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緑香

 緑香さんの右手が動く。私は白蓮の前に体を入れた。私なんかより、白蓮と百夜ちゃんの方が生き残れる可能性は高い。


「ふーちゃん!」


 後ろから白蓮の叫び声が上った。お前はいつも騒ぎすぎ。後を頼むよ白蓮。私は自分の体に来るであろう衝撃に備えた。情けないことに両手は自分の顔の前だ。これじゃ盾にならないよね父さん。


「風華さん」


 私はその呼び声に顔から手を下した。体にはまだ何の穴も開いていない。私の目の前にはにこやかな笑顔を浮かべた緑香さんが居た。その笑顔にはそれまで私が感じていた違和感は全くない。彼女の周りには沢山の水の粒が赤く煌めき、それを映す彼女の瞳はまるで宝石の様だった。


「ここは、私が押さえます。船に皆さんの荷物と僅かですが食料を積んでおきました」


「緑香さんも一緒ですよ!」


 緑香さんが再び右手を振る。彼女の周りの水滴が一瞬消えたかと思うと再び現れ、私達の背後で何かが倒れる音がした。


「気にしないでください。私はもうはるか昔にすでに死んだ人間なんです。お化けなんですよ。『神』がくれたこの体も長くは持ちません」


 緑香さんが私の手を握る。その手は前に握った時と比べてとてもざらついた感じだった。


「お化けでもちょっとだけうらやましいですね。今なら私にも見えます。あなたの大事な人はずっとあなたの()に居たんですね」


 彼女の私を握る手に力が入る。


「風華さん、大事な人を守るときはその人が傷つくことすら恐れてはいけません。私は兄を止められなかった。それだけが私の心残りです。どうかご無事で、そしてお幸せに」


 私の目にも、彼女の目にも涙があふれる。何言っているんですか!あなたはお化けなんかじゃない。涙を流すお化けなんているわけないじゃないですか? 私と同じ人です。『魂』をもった人です!!


 白蓮が彼女の前で一礼すると、私の手を引いた。私は白蓮に引きずられるように船着き場への道を走った。船には私達の荷物と大きな籠が二つに、小さな籠が一つ。その籠の上には赤い林檎が一つ乗っている。


 旋風卿が世恋さんと歌月さんを船底に横たわらせた。白蓮は背負った百夜ちゃんを船にのせると、船のもやい綱を解いだ。そして桟橋に立ちすくむ私を抱き上げると船に飛び乗った。旋風卿が櫓をこぐ音が湖面に響く。


 今や炎は島全体を包むかのように、そして辺りを真昼のように照らしている。旋風卿の漕ぐ櫓の音とともに、その炎と煙が少しづつ私達から遠ざかっていく。その遠ざかる炎と煙を背後に、桟橋の上に一つの人影が現れた。


「緑香さん!」


 私は船が大きく揺れるのも気にせず、その影に向かって大きく手を振った。その人影は右手を上げたかと思うとその手を小さく動かした。


「良き、狩り手であらんことを」


 隣に座る白蓮がその意味を私に伝えてくれた。白蓮が、旋風卿が、人影に向かって右手を上げて人差し指をぐるりと回し、親指を立てた拳を上へと突き上げる。私もそれにならった。私の最後の言葉は彼女に届いただろうか?


 人影はゆっくりと桟橋の上へと崩れ落ち、煙の中へと消えていった。


 白蓮がしゃくりあげる私の肩をそっと抱いてくれる。緑香さん、どうかあなたに安らかな眠りが訪れますように。


「赤娘、なぜ泣く。お前は彼女を救ったんだ」


 百夜ちゃんは私にそう告げると、頭巾を目深にかぶり直した。


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