兆し
「組長、なんかおかしいですよ」
手信号で集合を送ってよこした斥候役が、こちらが背後に着くなり声を掛けてきた。彼は森の下生えの藪が切れる縁で身を屈めながら前をじっと見ている。
「おかしいって、何がだ?」
音も何の気配もしない。この男は探知持ちだ。何かがこの男の探知にでも引っかかったのだろうか? だがそれならどうしてわざわざ集合迄かけるんだ。
「いきなり反応が出ました。しかも山ほどです」
男はそう言うとこちらをふり返った。その顔には言葉では現せない複雑な表情が浮かんでいる。
「距離は、50杖もないはずなんですけど……」
前衛役の男はそう言うと再び前方を見つめた。
「見えるか?」
こいつは一体全体、何を探知したと言うのだ? ここから見る限り、それらしきものは何も見えない。
「それが分からないんです」
男は正に当惑としか言えない表情でこちらに答えた。埒が明かない。こちらに追いついてきた後衛の二人に声を掛けた。
「何がいるか分からないんじゃ困るな。おい、案山子を掛けてみろ。打ち手も準備を頼む」
案山子使いの男とつぶて使いの男が頷いて見せた。
「あそこです!」
前衛役がこちらに声を掛けると、30杖ほど先の熊笹の下映えの辺りを指さした。確かにその辺りの熊笹が風もないのに不自然に動いている。だが何か大物が潜んでいるという感じではない。
春先だ。獣か何かを勘違いしたのではないのか? 春先の腹をすかした子連れの熊などに出会ったら、それはそれでマ者同様にやっかいな相手ではある。
「やばいです。山ほどいます!」
男の声に前を振り向くと、前面の熊笹全部が何かに揺れていた。何か分からないがこれはまずい。ともかく逃げの一手っという奴だ。そう皆に告げようとした時だった。それが突然に姿を現した。
「黒犬?」
背後に居た打ち手役の男から当惑した声が上がった。彼が当惑した理由はすぐに分かった。それは確かに黒犬の姿形をしているが、何かがおかしい。本来の黒犬らしい獰猛で俊敏な雰囲気が感じられない。どこか不安定な感じがする。それにそれは熊笹から出てきたというよりは、その下から生えてきたとしか思えない現れ方だった。
ずっと隠れていて、ここを通る者に対して待ち伏せを狙っていたのだろうか?
いや、黒犬は顎ではない。じっと潜んで待つというよりは自分から獲物を追いかけるやつだ。だがそんなことを考えている暇は無かった。その黒犬らしき者はこちらを向いて一斉に走り始めた。一体どれだけいるんだ?
『撤退』、『即時』
手信号で合図を送るや否や、全員が素早くこの下映えの藪から後ろに向けて移動を開始した。これは絶対に何かがおかしい。こんな数は「崩れ」でも起こさない限り集まらない。
そうか。もしかしてどこかの組が崩れをやったのか!それで連絡する前に全員やられちまったと言う事か? 確かに俺達の前には一組か、二組いたはずだ、それに後ろにも一組いる。
前衛役の男が緊急の煙玉を投げたのが分かった。そうだ。ともかく城砦に知らせないといけない。どんな潜りでも必ず一つは備え方から渡される撫子色の煙玉。それが地面を転がっていく。だが、もう全ては手遅れだ。崩れが起きてしまったら最後、誰も止める事は出来ない。崩れに対してはマナ除けも何も意味はない。
「探索路だ!」
こうなっては他の組など気にしてもしょうがない。一番早く移動できる経路を使って渡しまで戻る以外に生き残るすべはない。他の男達も一斉に方向を変えて探索路へと向かう獣道を全速で走る。背後からはこちらを追っているらしい黒犬の足音が響いてきた。
なんだろう? その足音も黒犬が駆けている音としては少しおかしい。やつらはほとんど足音を立てずに走る。奴らが来ると分かるのは足音ではなく、その体が草をする音や足が落ち葉を巻き上げる音だけがするはずだ。
だが背後からは、どこかの村祭りで太鼓でもならしているような音が響いている。それだけ数が多いという事だろうか?
「何だ!」
探索路に近い前方から声が響いた。後ろの組の前衛だ。その横を走り抜けて探索路に出ると、先ほどの前衛役と同じ組の者と思しき連中があっけにとられた顔でこちらを見ている。悪いなこちらはあんた達を構っている暇はないんだ。
探索路の横手の木々の間から黒犬の集団が姿を現した。
「黒犬だ!」
「何だ!崩れか!」
背後に置き去りにした別の組の男達から悲鳴のような声が上がった。運が悪かったと思ってあきらめてくれ。あんた達がやられている間にこちらは距離を稼がせてもらう。あまり見たいものではないが、彼らのおかげでこちらと黒犬との間にどれだけ距離が稼げたのか確認するために振り返った。
「何だこれは?」
こちらを追ってきた黒犬の集団は背後の連中を一切無視してこちらに向かって来ていた。
崩れだぞ。一番近い奴から手当たり次第じゃないのか?
そしてそれはまるで何かを巣に運ぼうとしている蟻のようにきれいな列を作っていた。その黒犬の列が探索路をこちらに向かって一直線に進んでいる。馬鹿な!何かの祭りの行列じゃないんだぞ。そんなことを考えている間にも横手を走っていた案山子使いが倒れるのが見えた。その背中に黒犬らしきものの爪が立てられて地面の上に彼の赤い血が広がる。
「ぎゃーーー!」
案山子使いの男の口から鮮血と叫びが漏れた。
「畜生!」
背後を走っていたつぶて使いが、迫っていた黒犬に向かってつぶてを放った。いまさらそんなものが生き残るのに役に立つとは思えないが、せめて一頭か、二頭でも道連れに……。
「なんなんだ!?」
つぶて使いの放った目に見えないつぶては、黒犬の体を吹き飛ばすはずだ。だがそれは黒犬の体にめり込むと、まるで何もなかったかのように元の姿に戻った。穴も何もない。もちろん血も何もない。
いったいこれは何なんだ?
おれの体に何かが突き刺さった。黒犬の爪だ。だがその爪も何かおかしい……。
だが俺はもう悩む必要はないようだ。
* * *
「香子さん、先導綱の固定はこれで大丈夫でしょうか? 確認をお願いします」
「はい、風華さん、実季さん。確認しました。大丈夫です。伊一さん、こちらの準備は大丈夫です」
「香子さん、了解です。向う岸へ確認作業の依頼を掛けます」
向う岸には左2の監視所の跡地に簡単な仮小屋が二つほどあった。まだ監視所としては何も機能はしていないが、予備の渡しの機能を復旧させることを優先して作業が進められていた。そのため、すでに仮設の桟橋など渡しとして必要な設備は岸の両側に設置されており、私達はそこに浮き橋を設置する作業をしていた。これが本格的な潜りの季節を前にした南側の探索路を含めた警備方の保守作業としての最後の仕上げになる。
桟橋の方は予備の機材は無事だったのであまり苦労はしなかったみたいだが、この浮き橋の為に先導綱を設置するための作業は本当に大変だった。
黒青川は非常に流れが速い。この渡しを設置している場所はそれでも他の場所に比較すればまだまだ流れが緩い方だ。他の場所ではもっと流れが速い上に、川の中に岩などがあって流れが安定していないだけでなく、ぶつかったらすぐに座礁してお終いだ。
なので、小舟のようなもので縄を渡すなどは到底無理で、上流に当たる監視所の渡しから縄を流すような感じでここまで持って来た。当然縄は流れにとられるのでそれを保持しながら下流に流していくなんてのはただ事ではない。
十人力持ちが集められて、さらに途中で縄を保持するための杭を使って、両岸で杭から杭へと一つずつ斜めになるように進む感じでやっとこの左2の監視所の位置まで持って来た。
一本引ければ、それを元に小さな浮き橋を使って他の縄をどんどん通していき、最終的に本先導縄や予備綱を通して本来の浮き橋が設置できるとこまで来た。
私は縄を動かす作業そのものには携わらなかったが、そのための安全の確保や、杭の保守作業等に従事した。ありがたいことにその作業の間、マ者らしいマ者との接触は無かった。北側は色々といるみたいだけど、「神もどき」が通ったここは未だにマ者は戻ってきていないようだ。だがもちろん油断は出来ない。
そして今日は浮き橋を実際に使って黒青川を渡っての設備の最終確認作業である。神もどきさえいなければ全く必要が無かった仕事だ。できればあと10回ぐらいは燃やしてやりたいところだけど、もちろん二度とやつに会うつもりはない。
「実季さん、これでやっとお終いですね」
「はい、お姉さま!」
そもそもこれは、嫁入り前の乙女にやらせる仕事ですかね? ここまでひたすら探索路沿いとはいえ森への潜りと、それに機材を運んだりや、大木槌を持っての肉体仕事です。とても乙女の仕事とは思えません。きっと私の体を雑巾絞りしたら相当なマナ除けが絞れると思います。
これも全てあの「神もどき」のせいです!
だがおかげでここに来る前と違って夜は何も余計な事を考えずに寝る事が出来た。私なんかより他の人が作業にあたった方がもっと早く効率的に出来たのだろうが、伊一さんや香子さんが私に気を使ってくれたのだと思う。相変わらず私は他の人に余計な気を遣わせてばかりだ。
でもこれで一連の仕事はひと段落だ。少しは休みが取れるだろうから、城砦に戻って百夜の事について、彼が「竜」を狩った時の話についてはきちんと聞こう。そして白蓮にきちんと手をついて謝ろう。彼は何も悪くないのだから。
「向う岸の確認作業完了です。では、本先導綱を使って、向こう岸への渡し作業に入ります」
「はい、伊一さん。了解です」
向う岸と角灯の明かりを使って連絡を取っていた伊一さんが私達の方をふり返った。確か、伊一さんって組頭になったはずですよね? どう見ても左2で副主任やっていた時と何も違いがないような気がするのですが、気のせいでしょうか?
「風華さん、実季さんが確認役でお願いします」
「はい、伊一さん。了解です」
私と実季さんはそれぞれ手に短弩弓を持ち、仮設桟橋の背後の森に対して警戒態勢を取った。森からはその葉こそ黒いが、普通の森と同様に春の濃厚な土の匂いが漂っている。空の上では鳶がゆっくりと舞いながら獲物を探していた。かすかに下映えが小さく動いているのは鼠か何かだろうか?
『警戒』、『前方』、『下』
実季さんに手信号を送る。
『了解』
実季さんから手信号で答えが返った。
『確認』、『支援』
と彼女に手信号を送る。弩弓の使い方は彼女の方がはるかに上で、私が確認役に回って彼女に後方から支援をお願いした方が、私も含めてより安全だ。
身を屈めて藪のようになっている下生えの方に注意を凝らすと、私の耳にかすかな音が響いてきた。
チッ、チッ、チチチチッ
下生えの草の間から茶色い小さな体が顔をだした。もう一匹も顔を出す。春の繁殖期を迎えた鳴き兎だ。鳴き兎は顔を出して髭を小さく動かしながら、お互いに向かって小さく鳴きあっている。森は何もマ者だけのものではない。普通に獣たちも暮らしている。ただお互いがお互いの存在を無視しているだけだ。
『確認』、『安全』
実季さんに手信号を返すと肩の力を抜いた。もっとも肩に力が入っている時点で私はかなりだめだめだ。
下生えの中に戻りなさい。そんなところにいると上の鳶に狙われますよ?
私は茶色の鳴き兎に心の中で声を掛けた。おや、となりにもっと黒い鳴き兎が居ますね? 違うな、もっと大きいか? その存在に気が付いたかのように茶色い鳴き兎が下生えへと姿を消した。
その黒くて丸い何かは、下生えの少し奥で小さく体を震わせている。一体何だろう? それは私の目の前でぶるっと体を大きく震わせたかと思うと、さっきより一回り大きい丸い姿になった。それはまるで地面の隙間から湧き出た何かが、葉の上の朝露のように集まって丸くなったかのように見える。
黒い半透明の何か? これはどこかで見たような気がする。もしかして……これって死人喰らい?
「実季さん!」
私が実季さんに警告しようと腰を上げると、目の前の下生えの藪のあちらこちらが揺らめき、黒く丸い物が湧き出して来るのが分かった。本当に地面から湧き出してでも来たのだろうか?
だが死人喰らいは動き自体はそれほど早くない。こちらが駆け足で逃げれば十分に距離は取れるはずだ。
「伊一さんに報告を!」
私は振りかえると背後で短弩弓を抱えてこちらの支援をしているはずの実季さんの方をふり返った。
「お姉え……さ……ま」
背後の木立の陰からこちらを見ている実季さんの声が震えている。それはそうだろう。これだけ大量の死人喰らいが突然現れたのだ。だが実季さんの目は私を見てはいなかった。私の背後の何かを見ている。あの実季さんが、我を忘れて何を見ているのだろう?
死人喰らい以外にも何か居るのだろうか? 私は実季さんの視線の先を追った。
「えっ!」
私は叫び声さえ上げることが出来なかった。そこでは湧き出てきた大量の死人喰らいらしき黒い何かが、別の者の姿へと変わろうとしていた。長い顔の先についた鼻。その顔の横から飛び出た黒光りする犬歯。そして前足の先にある銀色の爪。間違いない。黒犬の姿だ。
私は、実季さんのところまで走りよるとその肩を掴んだ。実季さんが我に返ったように私の顔を見る。
「実季さん、逃げるわよ!それと緊急の煙幕弾を準備して!」
「はっ、はい、風華さん!」
何が起きているのかは後で考えればいい。
今はともかくここから逃げるだけだ。




