15
「花の自由は守られるべきだが、それにすべての花が当てはまるわけではない」
隠しきれない苛立ちにクリストフェル殿下の声が唸るように低くなる。
い、言ってること変わってるじゃないですか! ロベルトさんと行っちゃいけないの……?
不安になってロベルトさんを見たら、彼は安心させるように少し笑ってくれた。
「教会にしても香らぬ八花片をただちに収容する必要はあるのか?」
「花の保護について教会の方針を決めていただく必要はありません。……王太子殿下はどうなさるおつもりですか? リン様を離宮からお出しにならないとおっしゃいますか?」
「…………何が言いたい?」
「十四年前の愚を再び犯すおつもりなのかとお尋ねしました。恋花の八花片と聞けば、事情に明るい者は誰でもあの惨劇を連想すると思いますよ。……蜜に溺れ、香りに酔い、一片の花片も与えられぬのになお花を独占せんと欲す――滑稽なるは|《花狂い(フェアファレン)》」
クリストフェル殿下の顔が瞬時に強張った。
踏み込む音はしなかった。目を開けていたのに速すぎて見えなかった動き。
気がついたときには、フィリップさんの長剣がロベルトさんに突きつけられていた。
はら、と黒いものが落ちていく。
無意識に眼で追い、髪の毛だ、と理解するまでに時間がかかった。
「それ以上の王族への侮辱は、オレが許さん」
今まで見せていた親しみやすさが幻のようだ。陽気さの消え失せた青い瞳は硬質な光を放ち、冷徹な面持ちは軍人らしい厳しさを醸し出していた。
わたしは怖くなって隣のロベルトさんを振り仰いだ。
彼は前髪を斬られたというのに、動じることもなくうっすらと冷笑を浮かべた。
「……ご無礼を申し上げました。お許し下さい」
慇懃無礼とはこのような場合に使う言葉だろう。全然謝っているように聞こえない。そう思っているのはわたしだけじゃないようで、クリストフェル殿下は怒りに顔を赤くしていた。
兵士たちの間に緊迫した空気が流れる。わたしは固唾を呑んで見守っているしかできない。
わたしがクリストフェル殿下に剣を向けられたとき、殺されるんじゃないだろうかと恐ろしくてたまらなかったのに、ロベルトさんは眉間に触れんばかりに近い切先を意に介さずフィリップさんに視線を投げかけた。短くなった前髪の間から金色の瞳が垣間見える。
「謝罪を繰り返した方がよろしいでしょうか?」
「その気がないなら意味はねぇだろうよ。……雑色の瞳、それゆえの態度か?」
「私がトリスタン人であることは関係ありません。剣を引いていただけないのですか?」
ロベルトさんが斬られてしまうかと思った。
ギュッと瞼を閉じると、予想に反して耳が拾ったのは鍔鳴りだった。
「……二度目はねぇぞ、黒犬。お前さんが何人だろうと関係ねぇが、この国に住む以上、王族への礼儀は最低限守ってもらわねぇとな」
物騒な含みに首をすくめたくなるような許しだったけど、安堵のあまりロベルトさんに抱きつきたい気分だった。
勇気があるというより無謀な人だ。戦力外のわたししか彼の味方がいない状況で、挑戦的に振舞うのはやめてほしい。本当に寿命が縮まります……。
コキ、と首を回し、フィリップさんはしょうがねぇな、と嘆息した。
「今日は帰すしかねぇようだな」
「……花は、だろう。あいつは地下に放り込んでやるっ」
「おい、まるっきり悪役の台詞じゃねぇか。気持ちは分かるが、レンドルフ殿から言われたろう? 査問にかけられるんだ。奴の処分は教会に任せればいい」
不満そうなクリストフェル殿下の瞳は爛々と燃えている。
何となく、彼はわたしの件とは関係ないところで、ロベルトさんに敵意を抱いている気がした。持ち出された十四年前、という話題が関係しているようだけど……きっとクリストフェル殿下にとって逆鱗に触れる過去なんだろう。ロベルトさんは知っていてわざとそこを突いたんだ。
「対応が決まったのでしたら、通していただけますか?」
一声で人垣が割れ、廊下への道ができる。
両脇に立つ兵士に押さえられ、扉は大きく開かれていた。
良かった。ロベルトさんと一緒に行ってもいいんだ。
喜ぶわたしに、フィリップさんがすかさず釘を刺した。
「――忘れないでほしいんだがな、お嬢ちゃんへの聞き取りは後日きっちりさせてもらうぜ」
「どうぞ、教会を通して要請をお願いします。ただしその時は神聖騎士が同席いたします。花に狼藉を働かれては困りますから」
「……あぁ、狼藉だぁ? 穏やかじゃねぇ言い方だな」
「リン様の首の傷、どなたがおつけになったのですか?」
ハッと上げた視線が蒼と絡む。名前を口にしなかったけど、一瞬で充分だったようだ。
馬鹿だな、とフィリップさんが呻いていた。
「――王太子殿下ですか」
ぽつりと零れたロベルトさんの呟きはすぐに掻き消される。
――ギイィィィィィィィィンンッッッ……!!
金属が軋む高音の悲鳴が、長く尾を引いて鼓膜を叩いた。
遅れて舞い上がった風に髪と肌をなぶられ、半分に細めた視界に交差する二本の白刃が映った。
ロベルトさんが突き出した剣をはね上げる格好で受けているのはフィリップさんだった。背後にクリストフェル殿下を庇っている。斬りかかったロベルトさんを止めたらしい。
隣にいたロベルトさんがいつ剣を抜いたのかわからなかった。
一連の動きを追えなかったのは他の人たちも同様らしく、驚愕に目を見開いている。唯一フィリップさんだけが反応できたようだ。
鍔迫り合いに顔を寄せるフィリップさんは自嘲ぎみに口端を上げた。
「……あ~あ、三青隊の看板背負ってこれじゃ、表を歩けねぇな」
「肌までは傷つけておりませんよ」
「そりゃ嫌味かい?」
微かに振動している刀身が籠められた力の強さだ。押された分だけ押し返し、位置の変わらない交差が拮抗した二人の力比べを物語っている。
「手合わせしてぇと思ってたけどよ、応戦できねぇんじゃつまらん」
「なら退いていただけますか?」
「お前さんが退いたらな、っと!」
シャラッと涼やかな響きとともに擦れ合った剣は離れ、申し合わせていたようにお互いの鞘へと仕舞われた。
「――返礼を服で済ませたのは、私の命花に血を見せたくなかったからですよ」
「へぇ、心が広いねお前さんは」
唐突に始まり、一瞬で終わった攻防にぽかんとするしかなかった。さっきフィリップさんが剣を抜いた時と違い、お互い何事もなかったような顔をしている。
一体なんだったの? と首を傾げてしまった。
ロベルトさんは気が済んだような口ぶりだけど、わたしの傍からほとんど動いていない。
剣を打ち合わせたフィリップさんは見た目には無傷で、クリストフェル殿下はフィリップさんに庇われていたから、物理的にロベルトさんの剣が届く距離にないはず――。
クリストフェル殿下の軍服の襟が、すっぱりと斬り裂かれていた。
今はカルステンさんに巻いてもらったハンカチで隠れている首の傷とちょうど同じ場所。
どうやって斬ったんだろう、かまいたちというものなんだろうか。
あまりぼうっと見ているからか、クリストフェル殿下は自分の襟に手を伸ばし、瞠目した。次いで屈辱に顔を歪ませる。本人にすら気づかせなかったんだ。
言葉通り切れていたのは服だけで、肌は傷ついていないみたいだから気づきにくかったのだろう。ただそれは、剣を持つ者として実力の違いを見せつけることになったのは疑いようがない。
「睨むなよ殿下。今回軽率だったのはこっちだぜ。加減したんだろうが、花は弱ぇからな。首を傷つけたのはまずかったな」
「……大げさに言わないでもいいだろう。かすり傷だ」
「クリス、また斬られるぞ? 花狼じゃねぇからわからんだろうが、オレの命花が同じことされりゃ、間違いなく相手の首を刎ねてるぜ」
フィリップさんの言葉で納得した。
……わたしの傷の仕返し、なんだ。
でも……。
「――それでは参りましょうか、リン様。失礼いたします」
ふわっと身体が浮き上がり、わたしは驚いて手を泳がせ、近くにあったものにしがみついた。
浮遊感にどっと不安が押し寄せる。
「リン様、落ちついて目を開けて下さい」
甘く低い声が至近距離で聞こえた。
そろりと目を開けると、わたしはロベルトさんの左腕に腰かける格好で抱き上げられていた。
慌ててしがみついたものがナニかわかった時、高所恐怖症のものとは違う意味で意識がふうっと遠退いた。
わたしはロベルトさんの首に顔を埋めるように腕を回していた。
……気絶しそう。むしろ気絶できるならしたいです……。
真っ赤になってがばっと身体を離したら、勢いが良すぎた反動で背中から落ちそうになった。すかさず引き戻され、「落ちついて下さい」と再度たしなめられた。
「あ、その、ごめんなさいっ、び、びっくりしちゃって……!」
「私の方こそ、驚かせて申し訳ありませんでした。リン様は靴を履いておられませんから」
そうだ、わたしはなぜかテュリダーセで目覚めたとき、服は着ていたけど靴を履いていなかったんだ。
「あの、走るの苦手ですけど、歩くのは得意です。大丈夫です。裸足だってへっちゃらですから……!」
ロベルトさんの気遣いは嬉しいけど、抱きかかえられる恥ずかしさに比べたら、歩く方が何百倍も心臓に優しい。それに重いだろうし……。焦るあまりおかしなことを言った気もするけど、今この瞬間も抱き上げられているのに冷静な思考が戻るはずがない。
早口の力説に、プッと噴き出したのはフィリップさんだった。
「はははっ! 異国の花ってなぁ、初なもんだな。お嬢ちゃん、この国では教会の花はしょっちゅう神聖騎士に抱き上げられてるんだぜ。気にすんな。ま、花狼のくせに拒まれてる奴を見るのは面白いがな」
「こ、拒んだりなんかっ……」
見下ろす体勢になってしまった藍色の瞳は無言でどうするのか尋ねている。周りの兵士たちも成り行きを静観しているようだ。
彼のことを笑われるのは嫌だという思いが、叫び出しそうな羞恥心を上回った。
肩を掴んだのを合図に、ロベルトさんは歩き出した。
ゆ、揺れると怖い……。
いつもの自分よりはるかに高い視界に、遠慮がちに掴まっていたロベルトさんの肩をしっかりと持ち直した。
「アイヒベルガー殿、お嬢ちゃんはどこの教会に行くんだ?」
「とりあえずは私の所属するグラナート聖堂教会へ向かいます」
「グラナートか。お嬢ちゃん」
「……え、わたし、ですか?」
突然話しかけられてきょろきょろしてしまった。
『グラナートにはオレの命花が居る。エリカってんだ。見かけたらよろしくな!』
ぴた、とロベルトさんの足が止まった。
わたしは単純に返事をするために止まってくれたんだと思って、フィリップさんに大きく肯いた。
フィリップさんの命花ってことは、女の人だ。教会に行けば自分以外の女性に会えるだろう。楽しみだ。
「エリカさんですね? お知り合いになる機会があれば、伝えておきますね」
「おう、頼むぜ」
ストライドの大きなロベルトさんは、人一人を抱えた影響なんて微塵も感じさせないしっかりとした足取りで部屋を後にする。
フィリップさんは「またな、お嬢ちゃん」、と手を振ってくれた
兵士たちの表情は様々で、複雑そうな人も、悔しそうな人もいる。
クリストフェル殿下は無表情だった。
左右の襟が斬り裂かれた服。
王太子殿下と呼ばれる人に剣を向け、どうしてロベルトさんは怒られなかったの?
もちろん彼が罪に問われることを望んでいるわけじゃない。
ロベルトさんが口にした言葉でクリストフェル殿下が怒った時、フィリップさんは本気で咎めていた。けれど二度目に剣を抜いたときは謝るようにとも言わなかった。
王族と教会、近衛と神聖騎士、そして花と狼。この国にはわたしにはわからない関係があるようだ。
淡々としたロベルトさんの表情は、なにも特別なことはなかったように見える。
背中側に伸びた剣の鞘が歩くのに合わせて揺れている。
わたしのために振るわれた剣。
斬られる痛みは身をもって味わった。
首に巻かれたハンカチの下に指を入れる。触れるとかさぶたのできた傷が少し引き攣れた。
「痛みますか?」
「……大丈夫です」
気遣ってくれるロベルトさんに答え、遠くなる部屋を振り返った。
いくつもの視線がわたしたちを見送っている。
一番強いのはクリストフェル殿下の視線だった。
わたしを傷つけた人だけど……。
ロベルトさん、わたし、あの人が傷ついてよかったとは思えないんです。
仕返ししてほしいわけじゃなかった。
ただ、謝ってほしかったの――。




