知らない天井
時間が巻き戻る前の世界で、私は他人からの悪意を浴び続け、利用されてきた。
――お前はただ、言うことを聞くだけでいいんだ!
――弟が大事だろう? だったら、さっさとやるんだ!
――悪いのはすべてグラシエラなんだ! 私は関与していない!
こうなってしまった原因のすべては、私がただ感情に流されていただけではなく、途方に暮れるほど弱かったから。
他人の悪意を跳ね返せるほど強くなりたい!
そう願っていたのに、私は――。
「――はっ!!」
瞼を開くと、見慣れぬ天井に気付く。
周囲はカーテンで目隠しされていて、薬品の匂いが漂っていた。
おそらくここは医務室なのだろう。
私はいつの間にか、誰かに運ばれて眠っていたようだ。
少し身じろいだだけで、頭がズキンと痛んだ。
「大丈夫?」
優しげな声に返事をしようとした瞬間、ハッと我に返った。
起き上がろうとしたのに、手で制されてしまう。
「しばらく安静にしているようにって、お医者さんが言っていたよ」
普段のおちゃらけた物言いとは異なる、静かで落ち着いた声で話しかけてきた。
その声の主はマントイフェル卿だ。
「あの、わたくしはいったい、どうしてここに?」
「突然倒れたから、運んできたんだよ。ね、ガッちゃん?」
『ニャー!』
ガッちゃんは私の傍にやってきて、フワフワの体で頬ずりしてくる。
「お医者さんに状況を説明したら、精神的なショックで倒れたんだろうねって、言っていたよ」
「精神的な、ショック……」
それは間違いなく、王妃の首飾りを目にしたことが原因だろう。
思い出しただけでも、ぶるりと震えてしまった。
「マイン公爵の娘さんと話す前にも、何かあったの?」
ズバリと指摘され、ギョッとしてしまう。
こういう反応をしてしまったら、何かありましたと言っているようなものだ。
「やっぱり、何かあったんだ」
「いえ、その、王妃殿下とカリーナ様の関係を巡る双方の対立に、驚いただけです」
自分でも驚くほど、嘘がするする出てきた。
「今日のところは、そういうことにしておくよ」
そして、嘘であることもバレていた。
少し気まずくなったので、早口で質問を投げかけてしまう。
「あの、ゴッドローブ殿下の護衛はよろしいのですか?」
「うん。もう仕事は終わったんだ」
ゴッドローブ殿下と公妾は早々に会場をあとにし、私室でお酒を酌み交わしていたらしい。
マントイフェル卿は護衛任務を部下に任せ、王妃の誕生パーティーに少し顔を出そうと思っていたところだったと言う。
「そこで、君と会ったんだ」
「そういうわけだったのですね」
マントイフェル卿は頷きながら、落ちかけていたブランケットを被せてくれる。
いつもは矢継ぎ早に話しかけてくるのに、今日は物憂げな表情で唇を結んでいた。
いったいどうしたのか。私の視線に気付いた彼が、思いがけないことを言ってくる。
「君はこの国の社交界に、あまり関わらないほうがいい」
「それは、どうしてですか?」
「華やかに見えて、裏側はドロドロとして汚いんだ」
それに関しては、ビネンメーアだけではないだろう。
ヴルカーノの社交界だって、清く正しいものではない。
「ララはこれから、美しいものだけを見て、おいしい物をお腹いっぱい食べて、ぐっすり眠って、すてきな服を着て過ごすんだ」
「マントイフェル卿……」
「そして、ゆるやかに老いて死んでほしい」
途中までよかったのに、最後の言葉で真顔になってしまう。
それは私を笑わせようとして言ったのではなく、本心から口にした言葉だったようだ。
戸惑う私を、マントイフェル卿はきょとんとした顔で見つめる。
「あの、マントイフェル卿、どうして死ぬ瞬間まで言ったのですか?」
「え、眠るように自然に死ぬのって、とっても幸せなことじゃない?」
「そう、でしょうか?」
「そうだよ。痛くもないし、辛くもないし、苦しくもない。理想はかわいい孫が起こしにきて、〝お祖父さん、いつまで眠っているんですか? お寝坊さんですね。……お祖父さん? お祖父さん!?〟みたいな最期がいいかな」
「かわいい孫に死亡確認をやらせないでください」
ぐったりと脱力してしまう。
けれども彼との会話のおかげで、張り詰めていた心が落ち着いたような気がした。
いつの間にか気力も回復したので、ぐっと起き上がる。
「マントイフェル卿、ありがとうございました」
「なんのお礼?」
「いろいろと助けてくださったことへの感謝ですわ」
「そっかー。ララに恩を売ってしまったかー。お礼はデート五回分とかでいいよ」
「申し訳ありません。ヴルカーノに夫を残してきている身ですので、デートはお断りします」
「あーーーーー、そうだった!!」
会ったことすらない夫の存在が、私を助けてくれた。
やはり、フロレンシの母親としてビネンメーアにやってきたのは大正解だったようだ。
「チュロスでしたらいつでも作りますので、お暇なときはいらしてください」
「ああ、いいね。君の作るチュロスはとてもおいしいから、楽しみにしているよ。紅茶も淹れてほしいな。君の紅茶は特別だから」
「何杯でもお淹れします」
「ありがとう」
マントイフェル卿は美しい微笑みを浮かべる。
いつもの胡散臭さが滲む笑みではなく、心から喜んでいるように見えた。
なんとか双方が納得する場所に着地できた。
そろそろ帰らないと、侯爵夫人やフロレンシが心配するだろう。
立ち上がろうとした瞬間、目の前に手が差しだされる。
「ララ、侯爵邸まで送っていくよ」
いつもだったら断っていたが、今日はどうしてか彼に甘えてもいいのではと思ってしまう。
差しだされた手にそっと指先を重ねると、マントイフェル卿は優しく握り返す。
少しドキッとしてしまったが、気のせいだと言い聞かせておいた。
王城付近では馬車が大渋滞していたが、マントイフェル卿は関係者だけが通れる道を使って帰ってくれた。
おかげで、早くもなく、遅くもない時間帯に帰宅できたのだった。
◇◇◇
翌日、レイシェルが私を訪ねてやってきた。
「ララさん、ごめんなさい! 会場で落ち合う予定だったのに、ぜんぜん見つけられなかったの」
「仕方がありませんわ」
王妃派と公妾派の小競り合いがあったし、あの人混みの中で知り合いを探すのは困難だろう。
「実は、お祖母様にララさんを連れて帰るように言われていたの。帰り道、たいへんな渋滞だったでしょう? どうやって帰ったの?」
「それは――マントイフェル卿に偶然会いまして、送っていただきました」
「まあ、そうだったの。意外と親切なのね、彼」
マントイフェル卿の行動は意外でもなんでもなかったが、レイシェルは引っかかったらしい。
「あの人、親切そうに見えて、そうでないって話を聞いていたものだから」
たしかに、一筋縄ではいかない様子はちらつかせていた。
「どうしてララさんに親切なのかしら?」
「気の毒な異国人だと思っているのかもしれません。あとは、侯爵夫人の傍付きですので、下手な扱いはできないのでしょう?」
「うーん、そうとは思えなくて」
マントイフェル卿の行動に、レイシェルはいったい何を感じたのか。
私は気まぐれな好意としか思っていなかった。
疑問に思う中で、思いがけない情報がもたらされる。
「実は、マントイフェル卿はイルマの婚約者だったの」




