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お湯やタオルを片づけたシラーさんが次に持って来てくれたのは、教科書だという数冊の本だった。まず見ることで文字に親しみ、後日簡単な書き取りに移ると言われた。書き取りをして勉強するなんて何年ぶりだろう。
「教会は花を保護し、様々な知識と生きる術を教えます。仔狼が学校に通うように、花は教会で読み書きといった一般教養や家事の能力を身につけます。今から教えることはハールベリスの花として知っていて当然のことですから、他の花や狼に会う前にある程度は学んでおきましょう」
「教養と家事、ですか……?」
「教会はただ花を養うわけではありません。自立を促します。身は教会に属していても、十八歳をすぎれば二十歳までに教会の外に生活の場を移さなくてはなりません」
一生教会の中で生活するわけじゃないんだ。
ハールベリスではほとんどの花が教会に属しているとして、運営の費用はどこから出ているのだろう。収入もなく養えるはずがない。職業訓練校みたいなものならシラーさんの言う十八で卒業、留年も二年までは大丈夫というのもわかるけれど、わたしは授業料を収めていないし……出世払いとか?
「ここで手に職をつけるんですか?」
「教会で得るように努力すべきものは自分の《花狼》です。神聖騎士に守られた教会を出たら、誰のものでもない花の末路は決まっています。奪い合う狼たちによって蹂躙されるでしょう。教会からの自立は庇護する相手を見つけるということと同義です。そしてどんな狼の元へ行っても困らぬよう、最低限のことは自分で行えるようにします。手に職という考え方も間違いではありませんよ。万が一わたくしのように無花片となっても、薬草学に通じていれば教師として生きる道も選べますから」
教会はお祈りをしたり奉仕活動をするのかと思っていたら、花嫁修業をする全寮制の学校のようだった。花狼を得ることが卒業課題だとしたら、いつでも出ていける。だけど今教会を出てもひとりで生きていけないことは明白だ。
十八まで猶予があるなら願ってもない、二年でハールベリスの一般常識とか家事を習得して独り立ちできるようになろう。それまでロベルトさんには迷惑をかけてしまうけれど、教会を出たあとは花として匂いのないわたしなら面倒は起こらないんじゃないだろうか。
「わたしはロベルトさんが花狼になってくれたから、もういいんですか?」
ひゃっ、シラーさん、目が怖いです……! 体感温度の急降下に首をすくめた。
「あの男を数に入れる必要はありません。花の一生は狼で決まります。ですから花はより強い狼を、豊かな財力を持つ狼を花狼に望むものです。一度成った誓約は代償なしに破棄することはできませんが、あなたは八花片です。神聖騎士とも言えぬ者より、他に花狼を得るといいでしょう」
「……は、はい」
果たしてそんな奇特な人がロベルトさん以外に居るか疑問ではあるものの、反論を許さない語調に神妙に頷くと、シラーさんの纏う空気が和らいだ。すごく嫌っているのがひしひしと伝わってきて居たたまれない。
二人とも恩人で、できれば良好な関係であってほしいけれど、そうもいかないようだ……。
シラーさんは気を取り直したように大きな文字と挿絵の本を開いた。
載っているのはデフォルメされた獣に八つの花紋。装丁からして幼年用の教科書だと思う。
「まず、わたくしたち《花》について学びましょう。花と狼は一見して違いがあります。どこかわかりますか?」
「……匂いは見ためじゃないですし、花紋ですか?」
「花紋は無花片になれば消えます。外見上の特徴としては、耳の形が違うことで見分けられます。もし悪意ある狼が性別を偽って近づいてきても、花は狼と違い香りで判別できません。そういった場合は相手の耳を見るといいでしょう。拒むようなら狼です」
狼と七匹の子ヤギだ。本当の花なら丸い耳をしているはず、という確認方法らしい。
確かにロベルトさんやマルクス君は耳が尖っていた。
それにしても、変装?という手を使ってまで女性に近づくのがこの国の男性なんだろうか。例え話にしても突飛に感じるのは日本の感覚が抜けないからかな。
「花は生まれた時から花紋があり、成長の過程で色が変化します。《蕾》の時には浅緋、初潮がくれば成の深紅に変わり、そして閉経とともに色は沈み、深緋の《衰花》となります。香りもそれに合わせて高まったり薄れたりするのです」
薄いピンク、鮮やかな赤、暗い赤の花紋へとシラーさんの指がページを滑った。合間にも話に合わせて花や狼と思われる文字を指差してくれる。繰り返されるうちに見覚えが出てきて、文章の中から単語を拾い出すことができるようになってきた。
「わたくしたち人も動物です。動物の本能とはなんだと思いますか?」
事故に遭った瞬間は何も考えられなかった。灰色の空間で魂が消えかけた時、生きていたいと強く思った。あれが生存本能なんだろう。
「……生きること、でしょうか」
「生きて自分の子孫を残すこと、です。《花》が初潮を迎えれば匂い立つのはどうしてか? それは狼を招くためです。花紋の色はなぜ変わるのか? 一目で相手に知らしめているのですよ、子を産む準備ができているということを。だから閉経すれば香りは薄れ、花紋は再び色を深緋へと変えます。花片の数は生まれ持つ素質の高さを示します。強い狼ほど優れた子孫を残そうとして、より香りの強い多花片の花に惹かれるのです」
知らず知らずのうちに胸に手が伸びた。
花紋の色が変化するのは妊娠可能なことを知らせるためで、花片の数は質の高さ?
……恥ずかしい。どうして自分が八花片なのかわからない。
匂いもしない、綺麗でもない。わたしが花としてアピールできるものはなにもないのに、花紋は鮮やかなものだ。隠したくてぎゅっと服を握る。
彼らの驚きは落胆だったのかと思い返すと胸が痛い。
「匂いがしない花もいるんですか……?」
「無花片を除いて香りのない花はいません。わずかではあっても蕾は青く、衰花は枯れた香りがするそうです」
ますます望みがない。うつむいたわたしの肩にシラーさんの手が置かれた。なかなか顔が上げられなくて、しばらくして肩の温もりに励まされ、シラーさんを見上げた。
労わるような水色の瞳。わたしが香りを持たない花だと知っているんだ。
「あなたは緋紋に変わってどのくらい経つのですか?」
「……二年ほど、です」
「十六だと言いましたね。この世界では花が初潮を迎えるのは十五を過ぎたあたりからです。緋紋に変わっても一年は香りが安定しないものです。早熟すぎる花は何かと不安定なものですよ。蕾は花狼の誓約を交わすことはできませんが、あなたはできたのでしょう? 緋紋としての力を持っている証です」
自分でどうにもならないことで期待をかけられ、失望されるのが怖かった。努力で補えないから頑張りようもない。喋るとなにかが溢れだしそうで、黙って頷いた……。
シラーさんはわたしが落ち着くまで待っていてくれた。
「あなたも香るようになれば狼が群がります。《恋花》ならなおのこと、これからは安易に誓約を交わしてはなりませんよ」
「ロートは他の花統と何が違うんですか?」
「数が違います。花統は花の系統であり、狼の系統でもあります。圧倒的に数が多いのは甘き香りの《恋花》、数多の狼が恋(請)う花です。次に多いのが《寧花》、爽やかで落ち着いた香りは安寧と癒しをもたらしますが、それゆえか寧花に憩う狼は気性が荒い。最も少ないのが《希花》、癖のある香りを求める狼は変わり者が多いようですね」
恋花はたくさんいて、寧花は癒し系で、希花は変人ホイホイ、ということかな?
「狼の数も系統によって違いがあるんですか?」
「花の数に応じて恋花は多く希花は少ない。ですが狼の系統は、宿された季節によります」
「宿された季節?」
「子を授かった季節ということです。花は母親の系統を引き継ぎます。花紋は引き継ぎませんから、花片の数は変わりますが。狼は春に宿れば恋狼、夏に宿れば寧狼、秋に宿れば希狼になります。冬に授かる命はなく、冬に生まれる命もありません。一年身籠った子を翌年の同じ季節に産むのです」
………………本当に、異世界だ。
え、え、うんと……、花はお母さんの系統を受け継ぐんだよね? 花紋は受け継がないから、仮にわたしが女の子を産んだとしたら、その子は恋花だけど八花片じゃないかも知れないってことで。
狼は春、夏、秋と妊娠した季節で系統が決まって、系統が三つしかないのは花も狼も冬生まれの子供はいないから?
妊娠が丸一年はいいとして、冬に授かる命がないっておかしい気がする。
だ、だってほら、男女の営みってそういうものなのかな? 経験がないからわからないけど……!!
「ほとんどが春に生まれて、冬には子供ができないんですか? その……で、できるようなことをしないとかっ?」
珍しく、シラーさんの口元が上がった。
一瞬震えた肩は吹き出すのをこらえたんじゃないですよね? ね?
顔が熱くなってきて、汗をかく掌をズボンに擦りつけた。変な質問をしてしまった、と後悔しても一度出てしまった言葉は撤回できない。
「冬は花の絶えた季節ですから、授かる命はないのです。ほとんどの植物は寒い冬が過ぎ、雪解けの春に命が芽吹く。幼い体で厳しい冬に耐えることがないよう、獣でも春に生まれる子供が一番多く、草木が枯れる秋に生まれる子供は少ない。――子ができるようなことをしないのかと聞きましたが、あなたの世界ではどうなのですか?」
ひどいブーメランだ。ビシリと固まったわたしは無意味に指を組み合わせたりほどいたりしながら、どう答えようか頭を悩ませていた。シラーさんの眼に浮かぶのが純粋な興味だから困る。からかわれているわけじゃないらしい。
「…………ええとですね、その……ね、年中です。時期さえ合えばいつでも妊娠しますし、妊娠期間は十か月で、冬に生まれる子供もいます」
「こちらより短いのですね……。人の成り立ちからして違う世界のあなたが、特に気をつけなければならないことを伝えておきます」
大事なことだと引き締まった空気で理解し、自然に背筋が伸びる。
「《花》の身は、蕾の時には香りも味も青い。どんな《狼》も蕾には反応しません。しかし緋紋に変われば豹変します。身が熟し、香り立つ血は系統の狼の性衝動を掻き立てます。香りだけではなく、血液、唾液、汗といった花の体液は、狼にとって比類なき甘露となるのです」
「せい、衝動です、か……?」
「欲情する、と言った方がわかりますか? 本能に支配された狼は香りに溺れ、蜜を啜り、身を貪ろうと近づいてくるでしょう。恋花は系統の狼が最も多い。それだけに危険も増すのですよ」
なななっ、なんだかすごいことを言われてる気がするっ……!!
よ、欲情って、誰が誰に対してでしょうかっ!?
それはない、多分ない、きっと絶対ない! だって誓約の時も彼の態度は変わらなかったし、わたしは匂いがしないんだものっ!
傷が治り疼くはずのない左手を握り締め、わたしは再び思い出してしまった感触を忘れようと頭を振った。




