社交界の大問題
気配もなく現れたので、飛び上がりそうになるほど驚いてしまった。
それはレイシェルも同じだったようで、ただでさえ大きな瞳を丸くしながらマントイフェル卿を見つめる。
「あー、なんというか、驚かせてごめん」
足音とか鳴らしながら近付けばよかったね、などと言っていたが、必要以上にびっくりしたのはほんの数秒前までマントイフェル卿の話をしていたからだ。
もしかしたら、聞かれていたかもしれない。
他人についてああだ、こうだと言っていたから、天罰が下ったのだろう。
「それで、なんの話をしていたの?」
聞かれてしまったからには、適当にはぐらかすことはできないだろう。
正直に打ち明ける。
「今度王妃殿下の誕生パーティーに参加することになったのですが、レンをパートナーにして参加するのは年齢的に難しい、という話をしていただけです」
「あー、なるほど、なるほど。そういう話だったんだ。当日、ゴッドローブ殿下の護衛任務がなければ、立候補するんだけれどな」
唯一、パートナーを頼めそうなマントイフェル卿は仕事らしい。
「あー、でも、うーーん、護衛任務は部下に押しつけて、参加することもできるかな」
「マントイフェル卿はゴッドローブ殿下の護衛隊の隊長だという話を耳にしましたが、そのような行為など許されないのではないでしょうか?」
「うん、そのとおりだよ。ララならそう言ってくれると思って、期待してた」
思いがけず、マントイフェル卿の期待に応えてしまったらしい。
気の抜けるような会話に、ぐったりと脱力してしまいそうになった。
ひとまず椅子を引き、マントイフェル卿に席を勧める。
「あれ、侯爵夫人がいないけれど、レンに勉強を教えているの?」
「博物館に出かけているんです」
「ああ、前に話していたね。今日がそうだったんだ」
「ええ」
相づちをしつつ、紅茶を淹れる。ほかほかと湯気だったカップを差しだした。
マントイフェル卿はどうやら猫舌らしく、カップをじっと覗き込んでいる。
「ミルクを入れたら、紅茶を冷ますことができますが、いかがなさいますか?」
「あ、いいよ、このままで」
そう言って、マントイフェル卿は紅茶を飲む。すると熱かったからか、顔を思いっきり顰めていた。
「うっ、こんなアツアツの紅茶を飲んだのは久しぶりだ」
「猫舌なのですね」
「まあ、そうだね」
急いで飲まずに、しっかり冷ましてから飲んでほしい。
「それはそうと、ララはビネンメーアの社交界デビューをするんだね」
「侯爵夫人の代わりに顔を出すだけですわ」
社交界デビューと言うのは大げさだろう。
「ああ、そうだ。社交界内の恐ろしい派閥について話した?」
マントイフェル卿に突然話しかけられたレイシェルは眉尻を下げ、首を横に振った。
「あの、派閥というのは?」
「〝王妃派〟と、〝公妾派〟だよ」
なんでもビネンメーアの社交界には、王妃を支持する者達と、公妾を慕う者達が日々対立しているらしい。
「王妃は言わずと知れた、フランデーヌ王国出身の気高き女性で――」
サビーネ・ド・フランデーヌ、年齢は四十七歳。
年齢を感じさせないほどの美しさを保っているようだ。
子どもは二十六歳となる王太子、エンゲルベルトただひとり。
「公妾はシトリン公爵夫人、カリーナ・フォン・グラウノルン」
夫の亡きあと、十八歳の若さで国王の公妾となったらしい。
子どももいて、名前はレオナルド、年齢は八歳となる。
もともとカリーナは王妃が探し、国王にあてがったという。
なんでも十年前に国王は最愛とも言える公妾を亡くし、ショックのあまり臥せっていたらしい。
元気づけるために、王妃はカリーナを公妾として新しく迎えたのだ。
カリーナは王妃が選んだ女性である。初めこそは関係も良好だった。けれども状況が一変するような出来事があったようだ。
「国王陛下が公妾の息子、レオナルドに王位継承権を与えたんだ。その一件が王妃殿下の逆鱗に触れてしまって――」
どれだけ反対しても、国王はレオナルドに継承権を与えると言って聞かなかったらしい。
それほどカリーナを愛し、その子どもであるレオナルドを特別扱いしていた。
ただ、カリーナばかり優遇しては国王といえど立場が悪くなる。
そこで、国王は手を打ったらしい。
そこまで話したあと、マントイフェル卿は明後日の方向を見る。
どうやら言いにくい決定を国王は下したようだ。
レイシェルのほうを見ると、代わりに説明してくれた。
「国王陛下はもうひとりいた公妾の娘にも、継承権を与えたようなの」
ビネンメーアの歴史において女性王族は玉座に就くどころか、継承権すら与えられなかったらしい。
レオナルドに継承権を与えるために、国王は前例のない英断を下したようだ。
これにて問題は解決と国王は宣言し、その後、王妃がどれだけ抗議しても取り合わなかったという。
「それ以降、王妃殿下とカリーナ様の仲は険悪になっていったの」
同時に、王妃を支持する者と、カリーナを慕う者で社交界の派閥ができてしまったらしい。
「国王陛下の寵愛は今もカリーナ様にあるわ。だから、公妾派が少しだけ勢力が大きいのよ」
王妃との夫婦関係はすでに破綻しているらしい。そのため、王妃派は公妾派に圧されているような状況だという。
「私は王妃殿下を支持するほうに所属しているけれど、ララさんは気にしなくていいと思うの」
レイシェルの言葉に、マントイフェル卿も頷く。
「そうそう。双方の派閥の問題に巻き込まれないよう、僕みたいにのらりくらりとしていたほうが楽だよ」
マントイフェル卿はどちらにも属さない、中立派のようだ。
「中立というよりは、双方に興味がないって言ったほうがいいかな」
とにかく、王妃と公妾の問題にはなるべく首を突っ込まないほうがいい、と助言してくれた。
「でも、初めての夜会をひとりで参加するなんて、心細いだろう?」
「いえ、ガッちゃんがいますので?」
「ガッちゃん?」
小首を傾げるマントイフェル卿を前に、そういえば紹介していなかったと気付く。
「ガッちゃんは前にお話しした、わたくしと契約している蜘蛛妖精ですわ」
レイシェルが贈ってくれた角砂糖の瓶に隠れていたガッちゃんを、マントイフェル卿に見せてあげた。
初めて妖精を前にしたからか、驚いているようだ。
「へーーーー、これが蜘蛛の妖精なんだ。なんか、綿の塊にしか見えないんだけれど」
「かわいいでしょう?」
「まあ、たしかに」
かわいいと褒められて照れたガッちゃんは、長い足で顔を隠していた。その仕草は悶えるほど愛らしい。
「彼女はガラトーナ、わたくしの親友です」
「はあ、どうも。僕はリオン・フォン・マントイフェル、です」
『ニャ!』
マントイフェル卿が握手をしようと手を差しだすと、ガッちゃんは小さな足を伸ばして指先にちょこんと触れた。
「ララ、ガッちゃんはどんなことができる妖精なの?」
「得意なのはレース編みですの」
「レース編みか。だったらもしも襲撃を受けたさいは、レースを作ってもらって、ララが不審者の首を絞めるしか攻撃の手段はないのかな」
「恐ろしい話をしないでくださいませ」
戦闘能力でいったら、ガッちゃんはかなりの実力者である。
「糸を使って戦う技術はございます。もしも何かあったときは、ガッちゃんさえいたらなんとかなりますので」
「そうなんだ。それを聞いて安心したよ」
疑うならばマントイフェル卿を相手に実戦ができたのだが、あっさり信じてくれた。
「じゃあ、夜会でのララのパートナーはガッちゃんなんだね」
「ええ」
頼もしく、心強いパートナーだと思った。




