旧街道
旧街道は森の中に入っても、森に入る前と同じようにずっと上り調子で続いていた。だが街道の上を覆う木々に生い茂る葉は、全てマナの影響を受けて裏が黒くなっている。まさに『黒き森』そのもの。昼でも、まるで夜明け前かのような薄気味悪い暗さだ。
先日の大雨の時に倒れたらしい、倒木等が途中の道をふさぐ。そのため乗馬での移動だ。荷馬車は農耕馬を解放して、目立たぬ場所に置いてきている。
最初の数日は道に倒れている木などの迂回程度で、特に問題なく進んだ。食料も農家で拝借した分で賄う事が出来た。マ者に出会う事もない。正直なところ、森の外の方がよほどたくさん会ったような気がする。
でもたまに百夜ちゃんが『いるな』とつぶやくと、百夜ちゃんが指示した方向の木の陰に身を隠して息を潜める。
その時は自分の心臓が、張り裂けんばかりに鼓動を打つのが分かった。もし白蓮がそばにいてくれなかったら、恐怖のあまりそこから駆け出して逃げてしまうなんて、馬鹿なことをやってしまっていたかもしれない。
有り難いことに、まだ『お化け』にもあっていない。白蓮が言うように『お化け』が父の作り話であることを切に、切に願う。『お化け』が来たら隣に白蓮がいようが、手を繋がれていようが、絶対に逃げ出す自信がある。
だが一番の問題はマ者でも『お化け』でもなかった。『水』だった。
ともかく水場がないのだ。最初の一日、二日は雨が降った後の水たまりや、そこから汲んだ水などを使う事が出来た。だがそれ以降は、まともに水を入手できていない。
私達人間でも足りないくらいだから、馬が飲む量については全く足りていない。餌も下生えなどがないので、森の藪に生えている笹ぐらいしか与えることが出来ないでいる。当然、馬達の衰弱はひどく、百夜ちゃん以外の全員が馬から降りて、ぐずる馬の手綱を引いて必死に前に進めている状態だ。
馬が飲む分だけではない。マナ除けを作るにも水が必要で、ここではそれをけちるわけにはいかない。
それでも白蓮が日々森に分け入り、わずかな水葛や、日陰のくぼ地に残った水たまりを見つけてくれていた。でもそれを探すのに費やす時間は日々長くなり、得られる量はより限られてきている。
水気のあるところに育つ、マナ除け草もなかなか見つからず、保存分も決して十分とは言えなくなってきていた。せっかく旧街道があるのに、この辺りが開拓されなかった理由がよく分かってきた。生きていくには向かない土地なのだ。
このまま水が無くなったらとか、馬が倒れたら荷物をどうしようとか、自分の中に湧き上がってくる様々な悪い考えを必死に振り払う。ともかく余計な事を考えないで、頑張って歩くしかない。この中では百夜ちゃんを除けば、体力的には私が一番劣っている。今はともかく皆に迷惑をかけないことが大事だ。
そんな事を考えながら歩いていると、隣を行く世恋さんが急に私の腕を抑えた。見上げると斥候役として前を行く白蓮が、何かを見つけたらしい。世恋さんが濃緑色の大外套から素早く弓を外すと、その弦に矢をつがえた。
「百夜様?」
世恋さんが曳く馬の鞍に突っ伏して寝ている(見かけは死体のような)、百夜ちゃんに問いかけた。
「居ないぞ」
世恋さんが弓を下ろして、その答えを手信号で前を行く白蓮や、歌月さん、それに殿を務める旋風卿に送る。私達は先に待つ白蓮の元に集まった。
白蓮の指さす先には、荷馬車らしきものが、道の脇に落ちて横倒しになっていた。人がいる気配はないが、何かが森へと引きずられた跡がいくつかあり、その跡には血が流れたらしき跡もついている。
馬車の横には、主人を最後まで守ろうとしたのか、一匹の犬の死体が横たわっていた。犬の死体には荒らされたような形跡はない。小刀を片手に、荷馬車の中をあらためていた歌月さんがこちらを振り返った。
「めぼしいものは何もない。水も食べ物もなしだ。マナ除けもない。どっちが先につきたのかは分からないけどね」
私が朝に被ったマナ除けはまだ効いているだろうか? 確か森の奥に行くほど、頻繁につける必要があるって言っていたような気がするけど。
「彼らも水がないところを見ると、やはり水場は近くにはなさそうですね。こちらも白蓮君一人でどこまで持つか? それにあまり時間もかけられない。雪が降り始めたら峠を越えられなくなります」
旋風卿が誰に説明するでもなく語った。さらに手にした槍の穂先を辺りに示す。
「たいした準備も無しに入ると、この辺りが限界線ということですかね」
旋風卿が示した槍の穂先には、車輪が外れて壊れた荷馬車の残骸があった。さらに先にはもう馬車として形を全く示していない、古い木材の塊と化した残骸もある。その横には白骨化した、馬の骨らしきものもあった。
「監督官殿。このあたりについては、どの程度知識をお持ちですかね?」
「正直、さっぱりだね。ここに入るなんてことは考えもしなかった」
「ふむ。世恋、あの地図をだしてくれないか?」
世恋さんが折りたたまれた、茶色い油紙らしきものを旋風卿に差し出した。この方は相変わらず色々な物をどこかに隠し持っている。
「一応、何かあった時のためと、城砦にあった地図から必要そうなところだけを複写してきたものですが……」
旋風卿がその油紙を開いて、横たわる荷馬車の縁の上に広げた。これを地図と呼んでいいものだろうか?
その紙には丸印がいくつかあり、名前が書いてあった。さらにそれを繋ぐ黒い線がある。そして広げた麺麭を縦に切って横から見たような楕円が二つ。その間にも小さな丸印が書いてあった。
黒い線から細い点線みたいなものが枝分かれして、その楕円の間の丸を通って、また黒い線につながっている。見ようによっては、目の間にほくろがあるおかしな人の顔にみえなくもない。
「そもそも、いつ作られたものかもよく分かりませんから、どれだけ当てにしていいかも分かりませんが、我々がいるのがこのあたり。普通に行けば、前方に見える山の裾を左手にみながら、それを迂回して回り込むように進むことになります」
あの麺麭をよこから見たのは山なんだ。確かに葉の間からそれらしい連なりが見える。ずっと上りだったのは、この山に向かって登ってきたという事か。
「この黒い点線が何を表すかはよく分かりませんが、普通に考えれば、裏街道か何らかの道でしょうな。この辺りから分岐して谷の間を通っている」
旋風卿の指が、点線をたどって、山と山の間にある小さな丸を指し示した。この谷の間にある丸は何だろ?
「この丸って何ですか? 名前も何も無いみたいですけど」
私は素直に思ったことを聞いてみた。まさか単なる染みという事は無いですよね?
「街があるという話は聞いたことがない。それに他の丸には街の名前が書いてある。場所的に考えると、湖か池か、いずれにせよ水場があるのだと考えられます。この点線はおそらく、旧街道を迂回して進む場合の近道というところでしょうか?」
「それが水場という保証はあるのかい?」
歌月さんが疑わしそうな顔をして旋風卿を見た。
「さあ、わざわざ書いたのだから何かはあるのでしょう。この先に水場がある保証もない。当てにして進むとこの馬車と同じでしょうな。それにこの道は何かおかしい」
旋風卿が白蓮や私を見る。
「君達はこの道沿いで何か動物を見たかね。鹿とか大きなものでなくてもよい。木鼠や雉などをちらりとでも見たかね?」
そういえば見た記憶はない。旋風卿の問いに私は首を振った。隣の白蓮も首を横に振っている。
「私もだよ。この道は静かすぎるんだ。夜ですら獣の鳴声を耳にしない。こんな静かな森など私は知らない。気のせいかもしれないが、この子達もこの道から外れたがるような気がするのだよ」
旋風卿は、つながれた木の近くで、わずかに生えている笹を食む馬達を指さした。
「気にし過ぎじゃないのかい? この石畳だと私達の馬蹄の音はかなり遠くまで響く」
歌月さんが相変わらず疑わしそうな顔をしている。なんかいつもと逆になっていませんか?
「それだけじゃないのは、監督官殿も十分に分かっておいでではないのかな? 前の邪魔者は消えてくれたが、後ろのはまだ消えてくれそうにない。どうやらこの道は混雑し過ぎですな」
旋風卿が槍を私達の後ろの空に向かって掲げた。そこには薄く黒い煙が地上から空へとたなびいている。
「こちらも煙をあげて、前に居ることを教えるべきではないでしょうか?」
白蓮がその煙を眺めながら旋風卿に提案した。
「先行者が居ることは、すでに知らせているつもりだが、彼らは一向に気にしていない。気にしないほどの素人なのか、気にするつもりはないのか?」
「つまりは?」
「我々がこのまま進むのは、いろいろと危険がありすぎるということですよ。別な危険を選択してもいいと思えるくらいにね」




