彼の言い分
ついに、迎えの馬車がやってきた、とメイドから声がかかった。
もう逃げられない。
腹を括って、マントイフェル卿と向き合うしかないのだ。
胸飾りと化した相棒、ガッちゃんだけが頼りである。
「ガッちゃん、今日はよろしくお願いしますね」
『ニャ!』
ガッちゃんはいつになく勇ましい表情と声で、返事をしてくれた。
フロレンシの見送りを受けながら、玄関を出る。
そこにはすでに一台の馬車が乗り入れられていた。
息を整えてから馬車に乗ろうとしたのに、すぐに扉が開き、中からマントイフェル卿が下りてくる。
襟が詰まった黒いジャケットにズボンとブーツを着用し、肩掛けマントを合わせた恰好で登場する。
いつもは近衛騎士の制服姿なので、私服を見るのは初めてだった。
首元のボタンは閉められておらず、首筋から白い肌がちらりと覗く。いつもよりもいくぶんかラフな恰好だ。
マントイフェル卿は私を見るなり、喜んで駆け寄る犬みたいな雰囲気でやってきた。
「ああ、よかった。すっぽかされたらどうしようって思っていたんだ」
「あなたとの約束をすっぽかす女性なんて、いらっしゃるのですか?」
「ううん、いない! でも、ララはしそうだな、と思って」
「わたくしはそのような不誠実なことはしません」
「そうじゃなくって。なんて言えばいいのかな、もしもレンが急に病気になったら、来ないだろうなって思っていただけ」
たしかに、いくら約束していたとしても、レンが病気になったら当日でも断るだろう。
その辺は認めないといけない。
「でも、それが普通ではありませんの?」
「普通、貴族の子どもにはたいてい乳母がいるから、看病は任せて遊びに行くものなんじゃない?」
「そう……ですのね」
そういう人がいるのか、と内心驚いてしまう。
実家にいた頃、レンが熱を出したら一日中傍にいて、看病していたものだ。
当時、乳母はいたものの、なるべく付き添ってあげるようにしていた。
「理解できない、って顔をしているね」
「いえ……。子育てをしない貴族は、珍しくありませんし」
同じ屋敷に住んでいるのに、家族とめったに顔を合わせない貴族だって大勢いる。
ただ私は、幼少期から両親に囲まれて育ったし、長年ひとりっ子だったから、弟が生まれたときは嬉しくて、かわいくて、どうしようもなく愛おしくて、片時も離れたくないと思っていたのだ。
「ララみたいな母親がいるレンが羨ましいな。愛されて、さぞかし幸せなのだろうね」
まるで、自分は幸せではないという、どこか投げやりにも聞こえる言葉だった。
愛は目に見えず、心でも感じにくいものもある。
わかりやすく愛情を示す、という行為は簡単なようで、実は難しいのかもしれない。
「僕の母親はけっこう自分勝手な人でね、僕なんか二の次三の次だったような気がする」
いつも明るいマントイフェル卿の瞳に、暗く沈んだ色が滲む。
どういう環境で育ったら、このような目付きができるというのか。
今の関係で、踏み込んでいい話題ではないだろう。
会話が途切れたタイミングで、そろそろ行こうかと声をかけた。
「では、お手をどうぞ、ご夫人」
「ええ、ありがとうございます」
こうやってエスコートされるのは想定済みである。
手と手が触れ合った瞬間、恥ずかしくなってしまう。
頬や耳が赤くなってませんように、と祈るしかない。
平常心、平常心と心の中で繰り返し、馬車に乗りこんだ。
マントイフェル卿が乗りこんで剣の柄で御者が座る席の壁を叩くと、馬車は動き始める。
気まずさを感じる前に、話しかけた。
「今日はどちらに行きますの?」
「まずは舞台を観て、そのあと喫茶店でお茶を飲んで、買い物をして、食事をして――そのあとはどうする?」
「帰ります」
「やっぱりそうなるよねー」
一日中みっちりと予定を入れているのに、それ以上どこに行くというのか。
思わずぐったりと脱力してしまう。
ここに来るまでに感じていた緊張も、どこかに行ってしまった。
「それにしても、夢みたいだな。まさかララが一緒に出かけてくれるなんて」
「マントイフェル卿のほうこそ、わたくしみたいな既婚者に興味を示すなんて驚きですわ」
思いのほか刺々しい物言いになってしまったが、マントイフェル卿がダメージを受けている様子はない。
「普段だったら、既婚者はお断りなんだけれど、ララは特別だね」
「あら、どうしてですの? 既婚者相手に遊んだほうが、後腐れがない気がするのですが」
「いや、後腐れありまくりだよ。ゴシップ誌でよく報じられているけれど、人妻に手を出して、旦那さんから殴り込みを受けたり、うっかり妊娠させて多額の養育費を請求されたり……。目も当てられないようなトラブルが多発しているみたいなんだ」
不誠実な付き合いをしているから、そういう目に遭うのだろう。
「わたくしは夫がビネンメーアにいないので、その辺は心配はいらないってわけですのね」
「いや、違う。君はなんていうか、特殊なパターンだと思う」
「特殊、ですか?」
「そう」
「夫から逃げてきているから、ですの?」
「いいや、それも違う。ララの場合は、夫の存在がまったく感じられないんだ。なんて言うのかな、まるでいないような、そもそもこの世に生きてないのではないか、っていう、不思議な感じ」
マントイフェル卿から夫について指摘され、ドクン! と胸が激しく鼓動する。
「ララ、旦那さんの名前、聞いてもいい?」
「――っ!」
旅券には家名であるドーサの名前しかなかった。
聞かれるなんて想定していなかったので、わかりやすいほどうろたえてしまう。
マントイフェル卿の瞳が、私の嘘を見抜いているように鋭く突き刺さる。
けれどもそれは一瞬で、すぐに表情が和らいだ。
「ごめん。暴力を受けていた夫の名前なんて、口にしたくもないよね」
そういうふうに言えばよかったのだ、と今になって気付く。
ただそれは、微笑みながら言うことではないのだが……。
「まあ、なんて言うか、ララは僕を見るなり警戒心全開で睨んできて、そのあと侯爵夫人を庇うように間に立った行動を取ったところが、他の女性とは違うなって思うようになったんだ」
マントイフェル卿を睨んでいるつもりなど毛頭なかったのだが、侯爵夫人を守るような動きを取ったのは事実である。まさかその点について気付かれていたなんて、夢にも思っていなかった。
「言葉を交わしても、君のツンケンした態度は変わらなくて、この人はどうしてこうも頑ななんだって思ったら、子どもがいると教えられて、その子を守るために強くなったんだ、って知ったら、なんだか俄然、興味を抱いてしまったんだよ」
何もかも見透かされていたようで、恥ずかしくなる。
普段、おちゃらけた態度しか見せないのに、初対面の頃から注意深く観察されていたようだ。




