無力
関門のこちら側で誰がどう耕しているのか分からない麦畑が見える。その端にぽつりと立つ一軒家の前で馬車は止まった。建物の屋根の小さな煙突の上で、風見鶏が東からの風を受けて小さく揺れている。
辺りに人影はない。シーンと静まり返った中で、麦踏されてすぐの麦畑の方から微かに小鳥の鳴き声だけが響いてきた。茶色く枯れた蔦で覆われた入り口の半円の囲いの先へと進むと、庭の張り出しの上に見慣れた小さな卓と椅子が置いてある。
背後に立つアルさんの方をふり返ると、僕に向かって先に行けと手で合図をした。樫の木で作られた扉の前に立ち、その真ん中の小さなすり硝子の下に備え付けられた、銀色の円い叩き金を叩く。
すり硝子の向こう側で誰かが動く気配がしたかと思ったら、いきなり勢いよく扉が開いた。扉の向こうで鼻の横と頬に小麦の粉らしきものをつけた顔が、僕に向かって満面の笑みを浮かべている。彼女の赤毛が通り抜ける風に揺れていた。
「おかえりです!」
ふーちゃんはそう告げると、小麦の粉で真っ白な手を前に差し出して、そのまま僕の胸へと抱き着いた。彼女の少しばかり跳ね気味の赤毛が僕の鼻と頬をくすぐる。
「ふーちゃん、ただいまです」
「お、でかいのもちゃんと帰って来たな!」
ふーちゃんが顔を上げて、僕の背後に立つアルさんにも声をかけた。
「ただいま戻りましたよ。妹もこちらですか?」
「もちろんです。ここは世恋さんのお家ですよ!」
アルさんの言葉にふーちゃんが答えた。間違ってはいないと思うけど、ここはアルさんのお家でもあると思うんだけどな。
「もう、いつこちらに着くのか先触れを先に送ってもらわないと。もうちょっと時間があると思ったから麺麭はまだ仕込み中。でもすぐに何か温かいものを用意するね」
「白蓮さん、お兄様、お疲れさまでした」
ふーちゃんの背後から鈴の音のような声が響く。その声の先には白い前掛けをした世恋さんが立っていた。その黄金のような髪は、実季さんのように頭の後ろの高いところでまとめられている。やはりこの人はどんな姿をしていても美しい。
その後ろでは長椅子に身を横たわらせた歌月さんが、僕らに向かって赤い液体が入った瑠璃の杯を掲げている。その横ではやはり前掛け姿の実季さんが、ふーちゃんと同じように小麦の粉をちょっとばかり顔につけて、少し恥ずかしそうに立っていた。
「今回は少しばかり疲れました。もう若くはないですな」
アルさんは世恋さんに向かってそう告げると、手にした槍を居間の入り口横の架に立てかけた。アルさんの槍の重みに架がきしむ音が居間に響く。
「おや、一番うるさいのはどこかに隠れているのかな?」
ふーちゃんが僕から離れると、入り口の扉の向こうを伺った。
「お腹が減りすぎて、庭の葉っぱとか食べてないでしょうね。世恋さんに怒られますよ!」
そう言いながら扉の先を覗き見たふーちゃんが、「あれ?」という顔をする。
「ふーちゃん、百夜ちゃんだけど……」
「もしかして監視所あたりで食べ過ぎて……」
「連れて帰ってこれなかった」
僕の言葉を聞いたふーちゃんが、意味が分からないという顔で僕を見ている。
ガチャン!
ふーちゃんの背後で何かが床に落ちて割れる音が響いた。世恋さんが口に手を当てて、蒼白な顔をしているのが見える。床に落ちた茶器からは、中に入っていたらしいお茶の爽やかな香りが辺りに広がった。
「帰ってこれなかった?」
ふーちゃんの口から小さく声が響いた。その顔は未だに訳が分からないという表情だ。彼女の赤みがかかった茶色の目が、その答えを探すかの様に僕の目をじっと見つめている。はっきりと言わないといけない。言わなくちゃいけない。僕は彼女の両肩にそっと手を添えた。
「ふーちゃん、すまない。僕らは彼女と一緒にここまで戻って来れなかった」
彼女の僕を見る目が大きく見開かれる。
「白蓮、どういうこと!?」
ふーちゃんはそう叫ぶと、僕の添えた手を振りほどいて、両手で僕の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「僕の不注意と力不足だ」
ふーちゃんの僕の肩を掴む手に力が入る。
「百夜に何があったの? 男でしょう!はっきり言いなさい!」
「行方不明だ」
「行方不明?」
再び彼女の顔によく分からないという表情が浮かぶ。
「僕らがあれを狩った後に彼女は居なくなったんだ」
「あれって何なの!」
「『竜』だ。百夜ちゃんの力のおかげで僕らは穴で『竜』を狩った。その時になぜか彼女が大泣きをして、休むと僕らに告げた後で居なくなったんだ。僕らが初めて彼女に会った時のように、煙のように消えてしまったんだよ」
「消えるってどういう事!?」
「分からない。僕らはみんなで穴の中やら洞窟中やらを丸一日捜索したが、彼女の痕跡すらも見つからなかった。争ったり襲われたりした跡もない。本当に消えてしまったんだ。目を離した僕が……」
「白蓮」
ふーちゃんの顔つきが変わった。これはふーちゃんが何かを決心した時の顔だ。彼女の目に揺るぎない決意の光が宿っている。
「ふーちゃん?」
「戻ってきてすぐで悪いけど、行くよ」
「行くって?」
「その穴というところに行くよ。どれだけ遠いか分からないけど、百夜がそこに居るのならどんなに遠くても関係ない。そこまで行ってあれの頬を張り倒して、ここまで引っ張ってくる。そして皆に迷惑を掛けた事を謝らせる!」
「行っても何処にいるか……」
ふーちゃんが足で床をどんと踏み鳴らした。そして僕の胸倉を掴む。
「その辺に食べ物を置けばすぐにでも現れるわよ!白蓮だってあれがどんだけ食いしん坊かは良く知っているでしょう? もしかしてそれを試してみなかったの!?」
「絶対に無理ですな」
アルさんはそうふーちゃんに告げると、僕の胸倉をつかんでいた彼女の手を抑えた。
「でかいのはだまっていろ!」
ふーちゃんはアルさんにそう叫ぶと、僕の胸倉から手を離して掴まれた手をむりやり振りほどこうとする。だがアルさんはその腕を離さずに、そのままふーちゃんの顔を覗き込んだ。
「お嬢さん、あなたはそこがどれだけ遠い所か、どれだけ過酷な所か分かっているのですか? 最初のそこに潜った穿岩卿や音響卿と言った名だたる城砦の大人達が、揃いも揃って遠いところにいったんですよ。今回も無限卿が遠くに行ってしまいました。貴方はそこに白蓮君と二人で行くつもりですか?」
アルさんの言葉にふーちゃんの表情が固まった。
「無限さんが遠くに?」
ふーちゃんが驚いた顔で僕を見る。僕は彼女に向かって頷いて見せた。
「そうです。私達だって戻って来れたのは奇跡みたいなものです」
アルさんはふーちゃんにそう告げると片手を上げて見せた。
「行きます。例えどんなところだろうが、行くに決まっているでしょう!だって百夜が待っているんだよ!」
ふーちゃんはアルさんから腕を振りほどこうともがくだけじゃなく、足でアルさんの足を踏みつけようとまでして暴れる。
「どうでしょうかね? 彼女は本当にあなたを待っていますかね?」
「何を言っているの? 当たり前でしょう!」
「違いますね。それは貴方の単なる思い込みにすぎません」
「あんた、言いすぎだよ」
アルさんの言葉に歌月さんが声を上げた。だがアルさんは歌月さんの方を一瞥すると、手をかざして歌月さんがこちらに来ようとしたのを制した。
「歌月さんは少し口を閉じていていただけませんか? この子ははっきりと言ってあげないと分からない人なのですよ」
アルさんは歌月さんにそう告げると、暴れるふーちゃんを一顧だにせず、再びふーちゃんの顔を覗き込んだ。
「百夜嬢は自分の意思であそこを去ったのです。彼女はあなたの下僕か何かですか? なぜ彼女は貴方のわがままに従わないといけないのです?」
その言葉にふーちゃんの動きが止まった。そしてアルさんの顔をじっと見る。
「わがまま?」
「そうです。彼女に一緒に居て欲しいと思っている貴方の我がままです」
「お兄様!それ以上風華さんに何か言ったら絶対に許しません!」
ふーちゃんの背後で世恋さんの声が上がった。その声は叫びと言うより悲鳴に近い。アルさんが手を離すと、ふーちゃんはそのまま膝をついて床にへたり込んだ。慌ててその体を支える。
「ふーちゃん……すまない。本当にすまない。全て僕のせいだ……」
だがふーちゃんは僕の言葉に首を横に振った。
「白蓮、ごめんなさい。せっかく無事に戻って来たのに、あなたを責めるなんてどうかしている。うん、私どうかしているね」
その目には大粒の涙が光っている。それは彼女の頬についた小麦のところにしばし留まったのちに、床の上へと落ちて小さな染みを作った。
「旋風卿もごめんなさい。貴方の言う通りですね。全ては私のわがままです」
ふーちゃんがアルさんに向かって頭を下げる。
「風華さん?」
世恋さんがふーちゃんに向かって小さく声を掛けた。アルさんに下げていた頭を上げると、ふーちゃんが世恋さんの方を振り返る。そして再び頭を下げた。
「世恋さん、実季さん、ごめんなさい。発酵はもう終わっていると思うので、麺麭を焼くのはお願いしてもいいでしょうか?」
「風華さん、そんなことより……」
だがふーちゃんは世恋さんの言葉を最後まで待たずに、服の袖で涙を拭って見せた。彼女の頬についていた小麦がすこし引き延ばされて、袖にも白い跡を描く。
「いつの間にか顔が粉だらけになっていたみたいですね。顔を洗ってきます」
彼女が僕らに向かって必死に作り笑いをしようとする。だが彼女の目から涙の粒が次から次へと落ちて、頬を伝わっていくのが見えた。
「ふーちゃん?」
彼女は僕の呼びかけを無視すると、そのままくるりと後ろを向いて廊下の奥へと走り去っていく。
「何で、何で勝手にいなくなるの!」
薄暗い廊下の先から彼女の叫び声が響いてきた。
「うわ――――ん!!」
その叫びはやがて彼女の大きな大きな泣き声へと変わる。僕は彼女のあまりに切ない泣き声を聞きながらも、何も出来ずにただそこに立ち尽くすしかなかった。




