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願望

 世恋の目に部屋の扉が少しだけ開いているのが見えた。その隙間からは月明りらしい白いぼんやりとした光が漏れている。どうやら部屋の主は窓を開け放ったままらしい。


 部屋の中からは何も物音はしなかった。昼間の日差しはだいぶ暖かくなってきたが夜はまだ冷える季節だ。悪いとは思いながらも、世恋はその扉をもう少しだけ開けて中を覗き込んだ。


 窓際におかれた寝台の上で男性が横になっているのが見える。窓から入ってくる月明りに照らされたその姿は、何刻か前に世恋が夕飯を持って行った時の姿と同じだ。


 その目のかすかな光から彼が目を開けていて、どこでもない天井の一点をじっと見つめているのが分かった。少し体をずらして手前にある小さな卓を見ると、そこには夕飯が何も手がつけられないまま乗っている。


「白蓮さん、少しは食べないと体に障りますよ」


 世恋は思わず扉の影から白蓮に声をかけた。世恋の声に驚いたのか、白蓮は寝台の上から半身を起こすと、入口に立つ世恋の方を見た。


「あ、すいません。ちょっと考え事をしていて、食べるのを忘れていました。すぐに食べますので、そこに置いておいてください」


 白蓮の言葉に世恋は首を横に振った。本当に食べる気があるのならこんな冷えてしまったものを食べる必要はない。世恋は部屋の扉を開けて中に入ると、卓の上の盆に手をかけた。


「どうせ食べるのならこんな冷えたものではなくて、温かいものをお持ちします」


「もったいないです。それにもう夜半を過ぎた時間です。そう言えば今日は誰も戻って来ない様ですね」


 白蓮が慌てたように世恋に声を掛けた。白蓮の言葉に世恋が頷いて見せる。


 そう言えば(旋風卿)も査察方に呼び出されて出かけて行き、美亜さんから送られてきた先触れによれば、風華と実季の二人は今日は研修所に泊まらせるとあったので、今夜この家に居るのは世恋と白蓮の二人だけしかいない。こんなことは白蓮から「ご苦労さん会」の相談を受けて以来の事かもしれない。


 世恋が盆から手を放して白蓮の方を振り返ると、白蓮は何か気恥ずかしいのか、世恋の視線から目をそらして窓の外を向いた。白蓮のその仕草に世恋は自分の姿を見下ろした。すぐ寝ると思っていたので、薄い部屋着を着ているだけだ。もしかしたら白蓮は自分が部屋着姿なのを気にしたのだろうか?


 世恋は頭を振った。そんなどうでもいい事など気にしているとは思えない。風華のことだけを思い悩んでいるのだろう。夕飯にも手を付けずにいる理由もそれだ。百夜を無事に連れて帰ってこれなかったことを、それで風華が大泣きしたことをずっと悔いている。それは決して彼のせいではないというのに……。


 部屋の書き物机の前にあった椅子を手にすると、世恋は白蓮が横たわる寝台の脇に腰を下ろした。白蓮が驚いた顔をして世恋の方を見る。そして再び気まずそうな顔をすると、窓の外へ顔を向けようとした。その姿に世恋は心の中で苦笑する。少しは自分の事を女性として意識してくれているのだろうか?


「風華さんの事が心配ですか?」


 世恋はそう白蓮に告げると、寝台の上の白蓮の手に自分の手を重ねた。夜風にさらされていた白蓮の手がとても冷たく感じられる。白蓮はその行為に少し驚いたような表情を受かべると、世恋に向かって口を開いた。


「はい。と言うよりも何も出来なかった自分に少しばかり腹を立てているというか、情けなく思っているだけです」


 そう世恋に告げた白蓮が苦笑いを浮かべた。だが世恋から見る限り、そこには何の感情の起伏もあるようには思えない。ただ唇の端を持ち上げて見せただけの様にしか見えなかった。


「生きて帰ってこれたのです。それだけで十分ではないでしょうか?」


 口から漏れた言葉は世恋の本音だった。あの城砦の大人達ですら生きて帰ってこれなかったところから帰って来たのだ。しかも今まで誰もが成し遂げられなかった事を成し遂げている。普通なら有頂天になってその武勇伝を祝いの客達に向かって大いに語ってもおかしくはない話だ。


 だけど彼にとってはそんな事はどうでもいい話なのだろう。ただあの赤毛の少女の心を傷つけたことに、風華の心を守ってやれなかった事に己が身を苛んでいる。


「どうでしょうか? 二人も欠けたのです。それにふーちゃんにとっては、百夜ちゃんが戻ってこなかったこと以上に悲しい事などないと思います」


「風華さんにとっては百夜ちゃんはその半身のような存在でしたからね」


 世恋から見た二人の関係はうらやましい限りだった。お互いに言い合いをしながらも、お互いの事を心から思いやっていた。まさに半身だった。


「その責任の一端は僕にあります」


 そう一言付け加えると、白蓮は世恋の目をじっと見つめた。今の白蓮の表情からは普段、白蓮が風華の前で演じている飄々とした雰囲気は全く感じることができない。触れればそのまま崩れてしまいそうな危うさをたたえていた。


「でも白蓮さん、風華さんは貴方が生きて帰って来れただけでも十分に喜んでいると思います。白蓮さんが戻って来れなかったら風華さんはもっと悲しんだと思います。ただ百夜ちゃんの事があって、それを素直に表せていないだけです」


「そうかもしれません。でもやはり自分のふがいなさに腹が立ちます。ふーちゃんは僕らの為に頑張ってくれました。だけど僕は一体何処で何をしていたんでしょうね?」


 白蓮はそう言うと、自嘲気味にくぐもった笑いをもらした。きっとこれが彼の本音なのだろう。確かに風華は自分を救いに来てくれた。


 しかし世恋に言わせれば、本当に彼女が守りたかったのは白蓮の背中なのだ。彼女にとって重要なのは白蓮がどこで何をしていたかなのではなく、白蓮という存在自体なのだ。心の中でそう思っても、世恋はなぜかそれを口にする事が出来ないでいた。


「『竜』を狩ったではないですか? 白蓮さんは誰もできなかったことを成し遂げたのです」


 私はずるい女だ。そして話をすり替えようとしている。世恋は心の中でそれを自覚した。


「何の意味もないですよ。それにそれは百夜ちゃんの力です。僕はただふーちゃんの負担になり、無限さんの命を奪う原因になり、そして百夜ちゃんを連れて帰ってこれなかった役立たずです」


「そんな悲しいことを言わないでください」


 白蓮は世恋に向かってとても済まなそうな顔をすると頭を下げた。だが世恋にとってその言葉は白蓮に向けたと言うより、それは自分に向けた言葉だった。


「すいません。ふーちゃんに面と向かって言えないことを世恋さんに言ってしまいました」


 世恋としては白蓮に謝って欲しいのはそこではなかった。いや謝ってなど欲しくなかった。世恋の心の奥で必死に抑えていた感情が外へと溢れ出そうとする。


 この人の目は、この人の心はあの子しか見ていない。そこには私の居場所などどこにもない。やはり彼にとっては風華だけが、あの子の事だけが大事なのだ。世恋の中にその言葉が木霊の様に飛び交っていく。


「やっぱり、白蓮さんにとっては風華さんが全てなんですね」


 世恋の言葉に白蓮が驚いた顔をして世恋を見つめる。私の口は何を言っているのだろう。何を……世恋はその視線に自分の中で何かが弾け飛んだのを感じた。


「どういう意味ですか?」


 白蓮はとても不思議そうな顔をして世恋を見る。その表情に世恋は自分が必死に抑えていた何かをもう抑えきれない事を悟った。この人は、この人は何も分かってはいない。私がどれだけ苦しんでいたかを!私がそれをどれだけ必死に抑えていたかを!


 世恋の心の奥底でくすぶっていた嫉妬心が感情のすべてを支配しようとしている。頭ではこれは自分がせっかく手に入れた世界を、この人との関係の全てを壊してしまうと理解していても、何の制御も効かない。


「言葉通りです。白蓮さんがいつも見ているのは風華さん。白蓮さんがいつも考えているのは風華さん。そして喜ぶのも傷つくのも全て風華さんですよね」


 世恋は自分から視線を外そうとした白蓮の頬に手を添えると、自分の方を向かせてその目をじっと見つめた。


「白蓮さんから見て私はどう見えていますか?」


 風華さんだけでなく私も見て欲しい。世恋の心がそう告げた。


「世恋さんですか? もちろんそれは美人で優しい……」


 白蓮が少しおどおどした表情で世恋の問いに答える。世恋はその答えに嘆息した。やはり彼からみたら私はお行儀のいい人形に見えているにすぎない。そしてせいぜいあの子のお姉さん程度の認識なのだ。


「やっぱり白蓮さんから見ても私はまるで人形のように見えるんですね」


「いや、そう言う意味では無くて……」


 白蓮が世恋の拗ねた口調に慌てて答えた。


「そう言っているじゃないですか。誰から見ても私はそうでしょうね」


「違いますよ。世恋さんの事を誰かが人形だなんて言ったら、間違いなくふーちゃんが殴り込みに行きます。もちろん僕もそれに付き合いますよ。付き合わなかったら首を落とされますしね」


 やはり風華だ。世恋の中では既に風華への嫉妬の心がもう抑えることなどできないほどに燃え上がっている。


「ほら、私の言った通りですね。私の事を聞いているのに、白蓮さんの答えは風華さんがどう思うかになっていますよ」


 世恋は白蓮の顔の前に自分の顔を突き出した。白蓮の目に月明りを受けた世恋の姿が映っている。だがその目には自分は一人の女性としては決して映ってはいない。


「白蓮さん、マイン家の人形はご存じですか?」


 世恋の中の理性が自分に告げる。この瞳に映った女は何を言おうとしているんだろう。そんなことを彼に言ってどうするつもりなんだろう? 彼に泣き落としをしようとしているのだ。


「マイン家ってアルさんや世恋さんのご実家ですよね?」


「そうです。私が生まれた家です。いや作られたと言った方がいいかもしれません。マイン家という家は私のようなまるで人形のような容姿を持つ娘を育てては、色々なところの権力者に与えている家です」


「与える……ですか?」


 白蓮が理解できないという顔で世恋を見た。


「ええ、文字通り『与える』です。権力者の歓心を買う。あるいはその権力者を色に溺れさせて骨抜きにする。それが私のような人形に与えられた役割なのです」


 そうだ。その通りだ。


「貴族の家に生まれた娘などというのは多かれ少なかれ同じような者です。ですが私達は生まれる前からそれを目的に血を重ねて作られた者です。だからその目的の邪魔になるような感情なんてものはいらない。ただ相手の歓心を買うようにだけ仕込まれた生きた人形です」


 私はせめて彼に憐れんでほしいのだ。


「私もその一人です。ただ私は母が兄にお願いして、人形としてどこかに送られる前に家を逃げ出せました。そして私はあの家を逃げ出せば、離れる事が出来れば人形ではなく人になれると思っていました」


 世恋はそこで一度言葉を切ると、自傷気味に肩をすくめて見せた。


「だけど違いました。ただ道具として使われることから逃げ出せただけでした。私は依然として人形であり、私の正体を知っている人から見れば私は依然道具にすぎません。それに正しくは私が兄を操って逃げ出したのです」


「操る? 一体どういう意味です?」


 そして彼だけが私を救ってくれる存在だという事を理解してほしいのだ。


「白蓮さん。私はただの人形ではありません。呪われた人形なのです。私は自分の力を使って私の願望を相手に重ねることが出来ます。あるいは相手の願望を奪うことが出来るのです」


 そして彼だけには私が何者なのかを理解してほしいのだ。たとえ兄達でも私の真実は分かってはいない。なぜならそこには私の願望が介在するのだから。彼なら私のありのままを見ることができる。


「それは何かの力で奪えるものなのでしょうか?」


 白蓮が当惑した表情で世恋に問いかけた。


「はい。誰かが私を意識した時に、その人は自分の願望が成立した気分になるのです。願いがかなった気分になったら、人は何かに向かって努力など出来るものでしょうか? 私と言う存在は周りの人にとって厄災そのものなのです。その人の生きる目的自体を奪ってしまうのですから」


 世恋の言葉に白蓮が首を振って見せた。


「世恋さん、そんな嘘をついても誰も信じませんよ。ふーちゃんも僕も、いやアルさんや歌月さんだってどう見たってそうは見えないです。アルさんだってかわいい妹の言う事を聞いているだけじゃないですか?」


「皆の願望と私の願望が一致しているからです。私がそうあって欲しいと望んでいるからです」


「そんな馬鹿な!」


 あなたには分からないでしょうね。あなたには、風華さんや百夜ちゃんには私の力が及ばないのだから。


「覚えていますか? 一の街で歌月さんに初めて会った時のことを? 歌月さんは白蓮さんや風華さんの事を認めていましたか? むしろ殺したいぐらいに思っていませんでしたか?」


 白蓮の世恋を見る瞳が大きく見開かれる。


「それは……最初はそうだったかもしれませんが……」


「兄はどうして皆さんの事を救う気になったのでしょうか? 兄が白蓮さんに最初に会った時の態度を覚えていますか?」


 白蓮の顔には何かを思い出したような表情が浮かんでいる。


「それは、きっと僕らがあまりに右往左往していて……」


 世恋の前で白蓮が激しく頭を振った。それは思いついてしまった何かを振り払おうとしている様に見える。


「私がそう望んだのです」


 私があなたを守ると決めたのです。そして風華さんからあなたを奪うと決意したのです。


「本気で言っているんですか?」


「はい。私は事実というのが大好きなのです。私の呪われた力からは兄や歌月さんですら逃れることはできないのです」


「でもみなさんは僕らの事を本当に助けてくれました。だってふーちゃんの事なんかは……」


「さっき説明した通りです。皆の願望と私の願望が一致していたからです。私は自分の願いを人に押し付ける事も出来るのです。その場合は私の呪われた力もそれ自体が希望たりえたのです。私も初めて知りました」


 それを思い出した世恋の目から涙が溢れそうになった。そして今日で私はその全てを失いつつある。


「皆さんと一緒に旅をして、色々な事に立ち向かって、自分が呪われた存在としてではなく誰かの役に立てる。それ自体はとても幸福なことでした。でもだからと言って私は人になれたことになるのでしょうか?」


 世恋はわざとらしく白蓮に向かって首を傾げて見せた。自分が彼らに会う前の自分に、ただ自分自身を呪い続けていた自分に戻ってしまった気分になる。本当は、本当なら私はそこで満足するべきだったのだ。あなたへの私の思いなどという物は、心の奥底でずっと蓋をしておけば良かったのだ。


 せめてあなたが少しでも、私を一人の女として意識してくれていれば、私はそれで満足できたのかもしれない。だけどあなたの、あなたのあの表情を見たら、それを見たらとても止めておくことは出来なかった。もう全ては手遅れだ。


「白蓮さんは私を、私を一人の人として見ていますか? 白蓮さんにとって私はちょっとばかり見栄えが良くてお行儀がいいお人形にしか見えていないですよね?」


「世恋さん、もちろん世恋さんは人ですよ。誰が何と言おうと、世恋さん自身が何と言おうと、魂を持った一人の人です」


「分かっていますか!白蓮さんの事を心配しているのは、風華さんだけではないんです。私だってどれだけあなたの事を心配していたか、自分が貴方の重荷になったことをどれだけ恥じたか。私は兄の事なんかより貴方の無事だけを祈っていました」


「僕……ですか?」


「そうです!貴方は私にとってただ一人の存在なのです。唯一の希望なのです。どんなにあきらめようとしても、どんなに自分を納得させようとしても、私がどんなに風華さんの事が好きでも、私はあなたの事を愛しているんです。諦められないんです!」


 世恋は白蓮の胸に手を添えた。そこからは白蓮の心臓の鼓動が直接手のひらに響いてくる。


「私を愛してくれとは言いません。ただあるがままの私を人として、一人の女性として受け入れて欲しいのです」


 白蓮の体に世恋は自分の体を這わせた。そして何かを告げようとしたその唇を己の唇で塞ぐ。


「そして私はあなたが思っているほど行儀がいい女では無いのです」


 世恋はそのまま白蓮の体を寝台の上へと押し倒した。

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