厳禁
「緑香さん、この辺りって私たち以外の人達って来ますでしょうか? 特に男の方とか?」
緑香さんが肌着を持ち上げる手を止めて、怪訝そうな表情をする。
「上着と細履きも手入れをしようと思うのですが、その間肌着になってしまいますし、その肌着もできれば洗い終わったものと交換したいのですが、さすがに誰かに見られると、恥ずかしいかななんて思いまして……」
「ああ、そういう事ですか。ここには私たち以外はこないと思います。もし来たら、私の方で声を掛けさせていただきます」
「助かります」
でもこの肌着はできれば自分で洗いたいところだけど……お願いした方がいいかな? 先ずは自分で水に入れてからお願いしよう。一応周りを見て、私たち以外が居ないのを確認し、腰と肩にかけている帯革、皮の上着と細履きに革長靴を脱ぐ。それらにつけたりぶら下げたりしてたものも全部外す。
これ、全部脱ぐのっていつぶりだろう。なんか体がすごく軽くなった気がする。匂いを嗅ごうとしたけどやめた。どうせろくなものじゃないのは分かっています。
これらを近くの岩に掛けて、白蓮の装備からくすねて来た、皮の手入れをするための蝋と油を練ったものを取り出した。これを塗って布で汚れを取らないといけないのだけど、なにこれ? 乾燥しきって使い物にならない。いつも帯革につけている銅の器でお湯を沸かして柔らかくしないと、とても使い物にならないな。
とりあえず、池の近くにあった石で小さな焚火炉を作り、そこに小枝と枯草を押し込んで、水を入れた器を置く。これをやるとマナ酔いするんだけど、火打ち石を持ってくるのを忘れたからしょうがない。
私の横10杖(10m)ほど離れたところでは、緑香ちゃんがマナで桶に水を張っている。ずっと連続でできるという事は、マナの量も半端ないということだ。なんかこんなすごい人の横で、種火つけるのにも躊躇している自分が、すごく情けない人に思えてくる。
大丈夫風華。貴方には白蓮という全く使えない人も身近にいるじゃないですか? 緑香ちゃんも含めて、周りの人達がおかしいんです。
私は覚悟を決めると、自分の鳩尾の下にある何かを感じるように意識を集中した。そこにあるもやもやとしたものを掴むと、それを前の枯草がある場所に伸ばして行くように意識を保つ。そして、そこに火が燃え上がる心像を描く。その心像に描いた火が枯草の上に小さな火種を作り、かすかな煙を上げた。もう少し意識を集中して、それがそこにある小枝全体へと広がるように心像を描く。
パチ、パチ
木の枝がはじける音がして、火が一気に広がった。乾燥しきっていない生木の枝から上がる白い煙が目に染みる。でも今日は調子がいいぞ、種火からいっきに火を広げられた。いつもならここは竹筒の出番になるところだ。
「ひっ!」
誰かのか細い悲鳴が上がった。悲鳴の先を見ると、それは緑香ちゃんの口から漏れ出たものだった。
いつもは表情に乏しいその顔の上に、明白な恐怖の表情が浮かんでいる。何が彼女をこんなにも恐れさせているのだろう? 次の瞬間、何かがぶつかり私の体は宙に浮いた。空を覆う真っ白な霧が見えたかと思ったら、私の体は水の中から波紋と泡を見あげていた。
あわてて口を閉じるが、すでに口に入った水でむせる。むせた私の口から盛大に出た泡が、水面へと昇っていくのが見えた。いまので肺の空気が全部でてしまったような気がする。下はどれだけ深さがあるのか分からないが、足が底に着く気配はない。体を浮かせないと。
手を必死にかいて体を縦にしようとするが、冷たい水の中で、肌着を着たままの手と足は思うように動かない。あれ、私はここでおぼれて死んじゃうのかな?
何かの力が私の体を引っ張り上げた。周りが明るくなり、水の膜の外にさっきまで見ていた風景、葦の茂みが揺らいで映る。私の周りにあった水がはじけ、急に体の重さが戻り落下していく。私の体は池の周りの枯草の上に投げ出された。
私は背中を打った衝撃で再び激しくむせた。その激しい咳に、私の肺やのどにあった水が口から出て私の顔の周りを濡らす。だが肺に息が戻ってくるのを感じることが出来た。
私は激しくむせ続けながら、私の傍に立つ人を見あげた。緑香ちゃんだ。私は彼女によって池に投げ飛ばされて、彼女によって池から引き上げられたという事だろうか? 咳がまだ止まらないが、手をついて体を起こす。さっき打った背中がまだ痛い。
やっとの思いで上体を持ち上げたが、すぐには立てそうにない。濡れそぼった髪から落ちる水滴が私の顔を流れていく。
目の前の人物がすっと指を立てると、私の体から水滴が離れて周りに浮かんだ。次にその指が横に振られたかと思うと、私の周りに浮かんでいた水滴が、後ろの草の上に、通り雨が降ったかのような音を立てて落ちた。
「覚えておいてください。この里では火を使うのは厳禁です。最初にお伝えするのを忘れていました。申し訳ありません」
目の前の人物がそう言って丁寧に頭を上げた。さっきの水滴で私の汚れも飛ばされたのだろうか、わずかな水気だけを残した髪がとても軽く感じる。とりあえず髪をかき上げた私の前に、丁寧にたたまれた肌着が差し出された。
「そのお召し物も洗いますので、こちらにお着替えください」
緑香ちゃんの言葉に、私は機械の人形のように首を縦に振って頷くしかない。かなり恥ずかしかったがここで何か言って、もう一度池に放りなげられるのは困るので、素直に渡された肌着に着替えた。
結局、私は池のほとりの岩に座って、緑香ちゃんが私の上着類まですべてマナで洗浄していくのをぼっと眺めている。
私の手には彼女から「おなかがすきませんか?」と言って渡された私の拳より大きな林檎が二つ乗っている。大きな林檎で傷もない。私の店ではとりあつかわないような高級品だ。私はその一つを口にもっていって一口かじった。酸っぱさと甘みが口の中に広がる。
てきぱきと洗濯が終わった物をたたむ緑香ちゃんの姿を見ながら、とても親切な彼女と、躊躇なく池に私を投げ込んだ彼女の、どちらが本物の彼女なんだろうかと考えた。きっとどちらも本物の彼女なんだろう。
父が『神』というものがいるのなら、それは慈悲と罰の両方を与えるものだと言っていたのを思い出した。でも彼女から何か違和感を感じるのは何故なんだろうか? その理由は未だに良く分からない。
もうほとんどたたむのも終わって、籠に肌着を入れていた緑香ちゃんが、誰かに向かって手を振った。その動きに、緑の蝶の髪留めに結ばれた腰までの長い髪が揺れている。
見ると緑耶と名乗った彼女の兄(たぶんお化けではないのでしょうね?)が手を振りながら、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。相変わらずの男前だ。相当時間がたったので、心配して見に来たのだろうか?
『え!』ちょっとまってください緑香ちゃん!
私は肌着しか着てないんですよ!!




