第76話 新たな道を
こちら、本日二話目の更新となります。
関所なき国境地帯の一つ“不越大密林”を通るという当初の予定は、やはり棄却された。
それはユリエッティ一行の話し合いの末でもあり、また同時に、実際に“不越大密林”の近辺を見てきた人物からの情報もあってのこと。そしてその人物──堂々と関所から国を渡った傲握流グランドマスター、ファルフェルナ・アンがユリエッティの眼の前に現れたのは、ディネトから連絡を受けた僅か数週間後のことだった。
「──早くね?」
あれよあれよという間にやってきたユリエッティの師匠だとかいう女に、ムーナは思わずそう突っ込んだ。ユリエッティとヴィヴィアのお墨付きで味方に引き入れることが決まり、以降は合流を果たすため、ディネトを仲介して都度潜伏地を伝えていたが……とはいえあまりにも迅速過ぎる。一行がヨルド北西の針葉樹林にたどり着いた丁度その日の晩、野営の準備をしている最中に、ファルフェルナ・アンが姿を現したのだ。得体が知れない、がムーナの第一印象だった。
なお「逃亡犯の居場所を密かに共有するとは、私もついに犯罪の片棒を担いでしまいましたか」とは、なんとも複雑そうなディネトの言である。ファルフェルナからは尋常ではない圧力をかけられて。ユリエッティからは、万が一を考えヴィヴィアの存在や状況は伏せたまま、ただ点々と移ろう居場所を伝えられるだけ。これでは不安も不満も心配も湧こうというもの。彼女の心労に、コトが終われば五体投地で謝罪することをユリエッティは改めて誓った。
ともかくそうして、どこか殺風景な森の中で、ユリエッティ、ムーナ、ヴィヴィア、ネビリュラ、ファルフェルナが火を囲んでいる。ファルフェルナが持ち込んだ食材のお陰で、今日の夕餉はいつもより少しだけ豪勢なものになっていた。もっとも、まだ誰もそれに手を付けてはいなかったが。
「飛ばしてきましたからね。ああご心配なく、車は見つからないようしっかりバラして埋めておきましたから」
「ぉ、おぉ……」
冗談なのか何なのか分かりづらいことをのたまうその表情は、飄々としている。
うなじで一本に束ねられた長髪は深い水面のような藍色で、その髪質と顔立ち、肌艶はユリエッティより五、六歳上といった雰囲気ではある。しかしユリエッティ曰く、彼女は初めて会ったとき──すなわち十年ほども前からまったく老けていないらしく、傍目にはヒト種にしか見えない容姿の、年齢の、真実を知るものは誰もいない。
「師匠に関しては、細かいことは気にしたら負けですわ。わたくしもよく分かっていませんもの」
「ふっふ。謎多き女、という事でここは一つ」
字面にすればユリエッティと同じような、けれどもどこか胡散臭い声音の微笑を漏らすファルフェルナ。わずかにかかる前髪の奥、瞳の色の窺えない糸目が、さらに怪しさを加速させている。ほかに見て明らかなこと言えば、ゆったりとした枯れ草色のローブ越しにも分かるほどに、豊満な肉体を有しているという点くらいか。
これが世間では人格者扱いされているのかと、ムーナがそう思ってしまうほどには得体が知れず、何なら恐ろしい。間違いなく強者の、それも最高峰にある存在としての威圧感を放っている。事前に説明を受けていたとはいえ、ネビリュラに対して何らのリアクションも見せない豪胆さ。キシュルとはまた違ったプレッシャーに、ムーナとネビリュラは二人して身構えてしまう。横目で見やるユリエッティが、ふっと苦笑を浮かべた。
「師匠、あまり脅かさないであげてくださいな」
「……いやすみませんね、中々強そうだったものでつい」
ファルフェルナが再び笑めば、合わせて空気が弛緩した。
指向性を帯びて放たれていた闘気のようなものが霧散する。ムーナとネビリュラの肩からも力が抜け、ただ一人、ヴィヴィアだけが最初から何も気付かないまま曖昧な笑みを浮かべていた。
「さて、改めて──久しいですね、我が弟子よ」
「会えて嬉しいですわ、師匠」
合流から少し、ようやっと真っ当な師弟めいた言葉を交わす二人。ディネトを怯えさせてまで居場所を知りたがった、魔動車を乗り捨ててまで会いに来たわりには落ち着いたやり取り。ファルフェルナはそのままさらりとユリエッティの隣、ヴィヴィアへ視線を移した。詳細は伝えられないままに助力を請われた、彼女こそがその理由なのだということくらい、誰にでも察せられる。
「何やら複雑な事情がある様子でしたが……まさか、貴女がこんな所にいるとは。我が弟子に誘拐でもされましたか?」
「ふふ、そうとも言えるかもしれませんね」
世間に吹聴されているユリエッティの罪状は、ファルフェルナも知るところである。ヨルド要人の娘の誘拐。なるほどその真の被害者はヒルマニア第二王女であったか……などとは勿論、考えるはずもなく。ムーナとネビリュラの自己紹介もそこそこに──やはりここでもファルフェルナは、二人の異質さにまったく触れなかった──、ヴィヴィアの口から事情が語られる。
……そのあいだに、半ば蚊帳の外と化したムーナとネビリュラはもちゃもちゃと夕餉を食べ始めていた。
「──成程、それで我が弟子が無実の罪を着せられたと」
「ええ、はい」
一番大事なのそこなんだ……と、若干の呆れを示したのは蚊帳の外二人組。
ユリエッティとヴィヴィア(とチェリオレーラ)はファルフェルナの反応を端から織り込んでいた。だからこそ、彼女は信用に値するのだと。
「というわけで師匠の手を借りたいのですわ。国境を越え、ヴィヴィアとともに王都へ向かうために」
「勿論、我が弟子の望みとあれば何だって。とはいっても貴女も知っての通り、私にできるのは拳を振るうことくらいですけども。追手を撒くだの目を掻い潜るだの、そういった知略を授けるなんてのはできませんよ?」
「ええ、ええ。その師匠の強さこそが頼りになるのですわ」
「ふっふ、悪い気はしませんね」
得体のしれない糸目が一度、ふんにゃりと緩み。ただその一瞬だけでムーナとネビリュラは感じ取った。“同類”だと。ユリエッティに陥落している者の目だと。
「当初予定していた“不越大密林”ルートは読まれている。そうですわね師匠?」
「ええ、来がてらに確認しましたが、明らかに厳戒態勢でしたよ」
見てきて欲しいとはそういう事情だったんですねぇ、とどこか呑気な口調のファルフェルナ。
「まぁ正直、師匠がいれば“不越大密林”だろうが関所だろうが強行突破は可能かもしれませんが……」
「居場所やルートを知られること自体が、大きな危険とロスを伴う」
ユリエッティ、ヴィヴィアと言葉を続ければ、ムーナ、ネビリュラがむしゃむしゃもちゃもちゃやりながら頷く。この四人のあいだではすでに今後の計画は固まっており、またその準備も──ネビリュラ主導のもと──進んでいた。行く先はすでに定まっている。
「であれば新たな道を。敵方もまさかこの人数この装備で挑むだろうとは思わないルートを行くしかないですわ」
すなわち、大陸は北の果て。今いる広大な針葉樹林を越えた先。もっとも恐ろしい国境と呼ばれる魔峰“北端山脈”の横断を。




