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花と狼  作者: riki
第一章 花狼の誓約
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 その時間が長かったのか短かったのかわからない。

 ひっ、ひっ、としゃっくりの出来損ないみたいな浅い呼吸が、ひりついた喉の奥から洩れる。

 頬に触れる布地の感触で、誰かにしっかりと抱きしめられているのに気づいた。受け身なんて考える余裕もなく硬直し、反りかえっていた身体は、力強い腕に抱きかかえられて床への激突をまぬがれていた。

 ぼやけていた視界は目尻に零れた涙とともに晴れる。でも硬い胸板に押しあてるように頭を抱え込まれているから何も見えない。零れた涙は頬に触れる服に吸いこまれていった。

 その誰かは繰り返し髪を梳いてくれていた。優しい指先の快さにほうっと溜息をついて瞳を閉じた。全身の力が抜け、子供みたいに背が丸まる。

 できるならずっとこの安らぎに浸っていたい。

 不思議な高揚感も、燃えるような胸の熱さも今は感じない。全身に虚脱感だけが残っていた。


「……リン様、落ち着かれましたか?」


 疲れていて声を出すのも億劫だったので、ひとつ頷いた。わたしをかかえる彼には十分伝わるだろう。


「お疲れさまでした――よく、頑張られましたね」


 またひとつ頷く。

 ロベルトさんって、詐欺師だ。

 花狼の誓約がこんなに大変なものだって知らなかった。教えてくれなかった。

 ムッとしていると瞼の裏が明るくなり、頬を撫でられた。抱擁が解かれ、離れてしまった温もりに少し寂しさを感じる。

 指先で涙を拭われ、ついでのように、無意識に寄っていたらしい眉間の皺を伸ばすように擦られた。

 指一本動かすのもだるいわたしと違い、動作はなめらかでぎこちなさは微塵もない。

 彼はあの熱を感じていなかったのだろうか。


「…………ロベルトさんは……だいじょうぶ、でした?」

「ええ、私は狼ですからご心配には及びません。……怒っておられますか? 私を殴ってもいいですよ」

「……そのうち、しかえし……します……」


 重い瞼を開いた先の男性は微笑んでいたから、悔しくって呟いた言葉。

 「お手柔らかに」と返されて、つられて笑ってしまった。


 わたしはこの時、疲労から普通の精神状態じゃなかった。男の人に抱きかかえられてのんびりくつろぐなんて、普通じゃ考えられない。後から思い返しても顔から火が出そうだ。

 ましてや、怪しい小娘を助けてくれた親切な人に向かって、「仕返しします」発言……!!

 穴があったら入りたいとはまさにこのこと。タイムマシンがあったら、この時の自分の口を縫いつけて、恩知らずの生意気な子供は床にでも転がしておいて下さいと頼むのに。


「あれ……その目の縁、どうしたんですか?」


 ロベルトさんの眼の縁に血かと見間違う鮮やかな深紅。お化粧か刺青……は、この短時間にありえないだろうし。目尻に向かっての目張りにも見えるけど、この部屋に入ってきた時にはなかったものだ。

 彼は自分の手で確かめるように触れた。


「眦に刻む朱は花刻といい、《花狼》の証しです。花狼の誓約を交わした狼に現れるものです。――リン様、立てますか?」

「たぶん……大丈夫です」


 ようやく頭がはっきりして、のんびりしている状況じゃないことを思い出してきた。

 大丈夫と言ったものの足はフラフラで、手を借りないと立ち上がれない。両脇を持たれて軽々と起こされ、改めて異世界人の力強さを思い知った。

 あ、また右眼が髪に隠れている。

 藍色と金色、綺麗な色違いなのに隠しちゃうんだ、もったいないな……。


「ええと、その花刻というのが出たから、誓約は成功したってことでいいんですか?」

「その通りです。私に朱の花刻があれば、どこまでもリン様をお守りすることができます」


 つまり、わたしの花狼っていう証拠があるから、引き離されることはないらしい。

 朱の花刻……朱色って、オレンジ色っぽいイメージがあるんだけど、ロベルトさんの花刻はオレンジというより赤く見える。


「よかった、わたしはこの世界の人間じゃないから駄目かもしれないと思ってました。……それにしても、国によって色の表現も違うんですね。わたしの国では朱色ってもう少し黄みがかった赤でした」

「黄み? ――リン様、私の花刻は赤いのですか?」

「わたしには赤く見えますけど……」


 ほんの世間話のつもりだったのに食いつかれ、慌てて首を縦に振った。

 鏡があったら直接見て確認してもらえるけど、この部屋にはそれもない。

 一番似ている色、何に例えるとわかりやすいかな。トマト、郵便ポスト? なんか違う。


「例えると、う~ん、なんだろう……そうだ、わたしの花紋と同じ色かな」

「――花紋と同色! 緋の花刻か!」


 驚きに目を瞠ったあと、ハッと息を吐き出し、ロベルトさんの秀麗な顔に一瞬、嘲りとも見える笑みが閃いた。怒ったところなんて見たことがない、出会ってから常に落ち着いていた人が見せた一面に、わたしは言葉を無くしていた。

 しかしすぐに仮面を被るように激しさは消え失せる。かわりに自制の利いた笑顔でロベルトさんは膝を折った。

 何度この人を足元に跪かせたか。数えたからといって慣れることはないけれど。

 先ほど見た表情は何だったのだろう――わたしははじめて、ロベルトさんが優しくしてくれる理由以外に、そうせざるを得ない状況に置かれた彼の心情を考えた。

 一体、テュリダーセでは花や八花片ってどういう存在?

 わたしみたいな子供を相手にして、立派な男の人が、躊躇なくこんな態度をとることができるものなの? 教会に属する騎士の義務感がそうさせるの?

 わからない。わからないままに受け入れざるを得ない状況が怖い。

 優しさを単なる親切として喜んでいてはいけないのかもしれない。ロベルトさんが厭々ながら接してくれていたのなら、申し訳なくて、つらい。

 悩むわたしに向かい、耳に心地よく響く声が告げた。

 それは宣告だった。


「――誓約は成りました。これで私は、あなただけの《狼》です」


 伏せられた眼許を緋が縁取る。

 褐色の肌に鮮やかな赤の対比が美しい。

 頭を垂れる人に向かい、わたしは途惑いを隠せずにいた。


「あなたは私の主です。あなたの望みは私の望み。あなたの敵は私の敵。私のすべてはあなたのものです。我が《命花サンザリア》」


 ……サンザリアって? わたしが、この人の主……?

 きっと便宜上の呼びかけだ。花狼の誓約と同じ、決まった文言に違いない。

 そうじゃなかったら……今朝までいたって普通の高校生だったのに、いきなりこの逞しくて綺麗な男性の主人になったなんて、とても信じられない。

 ロベルトさんは納得できているのかな……。出逢って間もない平凡な小娘を、主と呼ぶことに抵抗はない?

 ――本当は、嫌なんじゃ……?

 垣間見た激情は棘となって心に引っかかり、かける言葉も取るべき表情もわからなくて、わたしはただ立ち尽くしていた。

 幸いかな、沈黙は長く続かなかった。


 ドンッ、と物々しい騒音が扉の向こうから聞こえた。

 顔色を変えたのはわたしだけで、ロベルトさんは知っていたのか慌てる素振りはない。

 音源はまだ遠い。

 でも、だんだん近づいてくる。

 どうしよう、近衛の人たちがやって来たんだ。


「ロ、ロベルトさんっ……!」

「落ち着いて、私の後ろにいて下さい」


 広い背中に庇われる。思わず縋りつきたい衝動がこみ上げたけれど、そんな真似をすれば彼の邪魔になってしまうだろう。

 無意識に手が伸びそうな自分が信用できず、わたしは少し後退り、固唾を呑んで扉をうかがった。


 ――ガンッ!


 扉が揺れた。

 ノックの比じゃない打撃音が繰り返し扉を揺さぶる。

 この扉は外側に鍵があるはずなのに、どうして入ってこないのだろう?


「……少し細工をしておきました。時間稼ぎにもなりませんが」


 淡々と言われた言葉通り、ミシミシと蝶番が悲鳴を上げ、次の瞬間、力任せに蹴られたように大きく開いた。


「――これはこれは。離宮に神聖騎士がいるとはね」


 聞き覚えのある声だった。


「《花》のあるところに虫はあり、か。神聖騎士はどこにでも現れる。鬱陶しさは変わらないが、口をきかないだけ虫の方がましだよ」


 颯爽と部屋に入ってきたのはクリストフェル殿下だった。目鼻立ちはもちろん、マントを外したままだったから、スタイルも綺麗な人だとよくわかる。

 観賞用として眺めるなら文句なしの人だ。凍りつく蒼の視線がなかったら、の話だけど。

 クリストフェル殿下を庇うように、五、六人、白い軍服の兵士が周囲を取り巻いていた。皆襟に揃いの青い石がついた徽章をつけている。

 中でもとくに大柄な男性が、ヒュウッと口笛を吹いた。長い金髪をオールバックにして後ろで結わえ、悪戯っぽく輝く青い瞳を笑いに細めている。眦にはロベルトさんと同じ、緋色の花刻があった。

 ということは、この人も誰かの花狼なのだろうか?

 軍服はかっちりと着こなしながら、顎に無精髭が伸びているのが不思議だった。髭を剃れば整った顔が現れるだろう、クリストフェル殿下やロベルトさんとはまた違ったタイプの野性的な魅力の持ち主だった。……本当に、この世界は美形が多いと思う。

 男性はニヤリと人を食った笑みを浮かべ、今にもロベルトさんに掴みかかろうとしていた他の兵士の動きを止めた。


「まあ待て、お前ら」

「しかし隊長! こいつ、殿下の御前だというのに礼の一つもっ……」


 不満の声をあげた兵士を腕の一振りで黙らせる。


「いいから、ようく見てみろ。黒髪、褐色の肌、藍の眼――誰かを彷彿とさせねぇか?」


 皆の視線が向けられても、ロベルトさんは平然としていた。

 対照的に、兵士たちは思い当った様子で次々に顔を強張らせ、驚愕と恐れの入り混じった表情で目を見開く。ロベルトさんは立ったまま指一本動かしていないのに、完全に呑まれているようだった。

 注意を促した無精髭の男性が、近くにいた一人の頭を小突いて怒鳴った。


「ああっ、この馬鹿たれどもっ! ビビってんのが顔に出てるぞ! お前ら《護国騎士シュタルク・ゼーレ》だろうがっ、気合入れろ気合を!!」


 兵士は情けなさそうに顔をしかめたあと、先ほどより固さの抜けた顔でわたしたちを睨みつけてきた。恐れが消え、油断なくこちらに目を走らせている。

 隊長と呼ばれた男性は人を率いるのに長けているようだ。短いやり取りで兵士たちの血気に逸った態度をいさめ、恐怖に呑まれていた彼らに本来の自分を取り戻させた。無闇に恐れず、かといって隙は作らせないように。

 成り行きを見守っていたクリストフェル殿下が口を開いた。


「その特徴は僕にも心当たりがある。報告は受けているよ、教会の飼犬に暗殺を専門にする狼がいるらしい、とね。黒髪藍眼のトリスタン人……お前がそうか? 闇にまぎれて標的を喰らう、ダールガンの“黒犬”」


 忌々しさを隠そうともせず吐き捨てられた呼び名。

 黒犬って、ロベルトさんのこと……?

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