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【完結】泥船貴族のご令嬢、幼い弟を息子と偽装し、隣国でしぶとく生き残る!  作者: 江本マシメサ
第四章 忍び寄る影

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フワフワのパンケーキ

「ララ、今、困っていることはない?」

「いいえ、まったく」

「何かあるんじゃないの?」

「ぜんぜん思いつきません」


 フロレンシは侯爵家の支援を受け、かなりレベルの高い教育を受けている。

 私自身だって侯爵夫人のもとで、のびのび働いていた。

 これ以上望むものなんてない。


「そっかー」

「どうしてそのようなことをお聞きになるのですか?」

「いや、ララに大きな恩を売って、尊敬されたいなー、って思ったものだから」


 今現在、誰かの助けなんて必要としていない。


「侯爵夫人のおかげで、不自由のない暮らしをしておりますので」

「残念だな。あ、そうだ。旦那さんは? あんまり大きな声では言えないけれど、ヴルカーノに忍び込んで、こっそり処分できるよ」


 こっそり処分するというのは、暗殺するという意味だろう。なんて恐ろしいことをさらりと言うのか。

 さらにそれは、小首を傾げながら言う提案ではない。


「けっこうです」

「なんで? 酷い目に遭っているのに、この世からいなくなってほしいとか、一度も思わなかったわけ?」

「犯罪ですので」

「思うくらいだったらタダだし、罪にはならないよ」


 たしかに、誰かの死を願うだけならば、罪ではない。

 それでも、私はこれまで、誰かの命が尽きてほしいなどと思ったことはなかった。


「わたくしの知らないところで、誰にも迷惑をかけずに生きてほしい、くらいは考えたかもしれませんが」

「ララは優しいんだね。涙が出そうだ。君は生まれてから結婚するまでは、優しい世界で生きてきたんだろうね」


 マントイフェル卿の言うとおり、メンドーサ公爵家で育った私は優しい世界の住人だっただろう。

 時間が巻き戻る前の人生も、父が亡くなるまでは幸せだったから。


「……僕も、優しい世界で生きられるかな?」

「大きな幸せを望まなければ、あなたも優しい世界の住人になれると思います」


 ようは気持ちの持ちようなのだと私は思っている。

 不幸だ、不幸だと嘆いていては、すぐ傍にある幸せや他人の優しさになんか気づけないのだ。

 私の言葉を聞いたマントイフェル卿は、目を丸くして見つめてくる。


「わたくし、変なことを言いましたか?」

「ぜんぜん! そっか。別に、難しいことじゃないんだ」


 マントイフェル卿は憑きものが落ちたようなスッキリとした顔で、何度も頷いていた。

 彼の深い事情は知らないが、悩み事がひとつ解決したようでよかったと思う。


 そんな会話をしているうちに、マントイフェル卿がオススメしてくれたパンケーキが運ばれてくる。

 フワフワとしたボリュームのあるパンケーキが三段重なっていた。

 ヴルカーノでは薄いパンケーキが主流なので、見た目にまず驚いてしまう。


「こんなに生地が膨らんだパンケーキは初めてです」

「そうなんだ。ここ最近は、こういうのが流行っているみたいだね」


 ビネンメーアでも、ここまで分厚いパンケーキはこれまでなかったという。


「フランデーヌ王国の王女だった王妃殿下が久しぶりに故郷のパンケーキを食べたいって言ったのがきっかけで伝わって、瞬く間に流行ったみたい」

「そのような経緯いきさつがありましたのね」


 温かいうちにどうぞ、と勧められたのでいただく。

 ナイフを入れると、驚くほどやわらかい。フォークで突き刺したときも、これまでのパンケーキと異なることがわかる。

 シロップやジャム、生クリームなどが用意されていたが、まずはそのまま食べてみよう。

 ドキドキしながら頬張る。

 すると、舌の上でシュワッと消えていった。優しい甘さが口の中に広がっていく。

 これまで食べた覚えがない、新感覚のパンケーキだった。


「ララ、どう?」

「信じられないほどフワフワで、とってもおいしいです……!」

「そう、よかった」


 ここで、マントイフェル卿のもとには紅茶しか運ばれていないのに気付く。

 まだ一口も飲んでいないようで、カップから湯気が立ち上るばかりだった。

 サービスで出てきたサブレすら食べていない。


「あの、マントイフェル卿はパンケーキを頼まなかったのですか?」

「うん、僕はいいよ」

「甘い物が苦手……というわけではありませんよね?」


 侯爵邸にやってきたときは、私が作ったチュロスにチョコレートをたっぷり付けて食べていた。

 甘い物好きなのだとずっと思っていたが、今日は食が進まないのか。

 なんだかひとりだけ食べるというのも悪い気がしてくる。

 と、ここである提案をしてみた。


「マントイフェル卿、パンケーキを一口食べてみませんか?」

「君のパンケーキを、僕にくれるの?」

「ええ」


 そこまで変な提案ではないのに、マントイフェル卿は顎に手を当てて考え込むような素振りを見せる。

 私も改めて考えてみた。

 一口あげるということは、私がパンケーキを切り分けてマントイフェル卿の口へ運んであげないといけない。

 俗にいう、「あ~ん」というやつだ。

 それを、恥ずかしげもなく「一口食べませんか?」と言ったのだ。

 フロレンシではあるまいし、他人でしかないマントイフェル卿に対して大胆な提案をしてしまった。

 今になって、盛大に照れてしまう。


「あ、あの、今の発言はなかったことに――」

「もらおうかな」


 え!? と驚きの声をあげそうになった口を、慌てて塞ぐ。

 自分で言ったのに、びっくりするなんてありえないだろう。

 まさか、本当に食べるなんて夢にも思っていなかった。

 言うだけ言って、ひとりだけパンケーキを食べる罪悪感から解放されようと思っていたのだ。 


 発言には責任を持たないといけない。

 震える手でパンケーキを切り分け、生クリームをたっぷり載せた。

 フォークに突き刺し、マントイフェル卿へと差しだす。


「ど、どうぞ」

「ありがとう」


 マントイフェル卿は身を乗り出し、パクりとパンケーキを食べた。

 口の端に生クリームが付いたが、ペロリと舐める。

 赤い舌がちらりと覗いた瞬間、まるで見てはいけないものを目にしてしまった気がして、慌てて目を逸らした。


「うわあ、これは世界一おいしいパンケーキだな。ララが食べさせてくれたからに違いない」

「おおげさですわ」


 動揺を悟られないように言葉を返したのに、早口になってしまった。

 パンケーキを食べ終えたマントイフェル卿は、とてつもなく心が満たされたような様子でいた。

 やはり、彼は甘い物が大好きなのだ。

 よほどおいしかったのか、幸せそうに目を細めている。

 少し、瞳が潤んでいるのは気のせいだろうか。


「また、食べさせてほしかったな」


 それはもう二度と叶わないことに対する言葉のように聞こえてしまう。

 いつも調子がいい彼ならば、「もう一口!」くらい言いそうだが。


「僕も、ララが教えてくれた優しい世界の住人になりたかったのに」


 その言葉はほの暗く、夢も希望もないような声色だった。

 いったいなぜ、そのようなことを言うのか。

 マントイフェル卿の顔を見た瞬間、衝撃の場面を目にしてしまう。


「……げほ!」


 マントイフェル卿は口元を手で覆い、一度だけ咳き込んだ。

 真っ赤な何かが、滴り落ちてくる。

 あれは――血だ。

 マントイフェル卿は吐血したあと、そのまま倒れてしまった。


「なっ!?」 

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