まさかの緊急事態
一度耳にしただけでは理解できなかった。
ローザにもう一度言ってほしいと頼むと、今度はゆっくり報告してくれた。
「マントイフェル卿が、ゴッドローブ殿下を庇い、ケガを負ったそうです」
現在意識不明で、生死の境を彷徨っているという。
「治療に集中するため、面会はお断りしているそうです」
彼が騎士である以上、このような事態は想定していた。
けれども、マントイフェル卿の命を狙っていたゴッドローブ殿下を庇って、致命傷を負ってしまうなんて……。
これ以上の不幸はないだろう。
頭を抱えた瞬間、窓からコツコツと小さく叩くような音が聞こえた。
音の正体は二時間ほど前に送った鳥翰魔法である。
窓を開けると勢いよく入ってきて、〝宛先不明〟とだけ文字が浮かび上がった。
どうやら、マントイフェル卿へ送った警告文は届かなかったようだ。
「ローザ、ありがとう。下がってくださいな」
「は、はい」
彼女が去ったあと、私はその場に頽れる。
『ニャニャー!』
ガッちゃんは銀色に輝く糸を私にそっと差しだす。それは今朝、マントイフェル卿に繋げた魔法の糸である。
一方的に、私の声や振動を届けられる代物だ。
すぐに糸を握り、声をかけてみた。
「リオン様、わたくしの声が聞こえますか?」
驚くほど、か弱く震えた声になってしまった。もしも聞かれていたら、笑われていただろう。
けれども今、彼は意識がないのだから、聞こえるわけがなかった。
『ニャニャ、ニャー!』
糸を使い、容態を確認に行ってこようか? とガッちゃんが提案してくれた気がした。
けれども、ローザから聞いた以上の情報は得られないだろう。
「ガッちゃん、今はわたくしの傍にいてください」
『ニャア』
めそめそしている場合ではない。治療に当たっている医者がゴッドローブ殿下の手の者ならば治療と称し、手にかけることも可能なはずだ。
どこか安全な医院に転移させたほうがいいのではないか。
すぐに侯爵夫人のもとへ行き、マントイフェル卿の状況について話す。
侯爵夫人にも連絡が届いていたようだったが、すでに手を打っていたようだ。
「侯爵家が懇意にしている医者を数名派遣したわ。彼らの目があれば、下手な治療はできないはずよ」
腕のいい医者ばかりなので安心して待っておくといい、という侯爵夫人の言葉に頷いたのだった。
◇◇◇
それからというもの、なんだか嫌な予感がしたので、侯爵夫人の許可を得てフロレンシが待つコテージに戻った。
今日はメイドと共に本を読んでいたらしい。
「さっきまでナルがいたのですが、侍女さんがやってきて、お屋敷に連れ戻されてしまいました」
「そうだったのですね」
ナルというのは、少女に扮したレオナルド殿下である。
フロレンシは相手が王子殿下だと疑わずに、仲良く遊んでいるようだ。
急に連れ戻されてしまったのは、王妃の滞在が決まったからだろう。
「なんだかみんな、ハラハラしているように思います」
「ええ……」
子どもは大人達の些細な変化に敏感なのだろう。
フロレンシを抱きしめ、大丈夫だからと声をかけておく。
「お母さんも、いつもと少し違います」
マントイフェル卿が致命傷を負ったと聞いてから、平静を保てなくなっているのだろう。
貴族の淑女たるもの、いかなる状況でも感情を面に出してはいけない。そういう教育を受けていたのに、フロレンシにあっさり見透かされてしまうなんて。
「少ししたら、何があったか話しますね」
「はい、わかりました」
物わかりがよすぎる子に育ててしまい、申し訳なくなってしまう。
私達を取り巻く問題が解決したら、フロレンシを思いっきり甘やかそう。
たまには我が儘を言えるような環境を作らないといけない。
緊急事態だからといって、いつもと異なる行動をしたらフロレンシが不安に思うに違いない。なるべく、普段と同じように振る舞わなければ。
ひとまず夕食の用意でもしよう。
「レン、一緒にお料理を作りましょう」
「はい!」
メイドには早めに家に帰るように言っておいた。
念のため、ガッちゃんに頼んで侯爵家に結界を張ってもらう。
これで、不届き者が立ち入ることはできないだろう。
「お母さん、今日は何を作るのですか?」
「干しタラのムニエルにしようかな、と考えていました」
「干しタラ! 大好きです!」
干しタラというのはビネンメーアの名産品である。
ヴルカーノにはない物だったので、話に聞いたときは驚いたものだ。
干しタラは新鮮なタラを塩付けにし、乾燥させたものである。
もちろん、そのままでは食べられない。
何度か水を換えつつ塩抜きしなければならないという、非常に手間暇がかかる食材なのだ。
塩抜きした干しタラの身は、カラカラに乾いた状態からふっくらとした身に戻る。
これを調理するというわけだ。
切り分けた干しタラに、パン粉に刻んだ乾燥香草を混ぜたものをまぶしていった。この作業はフロレンシに手伝ってもらう。
ガッちゃんは魔法で作った糸で、バターを切り分けてくれた。
鍋にバターを落とし、溶けるまで火を入れる。これに干しタラの皮目を下にして焼いていくのだ。
ジュワ~っと焼き色が付いていく。表面がキツネ色になったら完成だ。
フロレンシは干しタラのムニエルが気に入ったようで、三切れも食べた。
私は正直なところ、マントイフェル卿の容態が気になって気が気でなく、食欲なんてまったくなかった。
けれども何か口にしないと倒れてしまうだろうと思って、無理矢理にでも詰め込んだ。
以前の私だったら、何も食べていなかっただろう。
ビネンメーアにやってきてから、ずいぶんと逞しくなっていたようだ。
今日は早く眠ろう。
そう思っていたのに、まさかの訪問で目を覚ます。
やってきたのは屋敷に届いた手紙を運んでくれたアニーであった。
「こちら、先ほど早馬でドーサ夫人宛に届けられたものです」
「あ、ありがとうございます」
こんな夜遅くにいったい誰なのか。
差出人を見るために封筒をひっくり返す。そこに書かれていた名前は、ゴッドローブ殿下のものだった。
いったいなんの用事で手紙を寄越したのか。
もしや、マントイフェル卿の容態を知らせる手紙か。
震える手で封を開く。中には一枚のカードが入っていた。
そこに書かれてあったのは、王妃の首飾りを盗んだ犯人について話したいので来てほしい、というものだった。




