3. 二人の共通点
最近のアイリスはもっぱら執務室の机にかじりついている。領地の民達から上がって来る陳情に目を通し、問題解決のための策を模索し、根回しの手紙を書き、必要書類にサインをして、銀行への返済のための予算繰りに頭を抱える、そんな日々だ。
来客対応では父の代からの執事のフィルが共にいてくれるが、若い娘だからとなめてかかって来る連中相手には気が抜けない。
ようやく帰っていった領地内の市長を見送りため息をひとつ零した。
「お疲れ様です、お嬢様。お茶をお入れいたしましょう」
「ありがとうフィル。まったく市長にも困ったものね。あれだけ断っているのに、息子を秘書に、なんて」
「伯爵家と繋がりをもちたいのでしょうね」
「ほう、君の婿狙いってやつか?」
「え……、く、クライヴ殿下!?」
ほっと溜息をついたところで急に背後から現れたクライヴにアイリスは飛び上がりそうになった。
アイリスは貴族学院を二年ほど前に卒業したばかりの十八歳だ。貴族の娘であればそろそろ結婚の話が舞い込んでもおかしくない年頃。しかも当主の父を亡くした伯爵令嬢ということで婚約の申し込みはもう何件も受けていた。
クライヴは面白くなさそうな顔で顎に指を添えて呟いた。
「ふん、無駄な足掻きだな。ご苦労なことだ」
「別に私は殿下からの申し出も受けてないですけどね。というか、いらっしゃるなら先触れをください。ちゃんとおもてなしできないではないですか」
「そんなのは必要ないってこの前言っただろう」
アイリスはぶつくさ言いながらクライヴとフィルと共に屋敷内へ戻る。
クライヴがこうやって屋敷に突然現れるのはこれが初めてではなかった。初デートから三カ月。宣言通りにクライヴはそれからまた十日後にやって来た。その時はさすがに事前に手紙で訪問を予告していたが、それ以降は週に一度のペースで気まぐれにやってくるようになっていた。
最初こそ慌てていたアイリスだが、最近ではすっかり慣れつつある。
「私はこれから休憩時間でお母様とお茶をするんで邪魔しないでくださいね」
「それは残念だな。せっかく王都で君の好物の桃とリンゴのタルトを買ってきたのに……」
「え、ちょっと待ってください。そちらはいただきます!」
残念そうに手元の箱を見下ろすクライヴを振り返り、アイリスは手を伸ばしたがさっと手が届かない高さによけられてしまう。ぐう、とアイリスは悔し気にうめいた。
「し、しかたないですね! フィル、お客様の分もお茶の用意を!」
「本当に現金な奴だな」
最初のおうちデートでクライヴは王都で評判のリンゴのケーキを土産に持ってきた。
実はアイリスは甘いお菓子に目がない。
それがすぐにばれてしまい、クライヴは来るたび美味しい王都のお菓子を持参してくるようになったのだ。
おかげでアイリスは毎週のようにクライヴとお茶の時間を過ごしていた。
「かしこまりました。こちらのタルトに合う美味しい紅茶をご用意いたします」
笑いのこらえきれない様子でフィルが頷いた。
子ども扱いされているようで少々恥ずかしい。
「マリアの調子はどうだ?」
「おかげさまで最近は体調が良いみたいです。殿下のこともよくお話しになってます」
「俺のことを?」
「はい、ご幼少の頃はぬいぐるみのうさぎを離さなかったとか、お母様がいないと夜なかなか寝なかったとか」
「あいつめ……」
気恥ずかしいのか少し赤くなったクライヴを見て、アイリスはやり返してやったとふふんと笑った。
病気で寝込んでいることの多いマリアだが、最近は体調が良い。クライヴが来て昔のことを思い出したのか、懐かしそうに城勤め時代のことをアイリスに話してくれるのだ。
「俺は母が早くに亡くなって、マリアが母代わりのようなところがあったからなあ」
「それは……私と同じですね」
ぽつりと呟かれた言葉にアイリスは思わず振り返ってしまった。
アイリスも実の母を生まれてすぐに病気で亡くしていた。マリアが父と再婚してノーマン家にやって来たのはアイリスが五歳の頃だった。
確かクライヴの母で側妃だった女性は民間の出で、アイリスの母と同じく出産して間もなく亡くなったと聞いたことがあった。
「それでは……母親代わりだったお母様と離れるのは寂しくはなかったですか?」
「そりゃあもちろん、当時は俺もまだ子供だったしな。寂しかったし納得できなかった。……けど、約束したからな」
「約束?」
「いらっしゃい、クライヴ殿下」
廊下の真ん中で立ち止まっていると、ホールの階段からシーナと共にマリアがゆっくりと降りてきた。
クライヴが進み出てマリアに手を貸す。
「今日は顔色が良いな。土産を買ってきたから一緒にお茶の時間にしょう」
「まあ、嬉しい。すっかりエスコートが上手になりましたのね」
当然だろ、と返すクライヴを見てアイリスは内心首を傾げた。
約束、とはなんだろう。
マリアと幼い彼の間でどんな約束が交わされたのだろうか。二人しか知らないことがある、というのは正直あまり面白くない。
けれどなんとなくそれを強引に聞くのはためらわれた。
結果的にクライヴから母代わりのマリアを取り上げたのはアイリスになる。
(正確に言うと私のお父様だけれど)
幼少期の彼はどんな子供だったのだろう。
アイリスも母のいない寂しさを味わったことがあるからこそ、マリアがアイリスの母になった後のクライヴのことが少しだけ気になった。
「あ! お母様をエスコートするのは私です!」
「来たな、マザコン娘め」
「まあ、アイリスちゃんったらもう!」
「好きにおっしゃってください」
だからといって、もちろん彼女の子供の座は渡さないけれど。
アイリスは慌ててマリアとクライヴの間に割って入ったのだった。
季節が秋から冬に差し掛かる頃。
アイリスは庭にある物置小屋の片づけをしていた。
本来であれば貴族令嬢のすることではないが、使用人が執事のフィルと侍女のシーナしかいないので、時にはアイリスも家事をしなければならない。
もうずいぶんとほったらかしになっていた物置小屋が気になって片付け始めたものの、夢中になっていたら日が暮れ始めていた。
(……そろそろ灯りをつけないと)
薄暗い物置小屋は妙に静まり返っていて不気味だ。立ち上がるとギシギシと木の床が鳴り、それだけでびくりと肩が震える。
壁際の高い位置にあるランプに火をつけようと手を伸ばしたところで、背後から肩を叩かれた。
「おい」
「ぎゃー!?」
「うわ!? あぶない!」
幽霊!?
驚いたアイリスはそのまま足をもつれさせて倒れそうになったが、誰かに抱き留められていた。
クライヴが目を丸くしてこちらを見つめている。
「く、クライヴ殿下?」
「……大丈夫か? なにやってるんだ、まったく」
手に持っていた蝋燭とマッチを取り上げたクライヴがランプに火を灯すと、部屋がふわりと明るくなった。
ほっとアイリスは胸をなでおろして、自分がまだクライヴにしがみついて彼の服を掴んでいることに気がついた。
慌てて手を離して距離を取ると、ぱちりと一度瞬いたクライヴがにやりと笑う。
「なんだ、怖かったのか?」
「い、いいえ!? ちょっと驚いただけです。今日はこんな時間になんの御用で?」
「いや、日中から来ててマリアと話していたんだ。君は仕事が立て込んでいるみたいだったからな」
どうやら、アイリスがあまりにも遅いので様子を見に来たらしい。
そういえばシーナが途中で来て何か言っていたが、片付けに夢中になって聞き流していた気がする。
「申し訳ありません。倉庫の片づけに夢中になってしまって……」
「これは……」
「家族の肖像画です。子供の頃の物を整理していまして」
机に広げられた額に入った絵をクライヴが手に取った。
両親と幼い頃のアイリスが描かれている。
「お父様がお母様と再婚してすぐの頃のものです。だから私、こんなふてくされた顔してますでしょう?」
「本当だ。見事なふくれっ面だな。画家もよくこれを再現したものだ」
ぷっとクライヴが噴き出す。
肖像画に描かれたアイリスは、それはもう面白くないという顔をしていた。
「君は今はマリアが大好きなようだが、この頃は違ったんだな」
「ええ、なんだかお父様をとられたような気がして」
もしかしたらマリアが城を去ったあとのクライヴも同じような気持ちだったのだろうか。ふと、そんなことを思ってアイリスは苦笑した。
「私は子供の頃からしっかりしていて、お父様の面倒は私が見なければと思っていましたから。だから急に来たお母様にはもちろん戸惑いました」
当時、5歳のアイリスはなかなかマリアに懐かなかった。
マリアはマイペースでとてもしっかりした人には見えなかった。5歳のアイリスの方がよほどしっかりしている、と当時は思っていた。
「お母様は無理に私と仲良くなろうとはしませんでした。けれど、ないがしろにするわけでもなくて、私がお父様には言いづらいことには、なぜかすぐ気がついてくれたんですよね」
一緒にお出かけしたいこと。可愛い流行りの人形がほしいこと。髪の毛を編んでほしいこと。
そういうことを何も言わないのにマリアは不思議と気がついてくれるのだ。
わがままを言いたくてもあまり言えないたちだったアイリスの願いをマリアは叶えてくれた。
風邪をこじらせて寝込んだ時、ずっとそばにいてくれた。
どうして? と聞いたらマリアはいつものふんわりとした綿菓子のような笑顔で言った。
『当然でしょう。だって私はアイリスちゃんのお母様になったのだから、ずっと一緒にいるの』
「私は可愛くない義娘である自覚があったので、そのときはすごく嬉しかったけど、申し訳なくも思ったんです。それから、私は母の娘になりました」
「なるほどなあ」
「……あ、話しが長くなりましたね。すみません、こんな思い出話をしてしまって」
「いいや、聞けて良かった。君のことを知ることができて嬉しい」
どうしてこんなことを話してしまったのだろう。
アイリスは少し恥ずかしくなって顔を上げると、至近距離でクライヴと目が合った。
一瞬どきりとして慌てて距離を取る。
そういえば、二人きりであることを思い出したのだ。
しかも彼はアイリスと婚約したがっている。
……理由は死にたくないから、なのだが。
ぽん、と急にアイリスの頭に温かい手が乗る。
「アイリスはいつもずいぶんと気を張っているように見えるけど、そんな君が甘えることができるのがマリアなんだな」
「そ、そんなことは……」
なんだろうこれは。
急に胸の中にぶわりと温かい何かが広がっていくようだった。
息苦しくて心臓が爆発しそうだ。
言葉が出てこなくてアイリスは俯いた。耳まで真っ赤になっている気がする。
(そんなこと、誰にも言い当てられたことないのに)
「アイリス?」
「あの、ゆ、夕飯の支度を手伝ってきます! どうぞ召し上がっていってください!!」
二人きりでいることに耐えられず、アイリスは物置小屋を飛び出した。
すっかり暗くなった夜の庭は風が冷たくて熱くなったアイリスの頬を冷ましてくれる。
アイリスは両手で頬を挟んだ。
(どうして、昔のことなんて殿下に話したの? それにどうして殿下には私のことがわかったの?)
昔のことをつい話してしまったのは、なんとなくクライヴと自分に似ている部分があるような気がしたからだった。
生まれてすぐに実の母を無くしたこと。マリアが母代わりであったこと。
何度も懲りずにノーマン家に訪れる彼を迎えるうちに、なんとなく気を許してしまっていた。
「あら、アイリスちゃん。殿下はどうしたの?」
「お母様……」
屋敷に飛び込むと、居間のソファに座っていたマリアがきょとんとした顔でこちらを見つめていた。
「起きていて大丈夫なのですか?」
「ええ、今日は調子が良いみたいで。さっきまでクライヴ殿下とお話ししていたのだけれど、アイリスちゃんを捜しにいくって出て行ったのよ」
「あ、はい。少しお話しして、夕飯の支度のため先に帰ってきました」
「そう……? 何かあった?」
「いいえ」
じっとこちらを見つめて、妙に鋭いことを言うマリアにアイリスは真顔で首を横に振った。
何もない。あるわけがない。婚約話なんて受けるつもりはないのだから。
アイリスはマリアにぎゅっと抱き着いた。
「お母様、私はずっとお母様のそばにいますからね」
「アイリスちゃん……?」
「だからまた一緒にお菓子作りしたり、添い寝したり、お風呂入ったりしましょうね」
「もう、アイリスちゃんは甘えたさんねえ」
マリアのお腹に顔を押し付けながらアイリスはぎゅうと腕に力を入れる。
マザコンと呼ばれようとなんだろうと別にかまわない。
アイリスにとって一番大事なのはマリアのそばにいることなのだ。
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