Drunk It [Poison] Blood 23
――今起きているのは、あってはならない事よ
右手に押し付けられた拳銃を握り、左手で手すりを伝いながら衝撃によって揺れる階段を晶は上っていた。
事実として怜・此花――レイ・ブルームスは鴻上製薬にとっては敵であった。
しかしレイはナノマシン兵器の破壊に訪れた傭兵で、世界にとって鴻上製薬が敵であることを晶に教えた。
それを嘘だと拒む事を無数の矛盾が認めようとはしない。
鴻上製薬は不可解なほどの急成長を遂げ、一時は部下だった産業スパイ達は忽然と姿を消し、異常なほど機密性を重視していた地下施設。
晶は昌明に”レイ・ブルームス”と名乗っていたヴィクター・チェレンコフのための証拠の抹消のためではなく、レイ・ブルームスという敵対者の炙り出しに利用されたのだ。
だが晶はまだどちらの側にもつくことは出来ない。
確かにレイに教えられた情報は鴻上製薬を悪とする物ではあったが、晶自身がそれを確認していない以上何かに決定を下す事は出来ない。
状況証拠だけで全てを断定してしまう昌明と、最後まで考えて辿り着いた結論から全てを決めていた晶は違うのだから。
――姿勢を低くする、だったわね
1つだけ教えられた言葉に従いながら、晶は非常口にカモフラージュされた工場部へと続く扉を開ける。
工場部は下で起こっている戦闘が嘘であるのではないかと思ってしまうほどに平穏だったが、階段から響いてくる轟音と振動は確かにグリーンアイドモンスターがここに居るのだと晶に理解させる。
そしてレイに言われた通りに速やかに脱出しようと歩み出した晶は、よく知った声に引き止められる。
「こんな所でどうしたんだい晶、って言っても大体分かるけどね。ブルームス君の独断専行だろう? 彼はいつもそうだ、困ったもんだよ」
「……父さん」
社屋への道を塞ぐように立っている、その晶がよく知っている声の持ち主は昌明・鴻上だった。
「どうしてそんな物を持っているんだい? まるでボンドガールかチャーリーズ――」
「父さん、どうしてあんな物を作ったの?」
センスが理解出来ないスーツに身を包む昌明に険しい目線を送りながら、晶は大きな賭けに出た。
もし昌明が知らないのであれば、1部の人間が昌明の意思を介さずにBLOODの製造を秘密裏に行っており昌明に罪はない。
もし昌明が知っているのであれば、昌明は罪のない人間を殺した大罪人だ。
冷静に考えてみれば賭けにもならない問い掛け、それでも晶は縋るような思いでそう問い掛けていた。
「何の話かな? ロビーの彫像に関しては晶もいいって言ってくれたじゃ――」
「誤魔化さないでちょうだい」
「……そういうところは日向子そっくりだよ、晶」
銃口は向けていないものの、昌明に銃を意識させるようにちらつかせながら晶は答えを促す。
今の晶には昌明を信用する事は出来なかったのだ。
「金さ、金が必要だった。それだけの話だよ」
「……お金のために皆を裏切ったというの?」
悪びれもせずに返された答えに、晶は憎憎しげに銃を握った右手を震わせる。
レイに傍に居て欲しいと願っていたが、同時にレイの言っている事が嘘であれば良いとも晶は願っていた。
しかし恋焦がれた男にも裏切られた晶の願いは、実の父にも裏切られてしまった。
「金がなければ鴻上製薬は公共の施設を潰させてこんな社屋を手に入れることなんて出来なかった、金がなければ晶をここまで育ててやれなかった、金がなければ加奈子君にも出会えなかった。僕は何か間違っているかい?」
「父さんは、その加奈子さんすら裏切っている事になんとも思わないの!?」
昌明の信じられない言葉に晶は思わず怒鳴り声を挙げてしまう。
婚約を報告してきた加奈子・飯塚は、父の事を頼んだ晶の言葉に涙すら浮かべていた。
そんな婚約者である飯塚を平然と裏切れる昌明の精神が、晶には理解出来なかった。
「それ以上に金がない方が恐いね。僕が金を失えば、加奈子君もきっと僕に愛想を尽かすだろうさ」
「そんなこと――」
「あるんだよ。晶に話してなかったけどね、日向子が1度僕に会いに来たんだ」
自身の言葉を遮った昌明の言葉に晶は驚愕から目を見開く。
16歳の誕生日に昌明と晶の前から姿を消した日向子、その母が父に会いに来た事など晶は知らなかった。
「再婚した男が職を失って金がない。昔の妻が困っているのだから、大企業の社長である僕が少しくらい金を分けてくれてもいいはず、それが出来ないなら週刊誌にあることないこと言ってやる、そんなふざけた事を言ってたよ。それでつい、カッとなっちゃってね。今思えばまだ若かったって事なのかな」
「……どう、いうこ――」
「殺しちゃったのさ、灰皿で1発だった。どれだけ薬学が進歩しても、人間死ぬ時は1瞬さ――それにしても今日は物分りが悪いね、晶」
その昌明の言葉に驚愕が薄れていき、形容しがたい冷たい不快感が晶の胸中に広がっていく。
日向子は確かに2人を置いて出て行った。
しかし晶は16歳まで育ててくれた日向子を悪い母だと思ったことはない。
そして日向子のそんな浅ましさも、昌明が怒りに駆られる様子も知らない晶は、両親の知らなかった一面に触れた困惑から、シャツの下に忍ばせているメダイを生地の上から撫でる。
「もしかしてまだアレを持っているのかい? 言ってくれればディオールでもティファニーでも何でも買ってあげたのに」
その晶の左手の行方を追っていた昌明は、不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
もう昌明にとってそのメダイは安物のアクセサリーでしかなく、自身を裏切った昔の妻の置き土産程度という感情しかないのだ。
「まあいいか――晶、よく考えてごらん。日向子は僕が研究に勤しんでいる間に別の男に股を開いて自分の欲だけ満たしていたんだよ? 僕だけならともかく、段々と晶にも興味をなくしていた。そんなの許せるわけないじゃないか」
静かに怒りを露わにする昌明の様子に、晶はシャツの生地ごとメダイを握り締めてしまう。
家族3人で暮らしていた頃の幸せそうだった父を知っている、母が出て行って悲しそうにしていた父を知っている、鴻上製薬が急成長を遂げて晶が第1総務部長になったのを喜んでくれた父を知っている。
しかし晶はこんな父を知らない。
「それにどうやって知ったのかは分からないけど、犯罪者の自供を強要するためのナノマシンを作ってた時に偶然生まれたBLOODのサンプルに興味を持った資産家がこう持ちかけて来たんだ。BLOODを向こう5年の間に兵器として使用出来るレベルまでしてみろ、その代わりに日向子の死体とあらゆる記録を消した上に会社を大きくしてくれる、ってね。その時僕は思ったよ、ようやく報われるんだって――そこからは人生最高だったね。好きな物を買えた、晶には美味しい物を食べさせてやれた、そして加奈子君のような素敵な女性に出会えた。何1つ不自由なんてなかった」
従来のナノマシン兵器と違い、死の前の行動を操る事が出来るBLOODは謀略を企む者達にとってこの上ない便利な道具だった。
それを材料に操るのも、ナノマシンを起動させた残り時間をどう使うのも自身達の思いのままになるのだから。
軽い態度の裏で自身に眠る怪物を飼い慣らしていた昌明、グリーンアイドモンスターと呼ばれていたレイ・ブルームス。
皮肉にも過去の日向子の所業に怒りを露わにしながらも、一貫して軽い口調で話し続ける昌明が、晶には人の皮を被った 化け物のように思えてしまった。
「さて、ここまで話した理由は分かるよね? その銃を置いて今日のことはもう忘れなさい。ブルームス君も明日には姿を消すだろう、それで全部おしま――」
「終わりにはさせないわ」
晶はそう言いながらついに銃口を昌明に向ける。
しかし晶の両手を添えられている銃は震え、お世辞にも弾が撃てるようには見えなかった。
「……晶」
「動かないで。劉さんとボヌール部長、それに過去の容疑者達はどうしているのかしら?」
自身でも情けないと思うその様子にあきれ果てたように深いため息をつく昌明に、晶は聞かなければならない事を問い掛ける。
BLOODの被検体にされていたとしても、奇跡的に生きている人間が居るかもしれない。
しかしその希望も昌明の軽い口調によって、簡単に砕かれてしまった。
「皆死んだっていうか、BLOODの被検体になってもらった。フィルマン・ボヌールは産業スパイじゃなかったんだけど、BLOODに気付いてしまったからね。きっと晶が作ってくれた報告書のおかげで、フィルマン・ボヌールは不正がバレたのを知って高飛びしたんだって皆思うはずだよ。それに信じられないけど紅蝶・劉も産業スパイだったよ。きちんと仕事をしたまえよ、鴻上部長。しかし怜・此花が殺したように見せかけるためとは言え、傭兵なんかと話をしなきゃいけないのは苦痛だったよ」
「……あなたはクズだわ」
饒舌に、それでいて小ばかにするような言葉を並べる昌明の言葉。
その言葉にに苛立ちを募らせた晶は、父と自身がもう引き戻せない場所まで来てしまっているのをようやく理解した。
自身は父の所業に失望どころか嫌悪感さえ抱き、父は人の命すら目的のためなら使い捨てるようになっていた。
「そのクズに尽くしてきたのは晶だよ――これが最後だ晶、銃を置いて今日の事はもう忘れなさい」
その昌明の言葉に晶の心が僅かに揺らぐ。
母を殺し、同僚と部下を殺し、BLOODというナノマシン兵器を作っていたとはいえ晶にとって昌明はあくまで父なのだ。
しかしそれと同時に晶の脳裏にレイ・ブルームスという男がよぎる。
どこまでが事実かは分からないがレイはBLOODの破壊のために鴻上製薬に訪れ、晶を守るために戦っている。
自身が裏切ってしまえば、あの男はどうなってしまうのだろうか。
そして晶は辿り着く、あの男を守ってやれるのは自身だけだという結論に。
「……あなたをしかるべき場所へ連れて行きます。娘として部下として、これが最後にわたしがしてあげられる事です」
劉を含む産業スパイ達はその命を玩ばれ、真実に辿り着いたフィルマン・ボヌールは濡れ衣を着せられた上で殺された。
それらの者達がBLOODという真実に辿り着いたのかは分からないが、そんなつまらない理由で人が殺されていい訳がない。
だが昌明がどんな捻じ曲がった人間であっても、晶にとってはたった1人の父なのだ。
だからこそ自身の手で終わらせよう。
しかし昌明は紫のジャケットの袖から銃を滑り出させ、そんな晶の考えごと撃ち抜かんとばかりに躊躇いもなく晶に向ける。
お互いに素人であるという事が分かる構え。しかし昌明には晶にはない、人を殺すという事に対する覚悟があった。
晶は咄嗟に引き金を引こうとするも、どれだけ力を入れても引き金はビクともしない。
「安全装置がついたままなんじゃないのか? すごいね、まるで映画の台詞みたいだ」
そう言いながら昌明はパニックに陥る晶を余所に、悠々と自身の銃の安全装置を外す。
その動作は軽やかで、娘を殺す事に躊躇いなどないのだと言わんばかりだった。
「さようなら晶、物分りの悪い子供は嫌いなんだよ」




