愚か者
ヒューーー!
黒く変色した葉達が耳障りな音を立てる。
昨日とはうって変わって今日は風が強い。南から吹いてくる風が森の木々を大きく揺らし、頭上は黒く低く垂れこめた雲が、すごい速さで北へと抜けていく。
この季節にしては珍しく雨に、それも大雨になりそうな天気だ。馬を進める皆は、強い風に大外套をあおられながら馬の足を進めている。馬の足自体は昨日同様快調だ。
暗い森の縁は左から右へと弧を描くように広がっており、自分達が人の住むところから、森が支配するところへと向かっていることを否応なしに教えてくれる。
右手の風景はいつしか耕作地から牧草地へと切り替わり、動物を囲うための柵なども現れた。
この天気のせいか、牧草地で草を食む動物たちの姿は見当たらない。前には小高い丘のつらなりが見え、道はそれに向かって登っていくようにつながっている。
前方では坂の上り下りの度に、白蓮の姿が見えたり隠れたりしていて、姿が見えなくなる都度、間にいる世恋さんが両方を視界に入れる位置で止まっている。
何やら手信号で何かを教えてくれているらしいが、手信号が全く分からない私にとっては何をやり取りしているのかは一切不明だ。
私の前には並足で進む歌月さんと、その前で風に頭巾をあおられながらも転寝をする百夜ちゃんの姿があり、その頭がぐらぐらと動いてる様子はちょっとかわいらしく見える(ような気がする)。
気が滅入るのは天気だけの話ではない。今日はいつ森に入るか分からないと言われて、朝っぱらからかけられたこのマナ除けの匂いも、私を十分に憂鬱にしてくれる。それは大外套の上だけでなく、中にも、上着にも振りかけられている。
下着まで振りかけられなかっただけでもましなのかも。でもなんだろうこの土臭さ、自分の体から苔が生えたような気がする。なんだかもうお嫁にいけない体になったような気がしてきた。
そんなどうでもいいことを考えていると、前を進む歌月さんの馬が急に止まり、私も慌てて馬を止めた。歌月さんは前にいる世恋さんの姿をじっと見つめている。
世恋さんの手が人差し指を立てて、くるくると何回か回したかと思ったら、人差し指で下を指した。その知らせを送るや否や、世恋さんは馬を加速させて坂を下り私達から姿を消す。
「風華、白蓮のところまで走るよ」
歌月さんが振り返って私に告げると、馬の腹をけって速足で先へと進ませた。私も慌てて馬の腹をけって手綱を送り、必死に前をいく歌月さんを追う。
腰を鞍から起こして、上体を前にして馬の反動を抑えようとするが、抜けきれずに体が上下に揺れてしまう。父が見てたら雷ものだ。
手前の坂を上りきると、世恋さんが白蓮の後ろで馬を急停止させるのが見えた。私も歌月さんに続いて白蓮の後ろで何とか馬を止めた。体が前のめりになって、ちょっとやばかったけど……。
そこは丘と丘の間のちょっとしたくぼ地になったところだった。一つの丘と見えていたものが、実はこのくぼ地を挟んで重なっていたらしく、前方の丘を登る道は結構急な坂になっている。
右手には放牧地を区切る柵らしきものが幾重かに設置してあり、長く伸びた草の間から白い岩が所々に見えていた。
白蓮は手を握って上へ出した後、前の地面を指差した。そこには、何かをたくさん引きずった跡らしきものが、丘の向こうから左手の森へと伸びている。
その引きずった先、風に揺れる森の暗がりの中に、何かが積みあがっているのが見えた。その手前の枝には何かが引っかかっており、折からの強風にくるくると激しく動いている。
『鳥?』
違う、鳥の飾り羽らしきものがついた茶色い何かだ。どこかで見たことがあるような気がするけど……。
「なんて、なんて愚かなことをしたんだ……」
背後に来た旋風卿が、吐き捨てるように呻いた。
「おい、お前達。まずい奴が来るぞ」
さっきまで歌月さんの前に座って転寝をしていた百夜ちゃんが、森の方を見つめて声を上げた。その声はいつもの変に子供っぽい声ではなく、かなり切迫した声だった。その充血気味の左目は、何かを見つめて大きく開かれている。
「百夜様!」
世恋さんの声が響いた。
「あれは何ともならん。逃げるぞ!」
世恋さんの呼びかけに、百夜ちゃんが悲鳴に近い声で答えた。その声に反応したように積みあがった何かの辺りで動くものが見える。
そして私はあれが何かをやっと思い出した。あの飾り羽の茶色い何か……。あれは、仕入れ先の、あの頑固爺さんのお気に入りの帽子だ。
「全員、このまま探索路を走れ」
旋風卿が私達に大声で指示を出す。
「絶対に止まら無いように。行きます!」
全員が馬の腹をけって手綱を送る。馬たちの馬蹄が響き、私達は砂塵を上げながら、急な坂になっている森沿いの探索路を登った。背後には足音でもない引きずる音でもない、聞いたことがない不気味な音がしている。
全身の毛が逆立つような嫌な感じ。私は耐え切れずに後ろを振り向いた。何だろう、黒い塊が森から探索路へと流れだしてこちらへ向かってくる。
それは人の頭ぐらいの大きさから、子牛ぐらいの大きさまで様々な大きさの黒い塊が、身をくねらせながらこちらに進んで来る姿だった。それが身を揺らして動く度に、その塊の中から何かが突き出ては沈んでいく。
何が一緒に転がっているのだろう。良く見るとそれは、人の手や足だった。それも皮膚が溶け落ちて骨が見えているものもある。
大きな塊から黒い何か、頭の毛と溶けた皮膚をはりつけた頭蓋骨を見たところが私の限界だった。胃からこみ上げてきたものが、口から地面へと吐き出される。
「白蓮!」
「死人喰らいだ。誰かが大量の死体を森に投げ捨てた。それで『崩れ』が起きたんだ」
父にも聞いたことがある。マ者と人の屍骸を食らうマ者。剣も槍もきかない。効くのは炎使いの炎だけだと。森で屍骸があれば、どこからともなく湧いて出てくる厄介なやつだと。
子供のころ台所の片付けを忘れた時に、何回も聞かされた話だ。だけど現実は、父の与太話なんかよりはるかに酷いものだった。
白蓮が、私の横に馬をよせて怒鳴りつけて来た。
「ふーちゃん、後ろを見るな。前をみて走らせるんだ。大丈夫、やつらは馬には追い付けない」
白蓮が私の馬の手綱をとって続けた。
「僕の背中だけを見ていろ!」
白蓮が私の前へ馬を滑らせて先行した。何も余計な事を考えるな風華。今はこの背中だけを見よう!
だが、前の坂はかなり急で、馬の行き足は中々上がらない。馬が苦し気に首を上下させるのが見える。思わずさらに腹をけって進ませようとすると、私の左手で馬を追っていた歌月さんから声が掛かった。
「風華、奴らから距離は十分だ。左は!」
「動きはない」
旋風卿が答える。
「速度を落とすよ。馬をつぶしたらおしまいだ」
歌月さんが私に呼びかける。手綱を緩めないといけないのだが手が動かない。
「風華、気をしっかり持ちな。あんなやつらに食われて死にたくはないだろう!」
歌月さんの怒鳴り声に、私はやっと手綱を緩める事が出来た。もう十分に肌寒い季節だというのに、全身に汗をかいているのが分かる。
私たちは坂を駆け上がって、丘の頂上へたどり着いた。外套の外側を何かが乾いた音を立てる。雨粒だ。遠くから雷鳴の音も響いている。
振り返ると、後ろの「死人喰らい」は、まだ丘への中腹を超えたあたりをこちらに向けて動いている。その数はあまりに多く、黒い斑点が丘の中腹からくぼ地までを、まるで墨を口で吹いたかのようなしみとなって染め上げている。
「何てことだい。今日は神様がとてつもなく意地悪する日かい?」
歌月さんがぼそりとつぶやく。私達の目の前、坂の下では荒れ狂う風と、降り始めた雨の中で、人々が鍬や鋤といったものを獲物に、血みどろになって争い合う姿が展開されていた。
「どうする、右に避けて街道に向かうかい?」
歌月さんが、背後の動きを見ながら旋風卿に尋ねた。
前では、50を優に超える人間達が争っており、同じような数の人間が地面に倒れている。そして背後から迫る死人喰らいは、既に坂の三分の二ほどまで登ってきていた。
雨粒はさらに大きくなり、辺りには雨粒が地面をたたく音が、小太鼓を叩く音の様に響き始めている。それは一つになり馬の足元を坂の下へと流れていく。
「右にいって柵で行く手を阻まれるとやっかいですね。それにところどころ岩や石があって足元もよくない。馬の脚がやられたらおしまいですな」
雨音に負けない大声で旋風卿が叫んだ。
「なら?」
「押して通る以外なさそうですな。それに悩んでいる時間もない。後ろから来る『死人喰らい』を見て、奴らの注意がそちらに引きつけられる瞬間を狙います」
旋風卿は歌月さんにそう答えると、馬の首を返して私達の方を振り向いた。
「先頭は私が行く。世恋は私の背後から左右を弓で牽制する役を頼む。監督官殿、白蓮君はお嬢さんに百夜嬢を託して二人の間に入れて、私達の後ろをついて来て下さい。坂を下る勢いを使って、中央を抜くこと優先で行きます」
旋風卿は何かの講義でもするかのように、私達に向って淡々と方針を説明した。そして私の方を見ると言葉を続けた。
「いいですか、止まったらおしまいですよ。奴らの獲物に引っ掛けられないように体を馬に押し付けて、前だけを見て行ってください」
最近、別のところで似たような事を、誰かに言われたような気がするけど気のせいだろうか? いや、今はそんな事はどうでもいい。
背後から聞こえる、何かがつぶれるような引きずられるような不気味としかいいようのない音も、雨音に負けずに次第に大きくなっている。振り返れば黒い塊の先頭は、私達の背後十数杖程度にまで登ってきていた。
もうその中に捕らえられている、かっては人間だったもの、それがばらばらになったものが、はっきりと分かるくらいだった。再び胃からまた何かがこみ上げてくる。こんな姿になって死にたくはない!
歌月さんが馬を寄せて百夜ちゃんの体を私の鞍の前方に収める。そうだ、後ろを気にしている場合ではない。前を向いて進むのだ。
「行くぞ!」
旋風卿の低い掛け声が響いた。私は百夜ちゃんの背中に自分の体を押し付けると馬の腹をけった。
父がなんで私に馬を教えようとしていたのか、その時は全く分からなかったが、父はこの時のために私に馬の操り方を教えてくれていたのだと理解した。きっと私が一人になった後に何かが起きると分かっていたのだろう。
でもそう思っていたなら、私をおいてさっさと母さんの元なんかに行くな!
先頭を行く旋風卿の大きな背中が見える。その後ろを弓を手にした世恋さんが続いていて、私の両側では歌月さんと白蓮が馬を駆っている。
前方では私達に気が付いたのか、幾人かの男達が私達の方を指さした。いや私達ではない、私達の後ろから坂を転がり、滑り落ちてくる何かだ。
男たちの顔が恐怖にゆがみ、それから逃げようと私達に背中を向けて駆けだしていく。その中には雨で足を滑らせたのか、地面に倒れこむ男もいた。
争っていた男達は争いを止め、坂の上からやってくる何かから逃げようと、まさに蜘蛛の子を散らすように背後の坂から必死に遠ざかろうとしていた。




