苦しみ
一瞬、何が起きたのかわからなくなる。
けれども体は勝手に動いていて、倒れたマントイフェル卿のもとへ駆け寄った。
眉間にぎゅっと皺を寄せ、苦しげな表情でいる。息が詰まるような激しい呼吸を繰り返していた。
「マントイフェル卿、大丈夫ですか!? マントイフェル卿!!」
肩を叩きながら声をかけるが返事はない。意識はないと言っていいだろう。
急いで体の向きを変えなければ、息が詰まってしまう。
まずは顔を横に向け、左右の腕を胸の前に持ってくる。
見た目はすらりとしていて細く見えるのに、いざ持ち上げたら丸太のようにずっしりと重たい腕だった。
両膝を立てて肩を掴む。そのまま膝を横に倒しながら、肩をぐっと持ち上げた。
「う、うううう!!」
マントイフェル卿は見た目に反して体が重たいのか、なかなか横向きにできない。
『ニャ!!』
ガッちゃんが手伝うと言ってくれた。
マントイフェル卿の膝に糸を巻き付け、一緒に引っ張ってくれる。
すると体が横向きになった。
これは以前、父が吐血したさいに、お医者様から教えてもらった体位変換法である。この体勢でないと、血の塊を吐いたときに、喉に詰まって窒息する可能性があるのだ。
父の体で練習したときは簡単にできたのに、マントイフェル卿は見た目に反して体が重いのか。びくともしなくて驚いた。
手伝ってくれたガッちゃんには感謝しかない。
マントイフェル卿は何度か咳き込み、血を吐き続ける。
背中を摩りながら、思いっきり叫んだ。
「誰か!! 誰か来てくださいませ!!」
このような大きな声を出したのは、生まれて初めてである。
貴族女性が大声を出すのははしたない、と習った覚えもあったが、今はマントイフェル卿の命がかかっていた。なりふりなんて構っていられない。
すぐさま店の給仕係がかけつけてくれた。
「いかがなさったのですか?」
「パンケーキを食べたあと、血を吐いて倒れたんです! お医者様を呼んでください!」
給仕係はこくりと頷き、すぐさま駆けていった。
マントイフェル卿は血を吐かなくなったものの、今度はガタガタと震え始める。
少しでも温まるように、腕や背中を強く摩った。
いったい誰が、彼をこのような目に遭わせているのか。
歯がゆい気持ちで医者の到着を待った。
十分後――やってきたのは騎士隊の制服に身を包んだ、四十代前後の男性である。
お医者様ではなかったので、驚いてしまった。
「彼は、マントイフェル卿かね?」
「はい、そうです」
騎士の男性はマントイフェル卿の脈や額に手を当てたり、瞼を開いて瞳孔を確かめたり、医者がするような動作を見せていた。
さらに、銀色の缶を取り出し、中に入っていた軟膏をマントイフェル卿の唇に塗る。
すると、マントイフェル卿の荒い息が整い、まるで眠っているかのような状態になった。
「私は隊医だ。怪しい者ではないから心配しないように」
「は、はい」
何も言っていないのに、私の疑問なんぞお見通しだったようだ。
騎士隊のお医者様だと聞いて、ひとまず安堵した。
マントイフェル卿には痛みを抑える鎮静剤と睡眠薬が混ざったものを与えたようだ。
その場しのぎの処方なので、治ったわけではないらしい。
隊医の先生は懐から魔法陣が描かれた布を取り出し、マントイフェル卿の口に付着した血を拭う。
何か呪文を唱えていたようだが、何も変化はない。
「これは……毒ではない?」
独り言のような呟きだった。
「マントイフェル卿がパンケーキを食べた瞬間、吐血したと言っていたね?」
「はい」
隊医の先生は立ち上がり、テーブルを眺める。
「手前にマントイフェル卿が座り、奥に君が座っていた?」
「ええ、そうです」
「マントイフェル卿の前にパンケーキがないということは、君が分け与えたのだな? さらに君も同じパンケーキを食べたと」
こくりと頷くと、隊医の先生はフォークを手に取って凝視する。
「もしもパンケーキに毒が混入されていたら、この銀のフォークは黒くくすむだろう」
「では、パンケーキが原因ではない、ということですか?」
「その可能性が高いというだけだ」
隊医の先生が腰からぶら下げていた鈴を手に取って鳴らすと、隊員達が次々と入ってくる。
マントイフェル卿は丁重に運び出されていた。今から騎士隊へ連れ帰り、治療を行うらしい。
「君も同行してもらう」
「はい」
騎士が私の左右に立ち、どうぞと導かれる。
ここで、私は今回の事件の重要参考人、もしくは容疑者として任意同行を頼まれたのだな、と気付くこととなった。
◇◇◇
それから私は客間のような部屋に通され、女性騎士から事情聴取を受けた。
思ってたよりも丁重な扱いで、騎士達が去っても施錠はされていなかった。
私が犯人だと疑われているわけではないようだ。
それから三時間も放置され、いてもたってもいられなくなる。
マントイフェル卿の容態も気になっていた。
部屋の外に出ると、年若い女性騎士が二名立っていて、「いかがなさいましたか?」と声がかかった。
「あの、マントイフェル卿がどうなったか、ご存じですか?」
「治療を受けていると聞いております」
どうやら彼女達も、詳しい話は知らないようだ。
「もうしばし、ここでお待ちください」
「はい」
もしかしたら今日は帰れないかもしれない。
そう思って、侯爵夫人に手紙を送りたいので、便箋を用意してもらえないか頼みこむ。
「申し訳ありません。現在、ご夫人は外との接触を控えるよう、上から命令がでておりまして」
「はあ……。では、どなたか私とマントイフェル卿の現状を侯爵夫人に伝えていただくことはできますか?」
「それでしたら可能です」
私とマントイフェル卿を取り巻く状況については詳しく話せないようだが、ある事件に巻き込まれて、しばらく帰れそうにない。心配はしないでほしい、という伝言を言いに行ってくれるようだ。
フロレンシは驚くだろうが、私を信じて帰りを待ってくれるだろう。
それからというもの私はガッちゃんと共に、夜になるまでこの部屋で待機することとなった。
食事やお菓子、紅茶などが運ばれてきたが、とても食べられるような状態ではない。
ガッちゃんもマントイフェル卿が心配なのか、大好きな角砂糖を与えても食べようとしなかった。
想定外の事件に巻き込まれ、自分でも信じられないくらい動揺していた。
イルマを手にかけたのはマントイフェル卿ではないのか、という情報の真偽を調べるために彼との外出をしただけなのに。
まさか、マントイフェル卿の命を狙う者が現れるなんて。
犯人はいったい誰なのか。
彼の交友関係について把握していないので、容疑者すら立てられない。
ため息ばかり吐く私のもとに、想定外の訪問者がやってくる。
先に女性騎士がやってきて、驚くべきことを耳打ちした。
「ゴッドローブ殿下が夫人と話したいそうです」
「!」
王弟であり、マントイフェル卿の護衛対象であるゴッドローブ殿下がやってくるなんて。
驚きのあまり目を丸くしていたら、ゴッドローブ殿下が優雅に現れた。
「あなたとは初めまして、かな?」
「は、はい。ララ・ドーサと申します」
「ヴルカーノの貴族だと、リオンから聞いていますよ」
どうやらマントイフェル卿は私について、ゴッドローブ殿下に話していたらしい。
いったい何を聞かせているというのか。胃がジクジク痛んできた。
「今回のことはとても驚いたでしょう?」
「はい」
「リオンについては心配はいりません。原因はわかりましたし、治療も成功しました」
彼が吐血した理由は、驚くべきものだった。
「リオンが血を吐いて倒れたのは、何者かから受けた呪いのせいだったようで――」




