侯爵夫人の傍付きとして
フロレンシと一緒の寝台に寝転がり、鳥のさえずりで目覚める平和な朝を迎える。
まだ太陽は昇りかけなのだろう。カーテンからわずかな明かりが差し込むばかりであった。
フロレンシは慣れない船旅で疲れているのか。ぐっすり熟睡しているように見える。
私が起き上がっても目覚める気配はまったくなかった。
背伸びをし、頬を叩いてやる気を出す。
ガッちゃんはすでに目覚めていたようで、私の肩へと跳び乗ってくる。
囁くように朝の挨拶をすると、同じように小さな声で『ニャ』と返してくれた。
こっそり寝台から抜け出し、洗面所へ移動した。
蛇口を捻ると、当たり前のように水が出てくる。
ありがたいと思いつつ顔を洗い、歯を磨いた。
ヴルカーノから持ち込んだ華美でないドレスをまとい、鏡台に腰かける。
侯爵夫人に仕える以上、化粧くらいはきちんとしなくてはならない。
普段よりも丁寧に化粧を施したあと、櫛を手に取る。
ビネンメーアでは未婚女性は髪を下ろし、既婚女性は髪を結う習慣があるようだ。
櫛を手に取り、髪を纏める。
二十年生きて、自分でこうして髪を上げるのは初めてである。
私の髪は細くてツルツル滑るので、なかなか上手くまとまらない。
手間取っていたら、ガッちゃんが手伝ってくれると言う。
『ニャア!』
「まあ、ガッちゃん、頼めますか?」
任せてくれ、とばかりにガッちゃんは胸をポン! と打っていた。
ガッちゃんは糸を器用に操り、私の髪を三つ編みにして後頭部で纏めてくれる。
ビネンメーアでよく見かける、既婚女性の髪型であった。この形に結うのは難しいので、簡単なシニヨンにしようと考えていた。
この髪型のほうが、侯爵夫人の傍付きとしてふさわしいだろう。
最後にガッちゃんは、レースのリボンを結んでくれた。
ガッちゃんがリボンの端を摘まんで見せてくれたのだが、美しいスズランがあしらわれた美しい意匠だった。
「ガッちゃん、ありがとうございます。とてもすてきな髪型です。リボンも気に入りましたわ」
『ニャー!』
頑張れ、というガッちゃんなりの応援に思えて、とても嬉しかった。
姿見でおかしなところがないか確認する。
今日から私は、身分と名前、年齢を偽って、侯爵夫人の傍付きとして働く。
実年齢よりも上に見られていたので、二十五歳の子持ち、という設定に無理などないのだろう。
フロレンシを立派に育てるために、頑張らなければ。
自らを奮い立てつつ、台所へと向かった。
朝食はフロレンシが好きなパンケーキを作ろう。
生地に擦ったレモンの皮を入れるのが特徴で、なるべく薄く焼いて仕上げるのだ。
ガッちゃんもお手伝いしてくれるようで、卵の殻をせっせと捨ててくれたり、零れた小麦粉を拭いてくれたりと、おおいに活躍した。
生地ができあがったら、山のように何十枚とパンケーキを焼く。
これだけでは味気ないので、ゆで卵と温野菜のサラダを作った。
食卓に料理を並べ、あつあつの紅茶を用意しておく。
フロレンシを起こしに行くと、すでに起きていて、着替えをしているようだった。
「あ、お母さん、おはようございます」
「おはようございます。もう起きていたのですね」
「はい、ずいぶん前に」
ひとりで着替えようと、あれこれ頑張っていたようだ。
「お母さんがやってくる前に、着替えておきたかったのですが」
「ひとりで起きたことだけでも、とてつもなく偉いです」
フロレンシの頭を撫でてあげると、眉間にできていた皺が和らいでいった。
「今日はパンケーキをたっぷり焼いたので、たくさん食べてくださいね」
「パンケーキ! 嬉しいです!」
フロレンシは十枚もパンケーキを平らげる。つい最近まで三枚食べたらお腹いっぱいだ、なんて言っていたのに。
子どもの成長は本当に早いものだ、としみじみ思ってしまった。
朝食が済んだあとは、フロレンシに課題を出しておく。
「今日はこの本を読んで、そのあとこちらの問題集を解いておいてくださいませ。わからないところは飛ばしてくださいな。お昼休みに、一緒にしましょう」
「わかりました」
私はこれから、侯爵夫人のもとへ行って傍付きのお役目を果たす。フロレンシをここに残すのは心配だが、しっかり働いて教育費を稼がなければ。
念のため、ガッちゃんをフロレンシの傍に置き、何かあったら私のもとへ来るようにと言っておいた。
「ガッちゃん、レンのこと、よろしくお願いしますね」
『ニャ!』
もう少し暮らしが安定したら、家庭教師やメイドを雇いたい。
「ではレン、ガッちゃん、いってきます。お昼になったら一度、戻ってきますので」
「はい、いってらっしゃい!」
『ニャア』
急いで屋敷のほうへと向かい、まずは厨房を覗きに行く。
「あら、これは――?」
厨房は明かりすら点いておらず、真っ暗だった。
料理長から侯爵夫人についての情報を聞きたかったのに、誰もいない。
メイドがいる気配すら、屋敷から感じなかった。
使用人達の定休日は三日後だと聞いていたのに。
仕方がないと思い、侯爵夫人の寝室へと向かった。
レイシェルから侯爵夫人は早起きだと聞いていたので、すでに目覚めているだろう。
扉を叩いたものの反応はない。もしかしたら中で倒れているのではないか、と心配になったので、勝手に入らせていただく。
「侯爵夫人、失礼いたします」
寝室は誰もいなかった。カーテンはすでに開かれており、明るい太陽光がさんさんと降り注いでいる。
寝台の脇に置かれているかごの中には、脱いだ寝間着がきれいに折りたたまれていた。
どうやら侯爵夫人はすでに起床していて、どこかにいるということになる。
今の季節はたいていコンサバトリーにいるとレイシェルが話していた。
急ぎ足で向かう。
すると、侯爵夫人の姿を発見した。昨日と同じように、温室内に置かれた椅子で紅茶を飲んでいたようだ。
私がやってきても反応を示さないので、申し訳ないと思いつつも声をかける。
「あの、おはようございます」
無視されるかもしれない、と思っていたが、侯爵夫人は私を振り返った。
「あなた、レイシェルが連れてきた御方ね」
「はい、ララ、と申します」
「知っているわ。昨日、聞いていたもの」
名前を覚えられていないのではないか、と思って先走って名乗ってしまった。
きちんと記憶されていたようで、申し訳なく思う。
「あなた、何をしに来たの?」
「その、何か御用がありましたら、申しつけください」
「ないわ」
それっきり、侯爵夫人は再び私に背を向けた。
ズーン、と気持ちが滅入ってしまう。
「あの、朝食はお召し上がりになったでしょうか?」
「ええ、ビスケットを一枚いただいたわ」
なんでも侯爵夫人は小食で、毎朝ビスケットだけで済ませているらしい。そのため、料理人が出勤してくるのはお昼前だと言う。さらに紅茶は魔石ポットで湯を沸かし、侯爵夫人が手ずから淹れたようだ。
「私、ひとりでなんでもできるの。あなたの助けはいらないわ」
「そ、そんな……!」
必要ないと言われ、どうしたらいいのかわからなくなる。
傍付きとしてここにいないと、いる意味がないのに。
どうすればいいのか。内心、頭を抱え込んでいたら背後より突然、声がかかった。
「あれ、珍しい。お客さんがいるな」
弾かれたように振り返る。
気配もなく佇んでいたのは、銀色の髪にエメラルドのような瞳を持つ、美貌の青年であった。




