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花と狼  作者: riki
第二章 花護の騎士
25/43

23

 翌朝はたっぷり睡眠をとったあとの心地よい目覚めだった。

 側についていてくれたらしいシラーさんに「気分は?」と尋ねられた。大丈夫です、と答えると額に手を当てられる。お医者さんがするように口の中と下瞼を覗かれ、喉を触られた。


「熱もないようですね。身体はつらくないですか」

「はい。おかげさまでもうすっかり良くなりました」


 いたって健康であるというわたしの主張を後押ししたのは空腹を訴えるお腹だった。「朝食を用意しましょう」と出ていくシラーさんを見送り、顔を覆った。……昨日に続いて今日だ、意地汚い子だと思われてるに違いない。

 肌に固い感触がして手を離した。新しい指輪の石は、ロベルトさんの言う通り赤色をしていた。深みのある赤にひび割れのような線が走っている。光の加減か、線は金や緑に見えて綺麗だった。


 運ばれてきた朝食はスープの中にパンが入っていた。ふやけたパンは少し苦手だけれど、空腹は最高の調味料とはよく言ったもので一滴残さず器を空けてしまった。

 食後の薬湯はミルク色をしていて苦かった。あ、甘味がない……。一気に飲み干し水で後口をごまかす。

 食事がとれるようになったから種類が変わり、これは滋養強壮の薬湯らしい。今日だけであとは飲む必要はないと、涙目で水を飲み続けるわたしに呆れたようにシラーさんが説明してくれた。


「本日は午後から首座主教がお見えになりますから、服を替えましょうか」

「えっと……首座主教さんは、わたしに会いに来られるんですか?」

「こちらから伺います。新しく登録した《花》は、所属する教会の主教に登録書を提出します。登録書と指輪、二つがそろって初めて正式に教会の花だと認められるのです。普通ならば初日に行うのですが、あなたは熱がありましたから」


 シラーさんは一度食器を下げに行き、次はお湯とタオルと着替えを運んできてくれた。

 木製の桶になみなみと入ったお湯は白い湯気がたっている。わたしの前に腕まくりをしたシラーさんが立った。


「湯浴みはまだできませんが、身体を拭きましょうか。少しは違いますよ」

「ああああのっ、自分でできます! 大丈夫です!」

「病みあがりに何を遠慮しているんです?」

「遠慮というか、手伝ってもらうのは申し訳ないと思ってますけどっ……そうじゃなくってですね、わたしの国では子供なら別ですけど、十六にもなって着替えを手伝ってもらうのは恥ずかしいことなので!」


 一人で着替えができないわけでもないのに、シラーさんの手を借りるのは申し訳ないし、恥ずかしい。ぱたぱた両手を振って辞退すると、水色の瞳が丸く瞠られた。驚いたように視線は顔を注視し、上半身、下半身へと移る。

 あの、どこかおかしいですか? 変な寝ぐせとかついてるのかな……。


「いくつですって?」

「歳ですか? 十六です」

「そう……そう、ですね。緋紋だからおかしくはないのでしょうが……」


 言い淀むシラーさんに恐る恐るいくつに見えていたのかと尋ねると、「十二歳ぐらいかと思っていました」と返された。

 しょ、小学生っ……! 若く見られてもさすがに嬉しくないです。

 衝立の陰でシャツを脱ぐ。タンクトップに似た肌着がブラのかわりらしい。紐でウエストを調節するズボンを脱ぐと衝撃の下着を穿いていた。紐パン、だ……。ハールベリスでは紐とボタンで衣服を体型に合わせるようだ。ゴムが使われていないのかもしれない。

 お湯にくぐらせ絞ったタオルで身体を拭くと、さっぱりして人心地ついた。


「わたしの着ていた服はどうなるんでしょうか?」

「あなたの衣服はわたくしも初めて見るものでした。材質も構造も人目を引きます」


 部屋に見当たらなかったのは片づけられたからだと思っていた。

 化繊の服やファスナーのついたジーンズは異質だろう。わがままを言える立場じゃない。寂しいけれど、捨てた方がいいのかな。


「処分した方が安全ですが、残しておきましょう」

「……いいんですか?」

「後々役立つことも考えられます。言葉だけでは信じ難いことも、証拠を目前に並べれば受け入れる者もいるでしょう。わたくしが預かっておきます」


 シラーさんが信じてくれた裏には服が一役買っていたのかもしれない。今は異世界からきたことを隠しているけれど、事情が変わって信じてもらわなければならなくなったとき、あの服が証拠になる。シラーさんにお礼を言いながら、わたしは喜びを隠せずにいた。

 二度と帰れない世界を懐かしむのは後ろ向きだとしても、偲ぶよすががあると思うと嬉しい。

 用意されていた長袖の上衣の上に帯を結び何とか着替えを終えると、シラーさんが髪を洗うと言ってくれた。さらにお湯が運び込まれ、ここは汚さない自信がないので甘えることにする。

 ベッドに仰向けに寝転び端から頭を出す。首の後ろに丸めたタオルが当てられたのであまり苦しくない。濡らした髪にシャンプーに当たる何かの粉がまぶされ指の腹で頭皮をマッサージされると、気持ちよくて瞼が重くなってきた。シラーさんがぽつりと言った。


「――異国の顔立ちが年齢を推し量り難くさせているのでしょうね。ラウハイの者も歳より若く見えますから」

「ラウハイってなんですか?」


 聞いたことのない名前だ。とにかく今は何でも尋ねてテュリダーセや国のことを知っておきたい。

 無知を晒す場合は弁えないといけないけれど、ありがたいことにシラーさんはわたしの世話役というか、先生になってくれる人だ。


「国についての話を聞いていますか?」

「大陸に三つの国があるということは聞きました。ハールベリスは、ハールスと言う国の第二国だと」

「世界にはおよそ東西南北に分かれて、四つの国があります。北領と呼ばれる大陸の最北にハールス王国。西の山岳地帯に暮らすルルカ共和国。巨大な湖を含み大陸の南部一帯をトリスタンといいますが、トリスタンは《氏族ハイマ》と呼ばれる多数の群れの集まりで、国というよりも南の領域としての呼び名ですね」

「一つの国としての形はないということですか?」

「各氏族は共通の盟約を結び行動しているようですが、詳しいことは分かりません。この三国はレーゲンベルク大陸内にあります。東のラウハイ皇国は島国で、現在国交を持っているのは高い航海技術と造船技術を持つハールスだけです」


 木を隠すには森の中。髪色が主な理由としても、トリスタンは氏族がたくさんあるから誤魔化しやすいと思って、ロベルトさんはわたしをトリスタンから来たということにしたんだ。敵対国家ならわたしがどこの氏族出身か調べようとしても困難が予想される。


「国によって髪の色とか顔立ちは大きく違うんですか? わたしみたいな見た目の国ってありますか?」

「特徴とされる色彩、体格、言葉も国によって変わってきます。あなたは髪色でいえばトリスタンですが肌の色が薄い。歳よりも幼く見えるのはラウハイですが、顔立ちが違います」

「ルルカという国はどうですか?」

「ルルカは一番ハールスに近いのです。あなたに似た容姿の者をわたしは知りません」


 日本人的なのっぺりした顔はわたしだけなんだ。ロベルトさんもシラーさんも、クリストフェル殿下のように面と向かって口に出したりしないけど、おかしな顔に見えてるんだろうな……。

 何度も髪をすすがれ、終わるとわたしは起き上がってごしごしと髪を拭いた。


「とてもすっきりしました。ありがとうございます、シラーさん」

「礼は必要ありません。髪が拭けたらこちらの椅子に座って」


 素っ気ない言葉だけどシラーさんの手つきは丁寧で優しい。鏡台の前の椅子に座ると髪にオイルをなじませて梳いてくれた。鏡代わりの金属板には手際良く髪をまとめるシラーさんが映っている。


「この世界では大抵の花が髪を伸ばします。あなたの世界では短くするのですか?」

「わたしの世界は女性の髪型に決まりはなくて、伸ばすのも短く切るのも個人の自由でした。わたしも髪を伸ばした方がいいでしょうか?」

「そうですね。ほんの蕾ならば気にしなくてもいいでしょうが、あなたは緋紋です。公式の場に出る時は髪が結える方がいいですから」


 結いにくいボブの髪が申し訳なくなった。シラーさんはヘアピンを多用しながらサイドの髪を器用に編み、それぞれの耳の上でまとめて、リボンのついた髪留めで飾ってくれた。リボンはふんわりボリュームがあって髪の短さが目立たなくなった。

 すごい、と鏡に近寄ってまじまじ出来上がりを眺めていると、鏡台に紙が広げられた。ペンとインク壺も置かれる。


「これが《花》の登録書です。目を通したあと下に名前を書き、主教に渡します」

「よっ読めません……」


 大きい字と細かな字で何か書いてあるのは見える。ハールベリスの文字は英語の筆記体よりもっと装飾的で、一文字も読めなかった。

 なまじ話し言葉が理解できるのでがっくりと肩が落ちる。ぺらぺらハールベリス語を喋っていたわたしが字を読めないことにシラーさんも驚いているようだった。


「読めないのですか?」

「……はい、わたしの知っている文字とまるで違ってて、文面の推測もできません……」


 話し言葉をすべてフォローより、適度に読み書きもできるようにしてくれたらもっと嬉しかったのに、と神様に愚痴るのは贅沢すぎるだろうか。

 シラーさんが説明してくれた登録書の内容は、教会に属する間は保護を受けられること、教会内の規則を守ることといった、簡単な規約だった。

 わたしはサインしようとして手を止めた。試しにと別の紙をもらい“鈴木鈴”と書いた。


「これがわたしの名前なんですが、やっぱり読めませんよね?」

「……珍しい文字ですね。ですが、ハールスの文字ではありませんから、登録書に書く際はこちらの文字に直しましょう」


 そう言ってさらさらとシラーさんが書いてくれた字を、見よう見まねで登録書に書き写す。

 鈴ってこんな字を書くんだ。

 装飾的な文字は流れるような曲線が複雑に絡み、再現が難しい。

 使い慣れない浸けペンでインク染みをあちこち作り、ギザギザの線で書き上げたサインは我ながら不格好だった。悪筆というより拙い。

 書き直すべきだろうかと悩んでいると「……読めますよ」とシラーさんに慰められた。かろうじて、という飲みこまれた言葉があるような気がしたのは思いすごしだろう。会話は通じるのに……。

 「ありがとうございます」と答え、ふと鏡に映った自分に違和感を抱く。

 鏡を覗き込んだまま、「シラーさん、わたしずっとハールベリスの言葉を喋っていましたか?」と尋ねたら、そうだと言われ納得した。

 鏡に映るわたしの口は日本語の発声の動きをしていなかった。頭に思い浮かべた言葉は日本語だけど、実際に話す時にはハールベリスの言葉になって出てくるらしい。

 りん、と自分の名前を二音で言ったつもりが、鏡の中のわたしは複雑に四文字ぐらいで発音していた。でも、耳に聞こえるのは「りん」だ。

 逆なんだ。

 テュリダーセの人たちが話す言葉は吹き替え映画のようで、話している口の動きと耳に聞こえる音声が違う。日本語に翻訳されて意味が伝わっていた。反対にこちらが喋るときはハールベリスの言葉に自動変換される。だから異世界人の彼らと会話が成立するんだ。

 自分の耳にはどの言葉も日本語として聞こえるから、鏡を見るまで気づかなかった。

 想像するのと全然違った口の動きをするのがおもしろくて、「あいうえお、かきくけこ」と延々発声していたら、シラーさんに奇妙な目で見られた。

 …………変な子ですみません…………。

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