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後悔

 柚安の顔の上を何か冷たいものが流れていく。それは衣服の上を伝わりそして地面の上へと染みを作った。


『なんだこれは?』


 地面に置かれた覆いを落とされた角灯のぼんやりした灯に、それが赤い液体であることが分かった。側頭部に鈍い痛みもある。


『あぁ!』


 柚安の口から思わず叫び声が上がりそうになった。慌てて傷口を確かめようとするが、どうやら手は後ろ手に布で縛られているらしく、身動きが取れない。


「あら、そんなに驚くだなんて、意外と小心者なんですね」


 頭の上から女の声が響いた。手には何やら瓶のようなものを持っている。


「血なんかじゃありませんよ。単なる葡萄酒です。でもさっきの慌てた顔もかわいかったですよ」


 液体からは酒の匂いが漂ってくる。女が言うようにこれは単なる赤葡萄酒らしい。


「先触れは夜には飛んでくれませんからね。ちょっと時間もあります。さあて、どうしましょうか? 朝までお話でもします。それとももっと夜の男女らしい事でもしましょうか、柚安様?」


 草むらに空き瓶を放り投げた女が、柚安の方を向くとにやりと笑って見せる。


「お前は何者だ?」


 女は柚安の問いには答えずに、地面に尻もちをついて座り込んでいる柚安の横にしゃがみこむと、その鼻先を指でちょんとつついた。


「それを質問できる立場に居るとは思えませんが?」


 ふざけている。柚安は率直にそう思った。たかが事務官だ。この女からみたら何の脅威でもないという事だろう。ならばこちらもせいぜい付き合うまでだ。そう心に決めると柚安は女に対して口を開いた。


「そうかな? どうせ長生きできる訳ではないのだろう? 教えてくれてもよくないかな?」


 柚安は少しばかり芝居かかった声を使って女に問い掛けた。


「やっぱり柚安様はその真面目なお顔が一番です。でも駄目ですよ」


「そうだろうね。でも君は桐輝さんの手下の長い手なんだろう。確かに僕が知りたいような事は何も知らないのかもしれないね」


 女が口元にわざとらしく手を当ててクスリと笑って見せた。


「もう、柚安様って危険ですね。そんな目で見つめられて頼まれごとなんてされたら、教えてあげたくなってしまうじゃないですか? 知っています? ご実家で働く私のような若い女性は皆、柚安様に見初められてなんてことを夢みているんですよ。だからあの赤毛さんを連れて来たときは、もう皆がびっくりして泣きわめいてました」


 そう言うと、柚安に向かって両手を上げて見せる。こんな無駄話をするという事は、どうやら自己顕示欲が強い性格らしい。


「それは知らなかったな」


「あら、本当ですか? とても信じられませんね。そうそう、あの赤毛さんとの関係はどうなんですか? もう味見は済んでいるのでしょうね」


「君は私の事を誤解しているようだね」


「そうですか? 柚安様も殿方ですよね。赤毛さんがお気に召したなら私はどうでしょうか?」


 そう言って上着の裾を上げて見せる。そしてその緑色の目でじっと柚安を見つめた。


「君かい? この状態じゃ試しようがないね」


「柚安様ってかわいいだけじゃなくて、少し意地悪なんですね。女心を弄ぶのがとっても上手です。こっちが本物なんですけどね」


「本物?」


 女は柚安の問いかけを無視すると、葡萄酒を入れていた袋からわずかに顔を出していた、竹でできた箱を指さした。


「これは何ですかね?」


 そして指でつまんで袋から取り出す。


「お弁当箱!私の後をつけるのにどこかの女性にお弁当を作らせるだなんて、流石は柚安様ですね。弁当を作った方にはちょっと焼けます」


 そう言うと、その箱をぽいと地面に捨てた。


「それは大事なものだ。悪いが拾って袋の中にしまってくれないか?」


 お前のような者にぞんざいに扱って欲しくはないものだよ。柚安はそう心の中で付け加えた。


「あら、怒りました? 怒った顔も素敵ですね。でも入ったままだとちょっと都合が悪いんです」


 女が意味ありげに笑みを浮かべて見せる。


「どういうことだ?」


「だって柚安様のお顔を見ていると、もったいなくなって仕事がすぐに終わらなくなるじゃないですか? だからこれを被っていてもらいたいんですよ。じゃないとあちらこちらを刺しながら、そのお顔が苦痛で歪むのを眺めたくなりますけどいいですか?」


 女が本当にうれしそうな顔をして柚安を見る。


「気が狂ってるな」


「この仕事って意外に楽しみがないんですよ。そうですね。私に『愛している』とか言ってもらえれば、その出来次第では楽に殺してあげられるかもしれません」


 この女はどこまで本気で言っているのだろうか? だが柚安の目には女が本気で言っているようにしか見えない。


「言ったら助けてくれるとかはないのかな?」


「もちろん冗談ですよ」


「だろうね」


 女の顔が素の冷たい感情の感じられない顔へと戻る。その表情に柚安は覚悟を決めた。

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