慣れない。目を閉じれば浮かぶのはいくつもの顔で、ああ、もう夢の中でしか逢えないのだと思ったら瞳が熱くなった。

 洟をすすっていると次第に布団が温まったせいか、知らない間に眠っていた。

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