第38話 近況報告
「──と、言うわけでして。しばらくは野営中心の生活になりそうですわ〜」
〈……また何とも、妙な事になっていますね〉
危険区域“途絶えの森”にて。声量は抑えめながら、不気味な夜の雰囲気を払うような軽妙な声で、ユリエッティは遠話器を使って通話をしていた。相手は遠く離れたヒルマニア王都のギルド職員、ディネト。焚き火の前に座り込み、ムーナを両足のあいだに抱き込みながら、このところの近況を伝え聞かせる。
「ええ、ええ。まさかこんなことになるとは、わたくしも思ってもみませんでしたわ」
ユリエッティらがネビリュラと二度目の邂逅を果たしてから、はや数日。二人は一度人里まで戻って諸々の物資を補充したのち、再び森の中へと踏み入っていた。今はその一日目の夜、明日の昼下がりにはネビリュラの野営ポイントまで戻れる算段である。
ヴァーニマのギルドには既に、討伐の是非云々は伏せたまま『変異粘性竜』の生態観察のためしばらく危険区域近辺に留まる旨を伝えており──二人が帰ってこないのを良いことにレルボがまた威張り散らしていると冗談交じりの愚痴が返ってきた──、反してディネトとの通話は、あくまで友人への近況報告としてのもの。だものでディネトも、あれこれ指示を出すでもなく所感を述べるに留めていた。
〈確かに話を聞く限りではその『変異粘性竜』──ネビリュラでしたか、非常に特異な個体である事は間違いないでしょう。私も管轄内であれば、ええ、生態調査を進言していた可能性はあります〉
「ふふ。ディネトさんなら、危険区域まで同行していたかもしれませんわねぇ」
言いながらユリエッティは、右手でムーナの顎下をくすぐる。される側のムーナは、やめろと言いたげなジト目と共に後頭部でユリエッティの胸元をぐりぐりやっていたが。しかし決して、腕を振り払ってまで逃げようとはしない。そんな二人の攻防を知ってか知らずか、ディネトの声音はいつも通り平坦なもので、しかしムーナの鋭敏な獣耳は遠話器越しのその声までしっかりと拾っていた。
〈本当に人類と同じような価値観を形成しているのであれば、それは言うまでもなく前例の無い事ですから〉
ネビリュラが竜人とモンスターのあいだに産まれた子だという部分は、アドビュラとの約束に従い伏せている。それも相まってディネトはネビリュラを、自然発生した変異個体中の変異個体という風に解釈しているようだった。
「ええ、だからこそ慎重に判断しなければなりませんわ」
〈……とはいえ、お二人の身の安全を第一に。あまり無理はなさらぬよう〉
やはりネビリュラがただのモンスターで、明日にも突然襲いかかってくる可能性だって決してゼロではない。話を聞いただけのディネトの脳裏には、どうしたってそんな考えもよぎってしまう。とはいえしかし、ストレートにそう告げることは憚られ、結果、言葉は当たり障りのないものに。そんな意図をユリエッティは当然汲み取って、静かに笑みを深めた。
「ええ、勿論ですわ。ディネトさんも、お仕事頑張ってくださいな」
〈はい、お互いに。ムーナ様も〉
「んっ、んー」
盗み聞きしてたのバレてんじゃん、と、少し気まずそうに返事をするムーナ。照れ隠しにか、押し付ける後頭部の勢いも気持ち強まっている。見えているわけでもなかろうに状況を察してか、「では」と通話を終えるディネトの声音には、少しの笑みが混じっていた。
「──ふふ。すっかり盗み聞きが癖になっていますわねぇ」
「うっせ」
別に何でもかんでも誰でも彼でもというわけではない。ユリエッティが許してくれるラインは見極めている。それでもまあ、あまり健全とは言い難い癖なのもまた事実。なのでムーナは、わざとらしく話題を変えた。
「……しっかしアレだな、ネビリュラの話……前例がないって言うとたぶんアタシもだし、アンタってなんかそういうの引き寄せる体質だったりすんの?」
「……さて、どうなのでしょうねぇ」
その言葉でふと、ユリエッティの脳内で忘れかけていた出来事が思い起こされた。今と同じような、夜の森の中で聞こえた声が。
(わたくし自身も無意識のうちにそう思っていたからこそ聞こえた幻聴……だったのかもしれませんわねぇ)
そういうこともあるのかもしれない。一つ頷き、その勢いのまま顎先でぐりぐりと、ムーナのつむじを刺激する。やーめーろー、とかなんとか下から聞こえてくる気がするが、やはりそのわりには離れようとしないのだから可愛らしい。ユリエッティはますます笑みを深めながら、就寝の時間まで健全にムーナを愛でていた。
◆ ◆ ◆
そうして翌日、予定通り午後にはネビリュラの野営地までたどり着いたユリエッティとムーナ。
「雨が降る前に建てられて良かったですわ」
「だな。アタシらも手慣れてきたってわけだ」
湿り気の強まっていく空気を肌に感じながら、設営したテントを前に二人は得意げに頷き合っている。対して、狩りから帰ってきたらテントが一張り増えていたネビリュラは、むにょぉ……と顔をしかめていた。
「……ねぇ。近い」
「あらネビリュラさん、先日ぶりですわ〜」
「ですわー」
「近いってば」
真隣というわけではないが、お互い常に視界の端には入っているような。そんな距離感で建てられた小さなテントに、狼系モンスターの死骸を引きずりながら、ネビリュラは苦言を呈する。
「ふふ、しばらくはご近所さんですわ」
反応を窺い、本気の拒絶ではないことを確かめながら、微笑んで返すユリエッティ。ムーナは素知らぬ澄まし顔。なにか言い返そうとネビリュラが再度口を開きかけ……その顔にぽつりと落ちてきた雨粒にひとまず閉口した。
野ざらしにされていた焚き火跡の上に天幕を張り終えた頃には──当然のようにユリエッティらも手伝い、そしてまた当然のようにその下に腰掛けを持ち込んできた──、あっという間に雨も本降りに。木々の枝葉やテント、頭上の天幕に当たる雨が、それぞれ微妙に違った音を鳴らす。
「……思っていたより、騒がしくなりそう」
薄暗さを増した森の中で、解体の準備をしながら、ネビリュラがため息交じりに呟いていた。




