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「リン様が来られたこの国は、ハールベリスと言います」
「……ハール、ベリス?」
「大陸の北にあるハールス王国が嶮しい山脈を避けて海を南下し、辿り着いた地に築いた新興国です。その成り立ちから母体となるハールスを本国、ハールベリスを第二国と呼ぶこともあります」
わたしは初めてこの国の名を知った。
ハールベリス、ハールス……予想通り、聞いたこともない国名だ。
第二国ということは、二つの国は親子のような関係だろうか。
「レーゲンベルク大陸には、大きく分けて三つの国が点在しています。北のハールス、南のトリスタン、西のルルカです。ルルカとは国交がありますが、トリスタンとの仲は険悪です」
主だった国の中に名前が入るんだから、ハールスというのは大きな国なんだろう。
険悪な仲って、戦争でもしているのかな。どこの世界にも争いってあるんだ。
「わたし、クリストフェル殿下に、トリスタンの間諜かって聞かれました」
「それはリン様の容姿が関係しています。ハールス人とトリスタン人では髪や肌色が違いますから。ハールス人は金髪碧眼が多く、トリスタン人は黒髪に褐色の肌、“宝石の瞳”と言われるほど眼の色は多彩です。私などは典型的なトリスタン人ですね」
……ロベルトさんは、どうしてハールベリスにいるんだろう?
気になったけれど、尋ねる勇気はなかった。個人的な事情にどこまで踏み込んでいいのかわからない。クリストフェル殿下やフィリップさんの様子から、トリスタン人であるということは侮蔑の対象らしいと気づいて、なおの事聞きにくかった。
「――リン様は花が暮らす場所として、この世界で一番安全な国を選ばれましたね。ハールス人ほど花の保護に心血を注いでいる民族は他にありません。教会が独自に行っていたにすぎない花の保護を国策として支援し、今や確固たる保護制度として国内に浸透させています」
斬られたり閉じ込められたりしたけれど、わたしはまだ運がいい方らしい。
もし連れて来られたのがトリスタンだったら、黒髪というだけで敵意を向けられることもなかったのだろうか……ううん、やっぱり日本人顔だから変に思われたに違いない。
神様も異世界人だから考慮してくれたのかな。
それに、ハールベリスに来なければ、ロベルトさんに出逢えなかった。
ざわざわと梢を渡る風は、ひやりとした冷気を含んでいた。
日中の暖かさは消えてしまい、薄手のパーカーだけでは肌寒さを感じる。
「風が出てきましたね……春の始月といえど夜は冷えます。失礼を」
そう言ってロベルトさんは袖を抜いた右腕にわたしを抱え直し、器用に上着を脱いだ。
ばさりと彼の上着が肩を覆い、慌てて返そうと身をひねった。
「わ、わたしは大丈夫です! ロベルトさんが寒いですよっ」
「花が寒さに弱いことは種族的なものですから、強がる必要はありませんよ。狼は花と比べ物にならないほど頑丈にできています。私のことはご心配に及びません」
実は日本にいた時、寒がりだと家族にも友達にも言われていた。冬は重ね着しすぎて「転がってピンでも倒すつもり?」とからかわれ、コタツに入れば引っこ抜かれるまでお尻に根が生えて動けなかった。
あれもこれも、わたしが寒さに弱い《花》だったから?
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
お礼を言って、もそもそとぶかぶかの上着を巻きつけた。
何が入っているのかズシッと重い上着は温もりが残っていて、夜気に冷えていた身体があたたかさに包まれる。わたしが猫だったらゴロゴロいいながら眠ってしまいそうに気持ちがいい。
「教会へ到着すれば名乗る機会が何度も出てくるでしょう。ですが教会に登録した花は個として姓を持つことはなく、一様にハールスラントと名乗ります。リン様も今後はそのようにお名乗り下さい」
「鈴木鈴じゃなくて、鈴・ハールスラントですか?」
「正しくは、花の位と花統を加えますので、“花の位《八花片》、《恋花》の…”、と続きますが」
「な、長いんですね……」
覚えられるだろうか。花の位八花片、ロートの鈴・ハールスラント……? 普通に鈴木鈴って言った方が早いし覚えやすいと思うのは、日本人の勝手な意見でしょうか。
「あの、わたしはロートっていう花統なんですよね? どうしてわかったんですか?」
わたしがどの花統なのか、フィリップさんや兵士たちは誰も気づいていないようだった。香りを持たないのなら、ロベルトさんがロートだと言い切れたのはなぜだろう?
「リン様が私の命花だったからですよ。私の花統である恋花以外に、命花となるものはありえません」
「……ずっと疑問だったんですけど、命花ってなんですか?」
一瞬の沈黙の後、すっと雰囲気が変わった。
雲にかすむ月は鬱蒼と枝葉をのばす木々にまぎれ、わずかにこぼれた月明かりはとてもか細い。身を寄せるロベルトさんの瞳は暗闇で青白く光っていたけれど、表情を窺い知ることはできなかった。
「命花とは、狼と生れれば誰もが焦れ、探し求める己の花です。出逢ってしまえば花を請わずにはいられない、この世でただ一輪の花。それが《命花》です。一生を費やしても廻り逢えるとは限らぬ相手……リン様を主花に抱く私は幸運です」
彼の言い方は告白に似ていた。
深い意味はないはず、とうろたえる自分を叱りつけても効果がない。赤くなる顔を伏せ、じりじりと耳が熱くなるのを持てあましていた。
まるで自分が運命の相手だと言われたようだ。
恥ずかしい勘違いだと思うのに、スマートに流すことも、冗談めかして喜ぶこともできない。
なんて答えればいいの……?
期待されている台詞がわからない。無難な回答も考えつかない。からからに干上がった喉は声にならない息を吐き出すだけだ。
「――あなたをこの地へ遣わせて下さった神に、感謝致します」
ロベルトさんがくれた言葉がすとん、と胸に落ち、泣きたくないのに視界がぼやけてくる。
神に遣わされた……わたしは彼が言うような大した存在ではないけれど、異世界からやってきたことを信じてくれたんだと思うと嬉しい。テュリダーセに来た経緯は事故に遭ったからだけど、あの時消えてしまう道を選ばなくてよかった。
「…………わたしも、ロベルトさんに出逢えて、よかったです……」
ずび、と鼻が鳴ったのは聞かなかったことにしてもらおう。
借りっぱなしだったハンカチを取り出す。
洗濯して返しますから安心してくださいね、ロベルトさん。
++++++++++
木立の向こうに小さく灯りが見えてきた。
ロベルトさんがほとんど上体を揺らさずに歩くのと夜なのもあいまってわかり辛いけれど、かなりハイペースで森を進んできたらしい。呼吸一つ乱さないロベルトさんは狼だからか、鍛え方が違うのか。
わたしは結局かかえられているだけだった。でも自分の足で歩いていたら、今の三倍以上時間がかかったのは確実だろう。
「リン様、《花》は花片の数が多いほど香りが強くなります。八花片の花紋というのは滅多に生まれぬ最高位の花です。それ故、明日からリン様の周囲は騒がしくなるでしょう」
「わたしが、高位の花……ですか?」
騒がしくなると言われても、そうなんですか? とピンとこない。
わたしがまったく理解していない風なのを察したらしく、ロベルトさんは言った。
「現在リン様を除いて八花片の花紋をもつ方は、本国のセントポーリア様お一人だけです。今のハールベリスにリン様以外の八花片は、蕾を含めて誰もおりません」
…………ななな、なんだかすごい立場になってませんか!?
く、国に一人って……八花片って数が少なすぎるんじゃ……。
「で、でもわたしっ……!」
「ええ。リン様の場合は状況が特殊ですから、存在を公にすることは聖光教も差し控えると思いますが、同じグラナート教会の者に隠し通すことは不可能です。花も狼もこぞって寄って来るでしょう」
言い切られてしまった。
花だけど匂いがしないなんて、八花片に輪をかけて珍獣扱いなのかな……。
「私も花狼としてお護りいたしますが、狼が立ち入れぬ場所もあります。リン様ご自身も身辺に注意を払って下さい」
「はい、色々とボロが出ないように気をつけます……」
異世界人だとバレないようにしないと、失言で墓穴を掘るのはわたしの勝手だけれど、ロベルトさんに累が及ぶのはもうこりごりだ。
「他に気をつけることってありますか?」
「リン様の世界では男性がどのようなものかわかりませんが、《狼》にはくれぐれも気を許されぬように。花は花片の枚数だけ花狼を得ることができますが、興味本位の狼を相手にする必要はありません」
「枚数分だけ?」
花狼って何人も持てるものだったの?
……仮にたくさん居たとして、何してもらうんだろう。想像がつかない。
「ええと、わたしはロベルトさんが花狼になってくれたから、あと七人……?」
「リン様」
言葉を遮るように強く名を呼ばれた。
「もうひとつ、重要なことをお伝えしておりませんでしたね。あなたの口から私以外の花狼のことなど聞きたくありません」
梢を揺らす風にのって耳をくすぐる低い声。
見えない手がやわらかに肌を撫でて行く、そんな錯覚に囚われる。
――……《狼》とは嫉妬深い生き物ですから。
夜に溶けた囁きは甘く誘惑めいて。
独占欲を仄めかせて聞こえたのは、わたしの気のせい……?
闇の中、強い視線が向けられている。青く光る狼の眼。
夢中で首を縦に振った。心臓が痛いぐらいに暴れている。
ロベルトさんが近づく足音に意識を向けたのを機に、かっかと火照る顔を両手で覆う。
……免疫のない人間には耳に毒です、耐えられません。
「お待ち申しあげておりました、ロベルト様」
知らない人の声に顔を上げた。
掲げられたランタンの灯りが眩しくて目がしぱしぱする。目が慣れても、周囲をぼんやりと照らすにとどまる灯りに、電気って偉大な発明なんだと改めて思った。日本の街灯やコンビニの照明が当たり前だったからか、辺りの闇が押し迫ってくるようで頼りなく感じる。
迎えの人をよく見ようとしたら、ロベルトさんがわたしの肩の上着をさっと頭まで引き上げた。
いきなり暗くなった視界にあたふたしているわたしにはかまわず、ロベルトさんは迎えの人と一緒に歩きだした。うう、なんだかとっても覚えのある状況です……。
「馬車の用意は?」
「整っております」
「城門を抜ける許可は?」
「頂いております」
「部屋は使えるか?」
「万事滞りなく」
簡潔なやりとりがすむと、会話が途切れた。そっと上着の隙間から覗くと、ランタンを手に先導しているのはロベルトさんと同じ黒い服を身につけた男性だった。
「……リン様、もう少しの我慢です。リン様が着ておられる服はこの国では目立ちますので」
「ご、ごめんなさい……」
囁きとともに再び上着で隠されたことで、ロベルトさんの気遣いを台無しにしている自分に気がつき、小さくなるしかなかった。
自分の服も、黒髪のことも、すっかり頭から抜け落ちていた。
わたし、こんな調子で教会に行ってもいいんだろうか……すぐにボロを出しそうだ。
ギィッと何かが軋む音がした。
「どうぞ」
「――馬車に乗り込みますよ」
身体が浮き、しっかりとした物の上に座らされた。
横にロベルトさんも乗り込んだのが気配でわかった。間を置かず扉が閉まり、鋭い掛け声がした後、ゆっくりと馬車が動き出した。
ロベルトさんが上着をよけてくれる。
「窮屈な思いをさせて申し訳ありません」
「そんな、わたしこそぼうっとしててすみません!」
馬車の中は灯りがなく、鳥目のわたしは何がどうなっているのか見えない。ロベルトさんの声が聞こえる隣にむけて謝った。
「気にされることはありませんよ。リン様はお疲れになっているのでしょう。今からグラナート聖堂教会に向かいます。充分な時間とは言えませんが、その間身体を休められるとよろしいですよ」
ごそごそと座席に腰を落ち着けると、緊張が一気にほぐれ、大きなあくびが洩れた。仲良くなろうとする上下の瞼を引き離すのに骨が折れる。
気を抜くとカクン、と船をこいでしまう。
「眠くなられましたか?」
「…………はい、ちょっとだけ……」
「眠っても構いませんよ」
さりげなく上体を引かれ、彼にもたれ掛かるように促された。追い打ちにロベルトさんの上着が掛けられると、もう逆らう気力が湧かなかった。
ゴトゴトとお尻の下から伝わる振動も、疲れた身体には揺り椅子のような優しさで。
五分だけ、と瞳を閉じると、あっという間に眠りに引きこまれた。
こうしてわたしの長い長い一日は、ようやく終わりを告げた。
第一章 了




