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 まだ朝には早い時間だったが、知念は痛みと体の震えに目を覚ました。昨晩は部屋に戻ってどうやったら兄を説得できるか考えているうちに寝てしまったらしい。


 眼球を失った右目の穴は、医者からかなり強力な痛み止めを塗ってもらっていても、未だに火箸をそこにつっこんだかのような痛みがある。熱もまだ下がっていない。


 それでも少しは寝れるようになったのだから前よりはましになったのだろう。


 誰かの手がそっと自分の額に触れると、水で濡れた布を新しいものに変えてくれた。暗闇の中ぼんやりと見えるその姿は母の姿ではない。


「お水をお持ちいたしましょうか?」


 下女が声をかけてきた。母が殺されてからはこの下女が彼の世話をしてくれていた。廊下を通る使用人達の立ち話によれば、父と母の遺体を見つけたのもこの娘らしい。


 今は闇に紛れてその顔立ちははっきりしないが、母がどこからか引き取ってきた下女にしては目鼻立ちがいい娘だった。以前、廊下ですれ違った時などは何故かその後ろ姿から目を離せずにいた子だ。


「頼む」


 知念はそう下女に答えると、寝台の上へと身を起こした。まだ引かない熱に体が鉄でできたかのように重い。


 知念は下女が水を持ってくるまでの間、月明かりに沈む庭を残った左目でぼんやりと眺めた。だがすぐに何かがおかしいことに気が付く。


 風がないのにかすかに動く木々。一瞬だけ見えて消えるいくつかの角灯の光。覆いをつけて外に光がもれないようにしているらしい。何者かにこの屋敷は囲まれている。それもかなりの人数だ。


 知念は衰えた体に鞭を打って立ち上がると、廊下から戻ってきた下女に対して、唇に手をあてて騒がないように合図した。そして小声で、


「この屋敷はすでに囲まれている。今すぐ勝手口から外に出る。声を立てないように」


 と告げた。彼女が手にした水差し壺を横の書物机に置かせると、下女の手を取って部屋を出て勝手口まで向かった。他の者は残念だがもう手遅れだ。助けられる可能性があるとすればせいぜいこの子ぐらいだ。


 知念は暗闇の中、勝手知ったる館の廊下を進むと台所とつながった勝手口へと向かった。そこにある下女が外作業の時に着る黒い外套を二つ手にすると、一つを下女に渡して一つは自分で頭からかぶった。


 大きさは合わないが、頭巾を掛ければ自分の体は隠れる。知念は兄の知良と違って小柄だった。彼はちょっとだけ勝手口の扉に耳を当てて様子をうかがうと、


「勝手口を出て右手の林まで一気に駆ける。林にはいったら塵捨て場までの小道を抜けて、塵出し口から裏の森までいく。分かったかい」


 と下女に告げた。暗がりの中で外套を被った小さな体が首を何回も縦に振っている。知念は扉を自分たちの体が抜けられるだけそっと開けると、林に向かって姿勢を低くして一気に走った。


「女が逃げた」


「息子達が先だ。小物は後でいい」


 館を囲む影が声を上げた。その一つは知念が良く知った者、街の有力者の一人の声だ。もう一つは兵士長の息子「郭祐」の声だった。


 そういう事か、自分ですら兄を排除しなくてはいけないと考えるくらいだ。住人達はとうの昔に結論を、兄と自分を排除して紫王弟に降伏すると決めていたという事か。夜明け前に襲うという事は、後腐れなく館のものを皆殺しにするつもりらしい。


 背後から物が壊れる音や、誰かの悲鳴、火のはじける音が響いている。これが「塊家」200年の歴史の終焉の音なのか?


 知念は裏手の塵捨て場の横で荒い息を吐きながら、せめてその最後の瞬間を一瞥するために振り返ろうとした。だが体が一瞬宙に浮いたかと思ったら、塵捨て場の底へと背中から落ちていく。


 自分をのぞき込む頭巾をかぶった黒い影が見える。自分の胸に何か鋭いものが刺さっており、そこから全身に向けて熱い何かが広がり、上げようとした叫びは肺と喉にあふれた血に阻まれた。


 黒い影は、知念の体がゴミ捨て場の穴に落ちるのと同時に、手にした細糸を軽く振った。その細糸に導かれて彼の胸に刺さっていた小さな諸刃の小刀のようなものがその手に戻る。


「もう少し探る予定だったのに……。面倒をかけてくれる」


 影は小さく呟くと、一瞬だけ北の方の空を見上げ、背後の森へとその姿を隠した。


 * * *


「数が一つ足りないという事はどういうことだ?」


「使用人の誰かだとは思うが、こう焼けてしまっては判別がつかないな」


 彼らの目の前には真っ黒な炭と化した判別がつかない遺体が何体かおいてある。


「弟の遺体が塵捨て場にあったのは?」


「俺達じゃない」


 年長者に対して郭裕達若者が答えた。


「では誰が?」


 その場に居た者達がはっとした表情で互いの顔を見合わせる。こんなことができるのはあの男しかいない。あの男の手のものが知覧と夫人を殺した。そして自分達の行為を予見し、逃げた次男の殺害までやってのけたのだ。


「この会話だって……」


 誰かが思わず口にした台詞に、皆が背筋が凍る思いがする。絶対に逆らってはいけない相手だったのだ。


「ともかく人質を差し出して許しを請うしかない」


「誰が人質としていくのだ?」


「それは、これから話し合って決めるしかない」


 男達が再び互いの顔を見合わせた。これは長い話し合いになる。だが最初に発言した男が皆に忠告した。


「時間はないぞ。ただでさえこの街は他に出遅れているのだ」


 男達が頷く。自分達が生き残るための襲撃の次には、自分達が生き残るための話し合いが待っている。

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