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花と狼  作者: riki
第二章 花護の騎士
19/43

18

 寒い。

 じっとりと汗ばんだ身体がガタガタと震えている。

 肺が薄く小さくなってしまったようで、うまく息が吸えない。


「お飲みなさい」


 横を向かされて唇に押し当てられた硬い感触。目も開けないまま“いらない”と首を振れば、それは強引に唇を割った。口の中にとろりとした液体が流れ込んでくる。

 甘苦い液体が渇いた身体に滲み透るようで、繰り返し与えられるそれを夢中で嚥下した。

 ぼんやりと開いた目に映ったのは、濡れた唇を拭ってくれる白い手。

 ああ。

 わたしはほっとして微笑んだ。


「……りがと、う……おか、さん……」


 一瞬躊躇うように止まり、また動き出した手に輝いた指輪は金色だった。

 あれ、お母さんの結婚指輪、銀色だったのに……。

 そんなことを考えながら目を瞑ると、意識がすうっと薄れていった。




++++++++++




 額に何かが乗せられているのを意識し、目が覚めた。

 目を開けると、灰色の天井が見えた。

 ここはどこ……?

 石造りの天井は高く、自分の部屋とは似ても似つかない。

 周囲をよく見ようと首をめぐらせたら、額に乗っていたものがずれて落ちた。腕を動かすことさえ億劫に感じながら拾い上げると、落ちたのは硬く絞った布だった。体温で少し温くなっている。熱でも出していたんだろうか。


「目が覚めましたか?」


 凛と響いた声に驚きながら目をやると、水差しを手にした女性がいた。

 茜色をおびた金髪を結い上げた綺麗な人だ。年の頃は三十代ぐらいだろうか。淡い水色の瞳がわたしを見つめている。


「……あ、っ……」


 この状況を尋ねようとしたらむせてしまった。空咳がとまらなくなる。

 口の中が渇いていて思うように声が出せない。何日も喋っていなかったみたいだった。


「お飲みなさい」


 見かねた様子で女性が水を注いだコップをあてがってくれた。ゴクゴクと半分ほど飲むと、ようやく人心地ついた。

 ふと目に入った女性の嵌めている指輪と台詞がおぼろげな記憶を刺激するけれど、寝起きの頭はぼんやりしていて思い出せなかった。


「熱は下がったようですね」


 わたしの額に手を当てて頷くと、女性は水差しとコップを片づけて立ち上がる。すらりとした人だった。裾の長い上着を腰帯で結び、下は動きやすそうなズボン。生成りの上着は地味なベージュだけど襟刳りや袖には複雑な刺繍がある。簡素な服装だからかえってスタイルの良さが引き立つ。

 テュリダーセに来て、クリストフェル殿下を始め軍服の男性がほとんどだったから新鮮だ……と思っている間に、女性は踵を返して立ち去ろうとしていた。

 まだお礼も言っていない。自分の間抜けっぷりにあせって声をかけた。


「待ってください! お水と、看病もしていただいていたようで、本当にありがとうございました。ええと……」

「……わたくしの名はシラー。あなたの面倒を見るようにと、首座主教から命じられた者です」

「わたしは鈴って言います。あの、ご迷惑をおかけしたみたいですみませんでした。ありがとうございました」

「わたくしは命に従ったまでです。礼の言葉は必要ありません」


 自分の意思でしたわけではない、と突き放したシラーさんの態度に怯みながらも、わたしは反論せずにはいられなかった。


「でも、わたしを看病してくれたのはシラーさんです。だからシラーさんにお礼を言うのが当たり前だと思います。しゅざさん? っていう人は知らない人ですし……」


 シラーさんはこちらを見つめ、全く表情を変えないままで言った。


「――記憶がないというのは本当のようですね。これほどこの国の言葉を操ることができるのならば、首座主教を知らないはずはないでしょうから」

「記憶が、ない……?」

「ロベルトからそのように聞いています。彼にはあなたが眼を覚ましたことを伝えておきましょう」


 それだけ言うと、シラーさんは振り向くことなく行ってしまった。

 部屋に取り残されたわたしは茫然と見送って、いつの間にか貼られていた記憶喪失のレッテルに首を傾げるしかなかった。

 記憶はある。でも、ここはどこなんだろう。馬車に乗って教会に向かう途中で疲れて眠ってしまって……それ以降記憶がない? ……いやいやいや、これは単に眠ったからであって記憶喪失じゃない。ロベルトさんのことも覚えているし、うん。

 シラーさんはロベルトさんに伝えると言っていたから、彼が来てくれるのを待っていよう。


 それにしてもシラーさんて綺麗な人だったなぁ……。テュリダーセは、男の人も女の人も美形率が高い気がする。

 わたしは遅まきながら彼女が初めて出逢った女の人だということに気づき、がっくり肩を落とした。

 花の匂いがどういうものか、嗅がせてくださいって頼めばよかった。自分でも不躾だと思うけど、すごく気になる。

 どんな匂いなんだろう? シラーさんは綺麗だから、きっといい匂いがするんだろうな。


 寝転がって待っているのも変な気がして、ベッドから上体を起こした。

 いったい何時間寝ていたんだろう、身動きすると関節が錆ついたようにギシギシと痛む。

 上掛けをめくり、固まった。

 ……き、着ていた服が替わってるんですけど……。

 半袖のシャツはシラーさんが着ていたものと同じで、胸元に小花の刺繍がされている。腰帯はなかった。穿いていたジーンズも誰かが着替えさせてくれたようだ。

 室内を見回せばわたしの服はすぐ見つかった。脇のタンスの上に畳んで置いてある。ベッドの横には室内履きがそろえてあった。

 ちょっとだけ貸してもらおう……。わたしは壁伝いによろよろと歩き、服を手にとって確認する。

 洗濯してもらったようだ。ぴしっと畳まれた服とハンカチ三枚。ロベルトさんから借りた二枚と、カルステンさんから借りた一枚。首の傷はもう触れても痛まなかった。

 またベッドまで戻って腰を下ろした。日本のベッドのようにスプリングはきいていない。


「……ここが教会なのかなぁ?」


 広いけれどあまり家具の類はない部屋で、ベッドとタンス、椅子が一脚。あとは鏡台のような物。上に装飾で縁取られた銀色の金属板が置かれている。あれが鏡がわりなんだろうか。磨かれた表面は輝いていて顔が映りそうだけど。

 部屋には二つ扉があった。

 ひとつは内側から格子に木が打ち付けて補強してある頑丈な扉で、鍵がついている。

 もうひとつは普通の扉で、鍵のかわりに紐を掛けるようになっていた。シラーさんは頑丈な方の扉から出ていった。

 待っているだけというのも落ち着かなくて、わたしも追いかけようかと思ったとき、見つめる先の扉がノックの音を響かせた。


「《八花片サフィ》、入ってもいいですか?」


 扉越しに聞こえる声は高くて、子供のようだ。ロベルトさんでもシラーさんでもない。

 ……だ、誰だろう。どうしよう、入ってもらってもいいのかな?

 助けを求めて辺りを見回したけれど、もちろん部屋には誰もいない。

 再びノックが繰り返された。


「八花片、おきてますか? シラー先生からお目ざめだと聞いてきました」


 シラーさんから? だったら怪しい人じゃないよね?

 わたしは思いきって了承の返事を返した。


「どうぞ……鍵は開いています」

「――しつれいします」


 入ってきたのは、六、七歳ぐらいの子供だった。癖のない蜂蜜色の金髪は艶々と光って天使の輪ができている。緊張した面持ちでパチパチと瞬く長い睫。素直そうな大きな瞳は澄んだ空色をしている。健康的なリンゴ色の頬は小さい子特有の円みがあって、つつきたくなるような頬だった。服は黒い半袖と膝丈のズボンで、足元は裸足だ。

 子供は傍までやってくると、片膝をついて拝跪した。


「はじめてお目にかかります、八花片。ぼくはこのたびお部屋付きになりました、マルクスといいます。せいいっぱいお世話させていただきますので、よろしくお願いします!」


 たどたどしさが抜けない口調で一息に言うと、子供は顔を上げてほっとしたように笑った。笑うと片頬にだけえくぼができる。

 こ、この子すごく可愛い……! なんだか、頑張ったねって頭を撫でてあげたくなる。

 顎で切り揃えた髪の間から尖った耳が覗いていた。女の子と見間違うような顔立ちだけど、ぼくって言っていたし、どうやら男の子らしい。


「マルクス君っていうんだ。わたしはすず……」


 名前を言いかけて、日本の姓は名乗らないように言われていたことを思い出した。

 あ、シラーさんにはきちんと名乗っていなかったけど、次に逢ったときでいいかな。

 ハールベリスの花の名乗りは長い。たしか……。


「わたしは、花の位八花片、ロートの鈴・ハールスラントです。部屋付きっていうのはよくわからないけど、こちらこそよろしくお願いします。それと、わたしは偉い人じゃないから普通に喋ってくれたらいいんだよ。ほら立って、ね?」


 この国のことはわからないけど、明らかに小学生ぐらいの子供に世話をさせるってどうなってるんだろう。

 マルクス君は困った顔をして動こうとしない。


「……そんなわけにはいかないです。リンさまは恋花の八花片、ハールベリスの宝です」

「わたしが宝って、それは大げさすぎるよマルクス君」


 いくらなんでも、と否定すると、おずおずと尋ねられた。


「ほんとうに、普通にしゃべっていいの?」

「もちろんいいよ。どうして?」

「……ぼく、丁寧にしゃべりなさいって《下神官ライエ》さまに怒られるけど、上手にしゃべれなくて……」

「わたしは普通に話してくれた方が嬉しいな。――鈴様っていうのもやめて、お姉ちゃんとか呼んでくれるともっと嬉しいけど」


 わたしは一人っ子だから「お姉ちゃん」と呼ばれることにひそかに憧れがあったのに、マルクス君はとんでもないというように叫んだ。


「そんなふうに呼ぶ《仔狼クライン》なんてだれもいないよ! リンさまは八花片だもん。おねえちゃんなんていったら下神官さまに怒られて、ぼく、リンさまのお部屋付きからはずされちゃうよ!」

「ええ? ライエ様ってどんな人? それぐらいでマルクス君を怒るっておかしいよ、わたしへの呼び方なんてなんでもいいのに」


 空色の瞳がじーっとわたしを見つめ、まっすぐな視線に居心地の悪さを感じたころ、マルクス君はくしゃっと顔を歪めた。

 え、え、なんで急に悲しそうな表情をするの?


「マルクス君……?」

「リンさま、怖い目にあって今までのことみんな忘れちゃったって、ほんとうだったんだ……。でも、ここにいたらぜったい安心だよっ、《神聖騎士シュテルン・ゼーレ》さまが守ってくれるから!」


 力強く言い切った少年からは、神聖騎士に対する全幅の信頼が窺えた。きらきら輝く瞳には憧れの光が宿っているようだった。


 ……また、記憶喪失扱いだ。

 わたしが言ったわけじゃない。となると考えられることはひとつ、ロベルトさんがそう周囲に言っているということだ。

 彼の意図はなんだろう。わたしが記憶喪失だと都合がいい理由。

 カルステンさんの一件もあり、わたしは彼の考えを読むことに必死になった。もう二度と迂闊な言動で迷惑をかけたくない。

 記憶喪失……記憶がない。

 それって、何かを知らないふりをする必要があるってこと?


 ……わかった! “知らない”、だ。

 わたしはこの世界も国も生活習慣も、ふりじゃなくて、本当に何も知らない。だからロベルトさんが怪しまれないように理由を考えてくれたんだ。

 この年で自分の国のことを知らなかったらおかしい。なまじ言葉が話せるだけに奇異に映ることは予想できた。もし街で出会った日本語ペラペラの外人さんが、「ここは日本ですか? 私はいま日本語を喋ってるんですか?」とか尋ねてきたら、わたしだって変だと思う。

 一人で納得していると、マルクス君が考え込んでいたわたしを気遣うように見ていた。


「ぼく、怖いこと思いださせちゃった……?」

「そんなことないよ、大丈夫! きれいさっぱり記憶がなくて、怖いことも忘れちゃってるからよかったなって思ってたの」

「そうだよっ、思いだすことなんてないよリンさま! ずーっとずーっと忘れたままにしてよう?」

「うん。マルクス君の言う通りだね。忘れたままでいるよ」


 にこっと笑うマルクス君に笑い返し、わたしは後でロベルトさんと打ち合わせしないと、と考えていた。記憶喪失になるほどの怖い目って、自分じゃ思いつかない。


「――ぼく、なにか食べるものもらってくる! リンさま三日も眠ってたから、おなかすいてるでしょ?」

「そうだね、お腹は空いてるけど……」


 勢いよく立ちあがったマルクス君に返事をしながら、わたしは違和感に首をひねった。

 あれ? 三日……?

 眠ってたって、誰がっ!?


「も、もう一度言ってマルクス君っ、わたし、三日も眠ってたの!?」

「そうだよ。シラー先生とぼくで看病してたんだ。いっときは熱が高くてあぶなかったんだよ。シラー先生の薬湯がきいたんだね」


 熱があったことは、かすかに覚えていた。

 夢うつつに飲んだ甘苦い液体、あれが薬蕩だったのかな。シラーさんの言葉に既視感を感じたのは気のせいじゃなかったんだ。

 それにしても三日って! 軽くタイムスリップした気分です……。

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