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花と狼  作者: riki
第一章 花狼の誓約
17/43

16

 離宮の廊下は三、四人並んで歩けるぐらい幅があった。

 天井も高く、抱き上げられているわたしが手を伸ばしても届きそうにない。

 壁には広く間隔をとって窓が設けてあり、外はもう日が暮れかけていた。光が届きにくくなった廊下を照らすのは壁掛けのランプだった。赤や青の色とりどりの彩色がほどこされたガラスの風防。中で揺らめく灯火が本物の炎であると教えてくれている。やっぱりテュリダーセに電気は通っていないようだ。


「リン様、この先は階段になっています。しっかり掴まっていて下さい」


 物珍しくて左右を見回していたわたしは廊下の先に目をやり、人間の怖いもの見たさという感情は手に負えないということを実感した。

 階段が果てしなく高く見える。高所恐怖症でただでさえ怖いのに、ロベルトさんに抱きかかえられて見下ろした階段の高いこと、長いこと!

 思わず生唾を飲み込んだ。お、おろしてもらって自分で下りたい……。


「……リン様は高い場所が苦手ですか?」


 わたしの動揺ぶりがあからさまだったらしく、ロベルトさんにそう尋ねられた。


「は、はい。ちょっと…………かなり、苦手なんです……」

「そうでしたか。では後ろを向かれるか、目を瞑っておられるとよろしいですよ」


 わたしをおろすという選択肢はないんですね……。

 覚悟を決めるしかないようだ。わたしはアドバイスにしたがって後ろを向き、さらに目も瞑った。

 落とされやしないかとは思わないけれど、怖いものは怖い。一定のリズムで階段を下りているのを感じながら、恐怖をまぎらわせるためにくだらないことを考えていた。

 ロベルトさんってかなり鍛えてるんだろう、肩も腕も筋肉が張り詰めていてすごいなあとか、袖の下に籠手か何かをつけているらしく、お尻の下に硬いものが当たるなあとか、とりとめもなく思考が飛んでしまう。


「――先程は驚きました」


 ゆったりと響く声に、彼が驚くことってなんだろうと疑問だった。

 ロベルトさんて本当に動じない人で、驚いたのかもしれないと思えるのは花刻の色の時だけだ。

 花刻と言えば、聞きそびれていたけど、命花ってどういう意味をもつのだろう。カルステンさんが主花であり命花でもあると言っていたから、主花とはまた別のもの?


「リン様は大陸語も理解されているのですね」

「……大陸語ってなんですか?」

「トリスタン人やルルカ人が用いる言葉です。祖を同じくするとはいえ、もはや言語形態は大きく変化しています。完璧に聞き取れるのは、高い教育を受けた者や商人などの一部に限られます」


 ええっ、わたしは英語をちょっと齧ったぐらいで、大陸語なんて初耳ですが!


「で、できませんよ大陸語なんてっ! 話せないし、わからないです!」

「マルシュナー卿に大陸語で話しかけられたとき、私が注意を促すより先にはっきりと答えられていたでしょう?」

「い、いつのことですか……?」

『マルシュナー卿が自身の命花のことを告げたときです。彼が大陸語も堪能だとは知りませんでしたが、《傭兵》上がりであれば配慮してしかるべきでした。私の落ち度です。リン様は試されたことにお気づきでしたか?』


 命花って、エリカさんによろしくと頼まれた時のこと?

 フィリップさん、大陸語で話してたの? まったくわからなかった。


「……気がつきませんでした」

「――そのようですね。今私が大陸語で話したこともお気づきでないようですから」


 不意打ちのたね明かしに茫然としてしまった。

 ロベルトさんはずっと流暢な日本語で話しているようにしか聞こえなかった。


「異なる世界から来られたという不思議のなせる業なのでしょうか……。言葉の垣根がないということが今回は幸いに働きましたが、言語を区別できないことをご承知おき下さい。この国に住む多くの花は、大陸語の会話は満足に行えませんから」


 小声の注意を頭に刻みつけた。

 わたしにとってテュリダーセの話し言葉は、日本語に翻訳されて聞こえる。それはロベルトさんたちが話す言葉も、トリスタンやルルカという国の言葉も関係ないらしい。

 言葉がわかるようにしてくれた神様の計らいは、この調子だとテュリダーセの言葉全てに及ぶのかもしれない。この世界にいくつ国があるのかわからないけれど、便利な恩恵だと単純に喜んでいるわけにはいかないようだ。

 どこの国の言葉でも分け隔てなく日本語に翻訳されるのだから、それが異常だと知らないままに受け答えするだろう。初対面の時、クリストフェル殿下は言葉に淀みがないと驚いていた。言語が人種を区別している一因なら、わたしは異質な存在だ。日本でだって、中国語も英語もフランス語も通じる普通の女子高生がいたら、周囲から浮くことは間違いない。

 でもどうやって言葉を聞き分けたら、ううん聞き分けることができないんだから、見分けたらいいんだろう? 異世界人だと疑われるのは避けたいのに、頭痛の種ばかりが増えていく気がする……。

 フィリップさんが大陸語で話しかけたのは、ロベルトさんの言う通り、わたしを試したんだ。カルステンさんからどんな風に報告されたのかはわからない。わたしがトリスタン出身だと言ったから、大陸語で話しかけたんだろう。

 ――もし、あの時内容がわからなかったら、どうなっていたか。

 考えると背筋が寒くなる。フィリップさんて気さくな人に見えるけど、さらりとカマを掛ける手からみても油断できない人だ。気を許すとすぐ墓穴を掘ることになりそうな気がする。


「リン様、もう目を開けられても大丈夫ですよ」


 ぐるぐる考えている間に着いていたようだ。考えごとに気をとられて階段を下りている恐怖を忘れていた。ひょっとしてロベルトさんの気遣いかな。

 目を開けると、そこは一階とおぼしき大広間だった。

 磨かれた石の床は家が一軒入りそうに広い。吹き抜けの天井は高く、上の方は薄闇に半分姿を隠している。テレビの中で見る外国のお屋敷のようだ。

 周囲を見渡すと、大広間から外に向かって開けた扉には白い軍服の兵士が四人、こちらを警戒して立っているのが目に入った。

 わたしたちと兵士以外、人がいない。いくつもの掲げられた灯火で華やかに浮かび上がる広間は、人気がないせいか漠然ともの寂しい雰囲気が漂っていた。

 広間を横切り、扉を守る兵士たちの間を抜ける。一言も発することなく向けられた険しい視線に首をすくめたくなった。フィリップさんから連絡があったのか、わたしたちは止められることなく建物の外に出ることができた。


 外に出てゆっくりと離宮を眺める。みるみるうちに薄暮にうすれつつある離宮は、右端に筒型の塔を抱く館だった。もっとたくさんの建物に囲まれているのかと思っていたけど、離宮の周りを囲むのは森だった。王花の庭はどっちにあるんだろう。森の向こうにそびえる尖塔は花畑で目覚めたときに見たのと同じだ。距離はかなり離れているようだった。

 離宮の塔の窓は、目を凝らしても中を窺うことはできなかった。クリストフェル殿下たちはまだ部屋にいるのだろうか。わたしが閉じ込められていた部屋は高さから見て最上部の辺りかな。

 離宮の警備が厳しいのは本当らしく、ぱっと見ただけで歩哨は十人を超えていた。

 ピュイッと甲高い鳴き声がして、空を見上げた。黒っぽい色の鳥が空を舞っている。


「迎えが来ているようです。参りましょう」


 同じく目で追っていたロベルトさんが歩きだした。

 まるで鳥が彼に告げたみたい。


「ロベルトさんって鳥と話ができるんですか?」

「……いいえ。残念ながらできません」


 ふっと笑いに和んだ藍色の瞳に、馬鹿な質問をした自分が恥ずかしくなる。


「う、その、鳥がロベルトさんに何か言ったのかなぁ、とか思ってですねっ……!」

「鳥とはクルークのことですか?」

「あの鳥、クルークって名前なんですか?」

「クルークというのは鳥の種類です。賢い鳥で伝令に利用されます。先程飛んでいたのはグラナート神聖騎士団が飼育するクルークですよ。馬車の手配をしておいたので、準備が整ったことを報せに来たのです」


 鳥と話していたわけではないらしい。

 ファンタジーな世界に来てしまったから、わたしの頭もメルヘンに染まってしまったんだ……。

 それにしても、馬車の手配って、ロベルトさんって用意が良すぎるほど抜かりのない人だ。どこまで物事の先を読んで手筈を整えているのだろう。


「さすがに馬車を一の郭の離宮まで乗り入れる許可は下りませんので、王城まで歩かなければなりませんが」

「……王城って遠いんですか? おろしてもらえれば歩きます。ずっとかかえてると重いでしょうし!」


 ここぞとばかりに主張した。だって、わたしはずっと抱きかかえられたままなのだ。

 ロベルトさんは森を突っ切るコースで、王城らしき尖塔に向かっていた。

 彼は喋っている間にもさっさか歩いて、もう離宮から結構な距離を開けている。だけど、目的地までかなり距離があることは一目瞭然。幸い森へのびる道はならされた土のようだし、裸足で歩けないこともないはず。

 ロベルトさんに抱えられていると落ちつかないし……重い、とか思われていたら、わたしの中の乙女心というものがちょっと立ち直れそうにありません……。


「リン様のように軽い方を抱えて苦にするような狼はいませんよ」

「でもほら、だんだん重くなってくるんですよ。子泣きじじいとか漬物石とか、そんな感じですっ」

「……リン様の例えはよくわかりませんが、もう日が落ちました。花は夜目が利きませんから、足元も覚束ないでしょう。怪我をされるといけません」

「土の上だから怪我なんて……」

「リン様、私の安心のためにお願いします」


 また、この手だ。

 ロベルトさんにじっと見つめられてお願いされると、自分が聞き分けのない子供みたいな気にさせられる。たしかに辺りは暗くなって景色も見えにくくなったし、道も知らないけど……いや、やっぱり手を引いてもらったら彼の後をついて歩くことはできるだろう。


「――リン様?」

「……よ、よろしくお願いします」


 負けました。折れます。

 だから顎にかけた指は外してください……!

 返事を促すように軽く触れていた指が離れ、真っ赤な顔で首を縦に振るしかなかったわたしは、ほっとして息を吐いた。頬が熱い。本当に今が夕方で良かった。

 ロベルトさんって誑し……?

 さりげないスキンシップが心臓に悪いことこの上ない。


「王城までは時間がかかります。教会へ向かう前に、少しだけこの国についてお教えしましょう」


 花狼の誓約が胸を鬱ぐ。

 予備知識の大切さについて嫌というほど思い知らされたわたしは、彼の言葉に黙って耳を傾けた。

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