長い手
「一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?」
知覧は、館の広間に居並ぶ者達を前に口を開いた。彼の前で暗い顔でうつむいているのは街の有力者、そして軍の中心の者で先の戦を生き残った者達だ。
「すべてが失われたわけではない」
知覧は居並ぶ者達を見据えて声を上げた。
「確かに我々は多くの親しい友人達を失った。だが奴らはそれ以上だ。ほとんど軍としての体はなしていない。三子爵家の兵と合わせて、再度一の街へと押し出せば、今度は我々を拒むものなど何もない」
知覧は主に町の有力者達を見渡しながら言葉を続けた。
「だがここで膝を屈せば、全てを失う事になる。我々が築き上げたものすべてがやつらに蹂躙されてもいいのか?」
街の有力者達の顔が恐怖にゆがんだ。確かに財産を失うだけでなく、妻や娘達もどんな目に合う事か……。
「父上のおっしゃる通りです」
知覧の言葉に長男の知良が顔を上げて答えた。次男の知念は右目の痛手が深く失明に至っており、その傷による発熱でここには参加できていない。
軍の者の多くはうつむいたままだ。彼らは自分達の損害が少なくて済んだのは何もかもすべて放り出してマ者から逃げたからであり、一の街の損害が多いのは彼らが森からあふれたマ者に立ち向かったからだという事が分かっていた。つまりこの街は一の街軍に守られたという事だ。それが分かっている者は知覧に向かって顔を上げられずにいた。
「確かに、他家の軍をあわせれば……」
事情がよく分かっていない商家や職人組合等といった有力者達が知覧と知良の言葉に反応した。
「明日、軍議を再開して他の家へ再度催促の使いを送ることにする。今日は皆つかれたであろう。よく休んで欲しい」
彼は背後で皆に茶を出していた妻を振り返ると寝所へと下がっていった。背後では知良が拳を上げて皆に向かって何かを熱く語っていた。
* * *
下女は知覧の寝室の前に立つと、遠慮がちにその扉を叩いた。だが何の反応もない。領主様は昨晩は大分お疲れのようだったが、いつもは下男下女より早く起きて家の用事を始める奥様も姿を見せていない。
すでに何名かのお客様が下の広間に集まっており、知良から様子を見て来いと言われた下女は、今度はさっきより大きめに扉を叩いた。
やはり返事はない。特に屋敷の者に対して常にお優しく接してくださる奥様の声もしないことに下女の心は不安でいっぱいになった。
「失礼します。旦那様、お客様が……」
旦那様に怒られてしまうかもしれないけど仕方がない。下女は小さく扉を開けると、自分の足元を見ながら中に入り、小さな声で要件を伝えようとした。
その足元に赤い何かがゆっくりと近づいてくる。山羊をつぶす時のような濃厚な血の匂い。下女はおそるおそる頭をあげると、その口を手で押さえた。
地方の領主というより、奥様の趣味合わせた質素なでも大きな寝台の上に、旦那様と奥様が横たわっていた。その敷布の上には二人の心の臓から流れ出た真っ赤な血がまるで池のようになっている。そこから寝台の下に流れ出た血が、床を伝わり自分の足元まで流れてきていたのだ。
下女の耳に誰かの金切り声が聞こえた。彼女は寝台の上の二人を見続けながら、それが自分の口から出ているものとは未だ分からずにいた。
知覧の最初の二つの台詞は、17世紀の詩人「ジョン・ミルトン」の有名な「失楽園」に出てくる言葉で、サタンが配下の堕天使たちに向かって放つ台詞をお借りしました。




