混乱
「伊一さん、マ者もどきです!」
私は実季さんと森から桟橋まで駆け戻ると、荒い息を吐きながらも必死で伊一さんに向かって叫んだ。
「マ者もどき? 何ですかそれ!?」
伊一さんと浮橋を桟橋に横付けしていた香子さんが、私達に向かって素っ頓狂な叫び声で答えた。だが私達の顔を見ると真剣な表情に変わった。
「ちゃんと説明しなさい」
「説明している暇なんかありません!すぐにここから逃げないとだめです」
「分かった。香子君、先に乗船して浮き橋のつり合いの確保だ。風華君、実季君はすぐに乗船して先導綱の確保。私はもやい綱を解く」
香子さんが私に向かって何か言おうとしたが、伊一さんがそれを待たずに香子さんに向かって指示を告げた。どうやら伊一さんには非常事態が起きたという事だけはうまく伝わったみたいだ。
「はい、伊一さん。了解です」
私は短弩弓を手にしたまま、浮橋に飛び乗った。先に乗った香子さんが浮き橋の反対側に移動して私達との間でつり合いをとる。そのまま私は実季さんと一緒に先導綱を保持した。
「伊一さん、準備完了です」
そう呼びかけると、もやい綱を解いた伊一さんが背後の森をふり返った。そしてそのまま固まってしまった。私も伊一さんの視線の先を追うと、何かが森から這い出てきた。いや這い出てきたという表現は間違っている。それはきれいな横列になって森の端からゆっくりとこちらに向かって進み出てきた。
それはまるで城砦の収穫祭で儀仗衛士の列を見ているかのようだった。だがそれは騎乗の衛士の列なんかじゃない。真っ黒な犬歯とするどい爪を持つ黒犬だ。いや、黒犬もどきだ。
「伊一さん!」
私の呼びかけに伊一さんが我に返ったかのように、もやい綱をもって浮き橋に飛び乗った。香子さんと実季さんが浮橋の前方へすばやく移動してつり合いを取る。
「引け!」
その声に、私達は先導綱を手繰り寄せた。それに合わせて浮橋はゆっくりと仮設の桟橋を離れ始める。だがそれが合図かのように、森の端に並んだ黒犬が一斉にこちらに向かって駆けだした。その動きはまるで一陣のつむじ風の様だ。まずい。黒犬は何もなくても普通に10杖程度は跳躍する。この勢いで飛んでこられたら20杖近く飛んできてもおかしくはない。
「全力で引け!」
伊一さんが私達に叫んだ。伊一さんも全体重をかけて先導綱を引いている。私達は全員でともかく必死に先導綱に体重をかけて浮橋を押し出す。誰も行き足を調整していないので浮橋は黒青川の流れに回転しそうになりながらも、岸を離れていった。
ボチャン!
背後で大きな水音がした。
ボチャン! ボチャン!
再び水音が今度は連続して起こった。思わず背後をふり返ると、仮設の桟橋を疾走した黒犬がこちらに向かって跳躍していた。それが僅か数杖背後の水面へと飛び込んだ音だった。私の向かい側で先導綱を引いていた実季さんと顔を見合わせる。もう少し勢いがあったらここまで乗り込まれる。腕も足も悲鳴を上げていたが、それでも痛みに耐えながら先導綱を必死に引いた。
ボチャン!
五杖ほど背後に最後の一匹が飛び込んだ後、黒犬はもう跳躍してはこなかった。ただ岸に微動だにしないで並ぶとこちらをじっと見ている。何なんだ。黒犬は手強い相手だけどこんな自殺みたいなことをするような奴ではなかったはずだ。
「あれは本当に黒犬なのか?」
伊一さんが独り言のようにつぶやいた。彼も私と同じことを考えていたらしい。
「マ者もどきです」
「マ者もどき?」
顔に汗を光らせた伊一さんが私の方に聞いてきた。
「はい。あれが黒犬になるのを見ました」
「あれ?」
伊一さんが当惑した顔で私を見た。説明が下手ですいません。私もどう説明していいのかよく分からないんです。
「はい、死人喰らいのような黒い塊です。それが急に地面から湧いて出てきたと思ったら、黒犬に姿を変えました」
「風華さん。あなたは恐怖のあまり幻覚を見たのではなくて? あれはどう見ても黒犬よ」
香子さんが私の方を疑わしそうなというより、あり得ないという顔をして見た。香子さん、信じられないのは分かります。私も信じられません。ですが、これは事実です。
「香子さん。違います。あれは黒犬の姿になったのです」
紛れもない事実なのです。
「はい、香子副主任。私も見ました。間違いありません。ただ湧いて出たのかもともとそこに居たのかについては定かではありません」
実季さんが、香子さんに向かって告げた。香子さんが実季さんと私の顔を交互に見る。そしてそれが事実らしいと理解すると、その顔が恐怖に歪んだ。きっと神もどきの事を思い出したのだろう。彼女だってあれで想像もできないやつというのを身をもって知っているはずだ。
「香子君、君は誘導綱はいい。先導位置に移動の上、対岸へ角灯の灯で連絡をお願いします。私の名前で城砦に発光信号で『緊急事態、マ者もどきが大量発生。これは崩れにあらず。逃げろ』と連絡するように伝えてください。そして左右全ての監視所は渡しの監視所に即時撤収を、渡しの監視所には即時撤収準備の先触れを送るように伝えてください」
「はい、伊一組頭。了解です」
香子さんが、浮橋に括り付けられている大型の角灯をもって素早く進行方向側に移動した。そして角灯の覆いを使って伝文を送り始める。
あれは、あれはどうなっただろうか?
私は伊一さんの背後、次第に小さくなっていく仮設の桟橋の方を見た。
そこには何も、何もいない。一体この森では何が起きているの?
* * *
「マ者もどきだって?」
多門は柚安に向かって間の抜けた声で告げた。
「はい、それでも左2からの報告が一番まともというか、唯一の報告です。後は……」
そう告げると柚安は多門に向かって肩をすくめて見せた。
「見れば分かる」
この城砦の物見方の監視台の先、嘆きの森からは撫子色の煙がそこらかしこから上がっており、森全体がまるでその色に染まったかのような体を為している。もはやどこであがっているのかすらよく分からない状態だ。
しかもこれだけ緊急の煙玉が上がっていながらどこも先触れなどの続報は送ってきていない。つまりそのまま遠いところに行ってしまった可能性が高いという事だ。
唯一の例外は、左2の監視所から伊一が送ってきた発光信号による報告だ。そこから連絡がいったのか、各監視所から撤収準備中との連絡も入っている。確か左2は再建に先だって予備の渡しの設備の設置作業を行っていたはずだから、黒青川を渡って難を逃れたというところか。
という事は赤毛も無事だった可能性は高い。あいつの悪運の強さには恐れ入る。いやあいつが厄災を引き寄せているのか? どっちなんだ?
「だが、大量発生とはどういう意味だ? それに、崩れではないとも言っている」
伊一も、伊一だ。報告を送ってよこすならちゃんと分かるように送ってくればいいのに。あいつも絶対に赤毛からなにか変なものをうつされているに間違いない。
「さあ、多門さんでも分からないのであれば、本物の潜りなどやったことがない私などにはさっぱりですよ」
柚安がこちらに向かって両手を上げて見せた。まあ、聞かれるだけ迷惑と言うところだろうな。悪いなお前以外に聞く相手がいないんだ。
「確かに、これだけ広範囲、しかも左は複数組が同時に潜っていたわけではないのに全体に渡ってほぼ同時だ。崩れなら何処かを起点にそこから広がるはずだから崩れでは説明がつかない」
「それはそうだと思います」
これは、間違いなくこれまでに城砦が経験したことがないやばい奴という事だ。迷っている暇などない。
「柚安事務官長。冒険者以外で替えが効かない人間以外は即時に関門へ退去。特に自己防衛手段を持たないものを最優先とする。関門からの高馬車の侵入ならびに、城砦から関門への高馬車の移動は即時停止。人間の移動を最優先とする」
多門は柚安の筆の動きを見ながら、さらに口を開いた。
「城砦内及び、関門から足が速い馬車を全て調達。ここから関門への人員の輸送に使用する。この件については、城砦と商会との緊急時の申し合わせ事項に基づくものとする。拒否及び例外は一切なしだ」
柚安は羽筆で多門の指示に基づいた指示書を書きながら手信号で了解と答えた。多門はそれに頷くと傍らに控えていた美亜の方を向いた。
「すべての胸に証を持つ者についてはその撤収作業の助けならびに、関門への籠城準備だ。関門に居る者も即時徴発。一切の例外は無しだ。本結社の所属のものにてこの命令に従わなかったものについては、誓約に基づき即時死罪とする」
美亜も指示書に向かって羽筆を走らせながら多門に向かって頷いて見せた。書きあがった指示書を近くに居る事務官に渡しながら指示を与えていく。それを見た多門は柚安の方をふり返った。
「柚安、この間の神もどきの教訓って奴は作ってあるのだろう?」
「計画書はつくりました。演習はしていないですけどね」
「相変わらず仕事が早くて助かるよ。丁度いい。それを全面的に試してみる事にしよう」
「多門結社長殿、了解です」
柚安は多門にそう答えると、内衣嚢から鍵を一つ取り出して傍らの事務官に渡した。
「君、この鍵で一番端の棚から書類をとってくれ」
「符牒は何ですか?」
鍵を受け取った事務官が柚安に問い掛けた。
「『赤毛の場合』だ。それと各棟、各事務室に先触れ及び発光信号にて緊急連絡。その符牒の緊急時行動指示書に基づき即時行動せよだ」
「事務官長、了解です」
「どこまでうまく行くかは分かりませんが、こちらで出来る事は全部やっておきます。多門さんはこれからどうされますか?」
「俺か? 執務机で座ってなんかいられるか。もちろん俺は現場という奴を見に行くよ」
「で、どちらに行かれるんですか?」
美亜が多門に問い掛けた。
「渡しの監視所だ。それとお前のところの人員も柚安の手伝いに回れ。あとあのおっかないお姉さんのところにも言って査察方も柚安の手伝い優先だ。逃げ出す奴が居たら……。そうだな証の誓約を使ってこの世の果てまで行こうが殺してやるから関係ないな。やはり柚安のところの手伝いだ。それと備え方には武器、マ石の即時無制限使用許可だ」
「即時ですか?」
「出し惜しみは無しだ。それと学心司書長に関門での籠城に関する全権任命と、あの嫌味男にその補佐の指示書を俺の名前の強制命令書として出せ」
「学心司書長にですか?」
美亜が不思議そうな顔をして多門を見た。
「そうだ。これは狩じゃない。そのマ者もどきとかいう奴との戦争だよ。ならばそれが一番得意な奴らに任せるのが一番じゃないのか?」
美亜、お前は知らないだろうけどな。あの二人は戦場の英雄という奴なんだよ。




