22.5
音を立てぬよう扉が開いた。
現れた痩身の花は二対の視線を集めていることに気づいたようだ。凍った表情の中で水色の瞳だけが憎々しげに燃えている。
「八花片は横になったわ。じきに眠るでしょう」
「そうですか」
応じたのは太る月の明かりを避け、もたれ掛かっていた壁からゆらりと離れた影。黒いマントが闇を纏ったように彼から光を削いでいた。
南方独特の陽が舐めた肌、焦げた髪色。王都屈指の規模を誇るグラナート聖堂教会において、内務の騎士にトリスタンの色を見出すことはなく、その容姿と長身は闇と相まってもなお異質だった。
藍の左眼が彼を睨みつけている無花片へと向けられた。夜を前に無精髭を剃り本来の精悍さを取り戻した顔に、ほぼ飲まず食わずで控えていた疲労は窺えない。
「リン様の体調はいつ回復するのでしょうか? あなたの見立てを教えて下さい」
「微熱は後数日続くでしょうが、ほぼ治っているわ。……元凶が問うのも滑稽ね」
「私は《花狼》です。主花の身を案じることが不思議ですか?」
「花狼ですって? 偽りで掠め取った座を驕るつもりなのっ!」
張り詰めた空気を断ち切ったのは、三人目の存在だった。
「騒ぐな、人が来る。……行こう」
やはり黒づくめの服装をした狼は、フード越しに立ち尽くす二人を一瞥して歩きだした。
廊下の角へと消える狼たちを見送る花の瞳は最後まで険しいままだった。
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影から影を選び、二人は花たちの館を遠く眺める位置へとやってきた。
教会の敷地を囲う塀まであと少し。ここまでくると夜警騎士の気配もまばらになるが、月を見て道を選ぶ様子はあらかじめ巡回の時間と道を知っているようだ。毎日組み替えられる警邏の極秘情報をどうやって得たというのだろう。
少し肌寒い春の宵。しんと冷たい静寂を低い声が破った。
「――聞こえていた。あれはお前のことをすっかり信じ込んでいるな」
「何のことです? 騙しているように言われるのは心外ですね」
「胡散臭い。八花片も物好きだ。俺が花ならお前を花狼に選ぶことはないな」
「戯言を。あなたが花なら寄りつく虫もいないでしょうに」
皮肉と知って、男は左眼を切り裂く傷跡に手をやり肩をすくめた。
「そうか? どんな花でも重宝される、香りがあればな。……いや、物好きなのはお前の方か。香りのない花を《主花》に選ぶとは」
「……あなたに何がわかる」
すっと眼を細めたロベルトをかわすように男は先に立った。
「ただお前より鼻が利かないというだけのことだ」
花ならば尋ねるまでもないが、狼同士で相手の花統を嗅ぎわけることはできない。強い狼ほど鼻が利き、自身の系統の花を嗅ぎわけるものだが――。
悠々と歩む背は、追って刺さる視線の棘など歯牙にもかけていないようだった。
「物好き、ね……」
掻き上げられた髪の下、藍と金の瞳が館を映す。
「――おやすみ、私の《八花片》」
抑えた囁きは乗せた吐息ごと夜に散った。
月は白々と輝き足元に影を作ったが、侵入者たちは誰にも見咎められることなく敷地を抜けた。




