恍惚
梯子を下りた先には、緑香ちゃんが相当お高いらしいマ石の角灯を持って待っていた。かわいい子だ。この子をお化けだと思うのはちょっと難しい。花輪ちゃんの面影が心に浮かぶ。もうちょっと大きくなっていたら、この子のような感じになっていたのだろうか?
「東側の空き棟で休んでいただく。私は他に少し用事がある。案内を頼むよ」
私達の後をするすると降りて来たお化けが、緑香ちゃんに告げる。頷く緑香ちゃん。やっぱりこの人達、おばけではないのかも!?
「では、そちらに置かれたものもお持ちになって、私について来てください」
どうやら槍やら剣なども、持って行ってもいいみたいだ。だが、一度すでに捕まったことがある身としてはまだ安心はできない。船を上がってから来た道を引き返し、途中から左手におれる。
先をいく歌月さんが、後ろ手に私が分からない手信号を送ってきた。だが後ろに続く旋風卿がゆっくりと首を振る。いったい何の相談だろうか? 私にはさっぱりだ。
先頭を行く緑香ちゃんは、後ろを全く気にすることなく角灯を片手に歩いていく。小屋の下の柱の中を抜けるような感じで、一番奥にある小屋の前まで来た。この小屋の梯子は最初から降りていた。
「もし、何か御用がありましたら、こちらの鈴を振っていただければ、直ぐにお伺いさせていただきます」
彼女が梯子の傍の柱につるされた紐を指し示す。その紐の上には小さな鐘が、柱から飛び出る形でぶら下げられていた。そして私の手にそのとても高価らしい角灯と、水が入ったツボを差し出してくれた。私は先ずは角灯を受け取って白蓮に渡す。
緑香ちゃんが私を見てちょっと怪訝そうな顔をした。思わず耳の後ろが赤くなる。
匂いますよね!?
そうですよね。マナ除けの匂いから色々と。ここ数日、ろくに汗も拭けていないんですから、きっとすっぱい匂いやらいろいろしますよね。せっかく水があるんだ、明日絶対に洗濯をさせてもらう!
だが、緑香ちゃんは鼻をつまんだりすることもなく、丁寧にお辞儀をすると闇の向こうへと消えていった。いい子だな。ここで匂いがとか言われたら、もうお嫁にいけません。
私達は角灯の明かりだけを頼りに、5杖(5m)以上ありそうな高さの入り口まで梯子を登って行った。疲れもあって足を滑らしそうになる。
階段を昇った先は、板敷きの何もない倉庫のような部屋だった。反対側にも入り口があるらしいが、今はそこは閉まっている。板でできた落とし窓を閉じてしまえば、真っ暗闇というところだろうか?
長の居た広間よりはかなり手狭ではあるが、それでも6人が余裕で入れる広さだ。最初に登った歌月さんが、皆が部屋に入るまでじっと辺りを伺っている。一番最後に残った旋風卿も、辺りを警戒しているらしい。歌月さんの合図を待って、百夜ちゃんを背中に背負うと、ゆっくりと部屋まで登ってきた。
「百夜、いるかい?」
「声が聞こえそうなとこ居ないな。ちょっと先に一ついる。さっきの娘だな」
百夜ちゃんがそう答えるや否や、歌月さんが旋風卿に詰め寄った。
「あそこで逃げるべきじゃなかったのかい?」
「『幻惑』とやらの謎を解かない限りはむりでしょうな。せっかくここまで来たんです、その『神』とやらには会ってみたい気はしませんかね?」
「あたしは『神』なんてものに興味はないね。それより今夜中に始末される方に酒の一杯をかけるよ。あんたが生き残ったら私の墓に供えてくれ」
歌月さんが肩をすくめる。旋風卿の近くにいると、みんなだんだん嫌味っぽくなるんだろうか?
「すぐに始末するつもりなら、私達に獲物を戻しますかね? 私は少しは猶予があると思っているよ、監督官殿」
「とりあえず、柱に脱出用の綱をおろしておきますか?」
白蓮が帯革を指さして提案する。
「あのー。何がそんなにやばいんでしょうか?」
いまいち状況が理解できていないので、とりあえず聞いてみる。
「風華さん、ここの長の『基頼』様は自分では名乗られましたが、私達に名前は聞きませんでした。つまり私達の名前など確認する必要はないという意味です。普通に考えると、私達を長く生かしておく気はないという事ですね」
私の問いに世恋さんが、まるでお店でどちらの野菜が新鮮ですかの回答のように答えてくれた。せっかく水不足解消、マ者襲撃解消と思ったら、もう殺されるんですか? なんか、ちょっと前にも同じようなやり取りがあったような気がする。
「まあ、ここに入れられた時点で袋の鼠ですからね。あまりじたばたするのは止めて、久しぶりにゆっくり横にならせてもらう事にしましょう。長の話が本当なら、ここは『神』に守られているらしいですからな」
そう告げた旋風卿が、部屋の真ん中においてあった角灯を手にとった。もう片手にはなにやら紙のようなものをくるくると回している。旋風卿はその手で回していたものを、おもむろに角灯の前へとかざした。
彼が手にしていたのは一葉の葉っぱだった。その葉を明かりにかざしてじっと見ている。一見すると変哲もないその葉に何をがあるのだろうか? 旋風卿がその葉から手を離すと、それはくるくると回りながら板床の上へと舞い降りた。
「でもここが『神』によって守られているのなら、何故この葉の裏はこんなに黒いんでしょうね?」
* * *
もう限界!これ以上は無理!
なんでここに入る前に行かなかったんだろう。八百屋の一人娘こと風華は、今、地獄の苦しみを味わっています。
もらった水を飲み過ぎました。もうすぐ殺されちゃうんだからどうでもいいのでは、とも考えてみましたが無理です。乙女が漏らすなんてことは絶対あってはいけません!
冒険者達は多分、私の知っている人と呼ばれているものとは別の生き物です。さっきまですぐ殺されそうとか言っていたかと思うと、みんなすやすやと寝ている様に見えます。私はお化けのことと、このどうにもならない苦しみに悶えながら、全然寝れそうにありません。館に閉じ込められてい時には毎晩熟睡できていたのに。
とりあえず、床に引いていた厚手の油紙から身を起こして辺りを伺います。用件が用件なので白蓮を連れて行くわけにはいきません。世恋さん起きてくれないかな?
「手洗いか? 我も行くぞ?」
私の足元の方で横になっていた百夜ちゃんがむくっと起き上がった。あっ、何かあっても百夜ちゃんが一番実害がないかも。
「行きましょう!」
横で頭を上げた白蓮が、何やら言ったような気がしたが一切無視だ。ともかく急がないと……。すでに限界なんです。
相変わらずの身軽さで、あっという間に下まで降りた百夜ちゃんに、まさるとも劣らない速さで梯子を下りる。恐怖心なんかより切実感の方が勝利した結果だ。入り口近くに置いた角灯のかすかな光以外何もない暗闇の中で、さっきの鐘の紐はどこだったろうと探す。もう見つからなかったら、とりあえずその辺りでもいいかも。
間違っても降りてくるなよ白蓮。降りてきたら殺す!
「何か御用でしょうか?」
私達から10杖(10m)ほど離れたところで角灯の明かりがついたかと思ったら、緑香ちゃんの姿が浮かび上がった。思わず心臓が止まりそうになる。
あ……ちょっとだけ……まずかったかも…………うぅぅぅ……もうお嫁にいけません。
「手洗いはどこだ?」
百夜ちゃんが特に何も驚くことなく、緑香さんに聞いた。
「手洗い……ですか?」
「そうだ。早くしろ。赤娘はあぶないぞ」
緑香さんの持つ角灯のなかでにたりと笑う百夜ちゃん。もしかして、まだ干し肉の事を根に持っています?
ある意味、少しだけ余裕が出た私は、緑香さん百夜ちゃんに続いて、とぼとぼと歩いて行った。何やら背の高い葦が生えた場所の手前に、小さな小屋のようなものが見えた。正直、もうどこでもいいです。
やっと解放されて小屋から出てきた私を、百夜ちゃんと緑香さんが待っていた。小屋はだれかが使ったような形跡はあまり感じられなかった。お客さん用なのだろうか?
「お待たせしました」
「次は、我だな」
そう私に言った百夜ちゃんは、私から角灯を受け取ると、背後に立つ緑香ちゃんの方を振り返った。
「ここはみんな働き者だ」
そう告げると、真っ赤な唇を上げてにやりと笑って見せた。
「もちろんです。私達は『神』に使える身ですから」
緑香ちゃんは百夜ちゃんにそう告げると、船の上で兄が見せたのと同じ、恍惚の表情を浮かべた。




